29話 第二形態になってみた
全てがうまくいくはずだった。
全てがうまくいっていたはずだった。
全てがニーズヘッグの思惑通りに進み、世界樹の破壊は順調に進んでいた。
それなのに、今……。
ニーズヘッグはなにが起こっているのか理解できなかった。
『……な、なにが』
眼下に広がる光景を見て、ニーズヘッグは呆然とする。
それは、一瞬のことだった。
一瞬で、眷属の蛇たちが――木に喰われた。
ニーズヘッグの力をもってすら、理解不能な光景。
人間たちに、あの蛇に対処する力はないはずだ。
圧倒的な力の前では、全てが無意味のはずだ
それなのに……なんだ、この状況は。
『……っ!?』
そこで、ふいに強大な魔力の接近を感じた。
視界の端に、人影のようなものを捉える。
ニーズヘッグはとっさに、その人影へ向けて火炎を吐いた。
おそらく、反応すらできなかったのだろう。人影は炎を避けることなく、その灼熱の中に無慈悲に呑み込まれていく。
人間など一瞬で灰と化す、破壊の炎だ。
直撃して、生き残ることができる者などいない。
そのはず……だった。
「水魔法Lv10――【アブソリュート・ゼロ】」
炎の中で、一つの魔法名が唱えられた。
そのたった一言で――世界が、白く凍りついた。
吐いた炎が、消滅する。
いや、吐いた炎だけではない。世界樹を喰らっていた膨大な炎も、ついでと言わんばかりに鎮火させられた。
水をかけられたわけでもない。
風で吹き消されたわけでもない。
……炎が、冷やされたのだ。
『……な、んだと?』
たしかに、炎の熱を冷やすことができるのなら、どんな炎だろうと消すことができるだろう。だが、冷やすのは熱するよりも、はるかに困難だ。あまりにも非効率的だし、現実的ではない。
それなのに……その人影が放った魔法は、ニーズヘッグの炎を冷やしきっただけでは飽き足らず、さらに辺り一帯の空気をも凍りつかせた。
いきなり吹雪の中に迷い込んだかのように、視界がホワイトアウトする。ニーズヘッグの身体もぴきぴきと凍りついていく。翼の飛膜が強張っていくのを感じ、ニーズヘッグは慌てて炎を吐いた。
その炎の熱で、白く染まっていた視界が晴れると――。
「――頭が高いぞ。俺の御前だ」
空の覇者である竜よりも、さらに高みに――。
――それは、いた。
炎を浴びた程度のことなど意に介さないというように、超然とした顔で、人間が空に立っていた。
いや……それを、“人間”と呼んでもいいのだろうか。
穢れ一つない純白の翼が、悪魔のような歪んだ角が、獣のような鉤爪が、竜のような尾が……彼が人間ではないと主張しているようにも思える。
しかし、そんなことは……もはや、どうでもいい。
『…………………………』
息を呑んだ。
時間が止まった。
呼吸さえ忘れて、恐怖と絶望のあまり――。
――――魅入られた。
「では……」
と、人間がゆっくりと口を開く。
「まずは、なぜお前が今から負けるのかを教えてやろう」
それは、まるで神からの宣告だった。
「お前の敗因は、俺の目の前にいることだ。お前は、俺が本気を出す前に、すぐに逃げるべきだった」
『い……意味が、わからんな』
なんとか、言葉を絞り出す。
一度、反抗したためか、頭は冷静になってきた。
たしかに、相手の存在感は強い。しかし、人間であることは確かだろう。
一方、ニーズヘッグは人をはるかに超越した竜だ。
それも、竜の中の竜――竜王である。
さらにニーズヘッグは、封印されている間に、魔力を増幅させていた。過去に封印されたときよりも、はるかに強い。神の領域に片足を突っ込んでいるような、膨大な力の奔流が体内で渦を巻いている。
冷静に考えれば……負ける理由がない。
『何者かは知らんが、しょせんは人間! 人は、竜には勝てん!』
そうだ。相手が何者か、どんな力を持っているのか……そんなことは、どうでもいいのだ。
圧倒的な力で消し飛ばせば、全ては無意味。
ニーズヘッグは翼をはためかせ、人間へと襲いかかる。
『愚か者め! 我が力、思い知るがよい!』
人間に向けて、前足の巨爪を振り下ろす。
爪でも牙でも尾でも、なんでもいい。なにか1発でも攻撃が当たれば、その脆弱そうな体は消し飛ぶはず……。
しかし、そう思っていられるのもつかの間だった。
「剣術Lv10――【次元斬】」
いつの間にか、人間の手の中に光の剣があった。
それを視認した瞬間――。
ニーズヘッグの前足が、千切れ飛んだ。
『…………は?』
斬られてはいなかった。
それなのに――切断られた。
『……な……に……?』
理解が、遅れる。
あとからやって来た激痛で、ようやく前足がなくなったことに気づいた。
生まれて初めての激痛だった。
ニーズヘッグは竜の中でも圧倒的な防御力を誇る。これまで、まともに傷をつけた存在はいなかった。ニーズヘッグを封印したかつての英雄すらも、滅びの刻を遅らせるために、固有スキルで強引にニーズヘッグを封印させただけだ。
「ふむ……少し、ハンデが足りないか」
痛みにもだえる竜の王を、人間が高みから見下ろす。
「そうだな、では……1つ、ゲームをしよう」
『……ゲーム、だと?』
「ああ。今からしばらく、俺はこの場から動かないでいてやる。その間に、もしお前が俺にダメージを与えることができたのなら……お前を見逃してやってもいい」
『……ッ! な……めるなッ、人間風情が!』
ニーズヘッグが咆哮を上げながら、ふたたび人間に急接近する。
前足を失ったが、今の一幕で、敵の手の内はつかめた。
この人間の武器は――剣だ。
だが、剣など、しょせんは魔術杖や弓や槍の“予備”にすぎない。おそらく、先ほどの大魔法でMPが枯渇したため、剣を使わざるを得ない状況になったのだろう。
しかし、物理的な戦いでは、結局リーチが長いほうが勝つのだ。とくに身動きが取りにくい空中戦なら、なおさらのこと。
ニーズヘッグはふたたび爪攻撃をすると見せかけ――ぶぉんっ! と、その尻尾を人間へと振るった。大木のような巨大な尻尾だ。その質量がまともに直撃すれば、人間など一瞬でミンチになるはず……だった。
「斧術Lv10――【クー・ド・グラス】」
すぱんっ、と。
人間に直撃する寸前に、あまりにも軽々しく――。
――尻尾が、切り落とされた。
『……な、ぜだ』
虚をついた。
こちらのほうが先に攻撃していた。
反撃できるような時間はなかった。
それなのに――届かなかった。
なにをされたのかすら、わからなかった。
「……ああ、すまないな。もしかして、反撃もしないほうがよかったか?」
『なめ、るな……ッ!』
近づくことができないのならば、遠距離から仕留めるまで。
ニーズヘッグが大きく息を吸い込む。
今から放つのは、可燃性ガスを発火させて噴射するだけの火炎ブレスではない。
体内魔力を練り上げて放つ、ニーズヘッグ最大の技――。
――【終焉の炎】。
世界を灰塵に帰す、終末の獄炎だ。
先ほどは大魔法で打ち消されたが、あれほどの魔法をそう何度も使えるはずがない。ただ一人の人間に使うには惜しい技だが、これで決着だ。
ニーズヘッグが口から――ごおおおおおおっ! と、空を焦がし尽くすほどの爆炎が噴射される。
「ふむ……もうワンパターン戦法になるのか、つまらん」
人間はがっかりしたように呟くと。
その手の中に、光の大弓をすらりと出現させた。
月光を結晶化させたような、美しく壮大な弓だった。一輪の花のようにしなやかで、夢幻のように儚い。武器というより芸術品に近いその大弓の弦に、人間は光の矢をあてがう。
「弓術Lv10――【クレセントムーン】」
竪琴のような音を奏でながら、光の矢が射出された。光の矢は【終焉の炎】を真っ向から蹴散らし、勢いそのままに、ニーズヘッグの喉を――貫いた。
『……が、ふッ!?』
激しく吐血する。
痛い。苦しい。息ができない。
しかし、それ以上に、混乱していた。
……【終焉の炎】が、消された?
全てを出し尽くしても、あの人間には攻撃を届かせることすらできないというのか……?
「さて、ウォーミングアップは終わったか?」
ニーズヘッグの絶望など知ったことかと言わんばかりに、人間がこてんと首を傾げる。
「そろそろ、俺を楽しませてくれ。まだ……お前がバカにしていた“人間のスキル”しか使ってないんだぞ?」
『……っ!?』
ぞくっ、と悪寒とともに理解する。
……遊ばれている。
この竜の王が、人間に……。
あまりにも理から外れた人間だ。
戦術も、知略も、常識も、この人間には通用しない。
……圧倒的な力の前では、全てが無意味だった。
もはや、この人間を“強い”と思うことすらできない。
力量を推しはかることなどできない。
――理解、できない。
すでに恐怖はなく、絶望だけがあった。
ああ、この人間の言う通りだ。
……逃げる、べきだった。
もはや、戦おうとは思えない。後悔だけが胸の内に膨れ上がる。
「ふむ……もう、ゲームは終わりか?」
なにもしてこないニーズヘッグを、人間が見下ろす。
失望したような目を向けてくる。
『ま、待て!』
ニーズヘッグは、思わず声を上げていた。
『か、考えてみれば、我らが戦う必要もあるまい。そうだ……我の味方になるのならば、世界の半分をやろう! どうだ、悪い話ではあるま……』
「なあ」
人間が、静かに問う。
「俺がいつ、命乞いを……許可した?」
『……っ!』
「お前は、俺の玩具だ。俺を楽しませること以外は、許可されていない」
その言葉で、ニーズヘッグは気づいた。
人間が自分に向けている目は……たしかに、玩具を見る目だった。
……最悪だ。
目の前にいる人間が、悪い竜を倒しに来た“正義の味方”であったのなら、どれだけよかったことか。
「そうそう……お前はもう一つ、勘違いをしているようだ」
『……勘違い?』
「ああ。この世界は、俺の玩具だ。ゆえに、この世界の全ては、俺のものだ」
人間が、にぃぃぃ、と悪魔のように口元をつり上げる。
……この人間は、暴虐の化身だ。
純粋悪にして、絶対悪。
悪としての格が違う。純度が違う。
今ままでのニーズヘッグは、戯れに生かされていただけ。
飽きられたら――壊される。
そんな玩具にすぎなかった。
「では……そろそろ、ゲームオーバーの時間としよう」
これで話は終わりとばかりに、人間が空へと手を掲げた。
その瞬間――。
空一面に、じわ……と赤黒い模様が染み広がる。
一瞬、それがなんなのかわからなかった。
わかるはずも、なかった。
『……あり、えぬ』
……天空魔法陣。
空の模様の全てが、天空魔法陣だ。
天空魔法陣は1つ展開するだけでも、神話レベルの魔力や技術を要する。
それが今、空をびっしりと埋め尽くしていた。
まるで、世界が血を流しているかのように、空がどろりと赤く染まる。
「絶望を、許可する――」
そして、その絶望の名が告げられる。
「――――【アポカリプス・ノア】」
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