幼き頃の記憶(四)
中の声が消え、そこからしばらくすると、中に入った男が出て来る。
これはこの男に限らす、ミルティアナにとってはいつもの光景だった。
「健気だねぇ、こんなとこで待ち続けるなんて」
ニタニタとした、気味の悪い笑みを男は浮かべている。
それでもなお、ミルティアナは笑顔を絶やすことはなかった。全ては言いつけ通りに。
「お嬢ちゃんの母親は本当に最高だよ。たがお嬢ちゃんはその上をいくのだろうなぁ」
男はその場にしゃがみ込み、ミルティアナと視線の高さを合す。
「あ、ありがとうございます」
「あははは。そう言うように、母親に仕込まれてるんだな。あれは計算高い女だよ、本当に」
(ああ、いやだ……)
それでも必死に、ミルティアナは笑顔を作った。
ミルティアナにとって、心を守るモノはそれしか持ってはいなかったから。
「さあ、お別れの挨拶をしておくれ」
「はい。ありがとうございました」
ミルティアナはそう言いながら男に近づくと、その頬にキスをした。
「その柔らから唇、たまらないな。ああ、ホントに楽しみだよ。ほら、お小遣いだ」
男は満足そうに微笑んだあと、ミルティアナに銅貨一枚を握らせる。
そうこれが日常。ミルティアナはその硬貨を強く握りしめ、男の姿が見えなくなるまでその場にいた。
そして男が見えなくなると、母のいる部屋に入っていく。
「ミルティアナ、お小遣い貰えたんでしょ」
ベッドの上で全裸で横たわる母は、ミルティアナに手を差し出す。
「……うん」
もう一度硬貨を強く握りしめたあと、ミルティアナは母のそれを渡した。
部屋の中は、鼻につくような生臭い匂いが充満している。
いつものようにミルティアナは小窓を開け、部屋の掃除を始めた。
母は男からもらったチップと、ミルティアナから回収した金を数えている。
そしてドロドロになったシーツを剥ぎ取り、丸めて洗濯かごに入れ、新しいシーツを敷く。
(きもちわるい)
そしてテーブルに置かれた飲み物を片付け、床を拭いた。
その間、母はその姿をぼーっと視界に入れつつ、着替えている。
この掃除をさせられたばかりの頃、泣き叫びながら何度も吐いたミルティアナの面影はもうない。
あくまで淡々と、その作業をこなしていく。
「おりこうさんね、ミルティアナは」
そう言うと、母は満足げにほほ笑んだ。
「ミルティアナがこっちに来る時は、もっともっといいお店を探さないとね。ああでも、どこかのあなたのその顔なら、貴族に嫁ぐこともできるかもしれないわねー。それなら、いい人を見つけないと」
(いやだいやだいやだいやだ)
ミルティアナは泣きそうになるのを、笑顔で覆いつくした。
「それ、洗濯場に出して来たら、またいつも通りよ。今日はあと二人くらい客をとらないと」
「うん」
飲んだくれる父の代わりに働く母は、どんなに文句を言っても父を捨てはしない。
そしてその仕事と、なによりお金のために、母はミルティアナを使うことを決して辞めない。
そう、なにも変わらない。それがミルティアナの日常だった。