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伯爵の復讐は始まった、はずだった

 セルジュが寝室の扉を開くと、髪を下ろしガウンを羽織ったリュシーが寝室のベッドに腰掛けているのが見えた。ずいぶん待ったに違いないのに、リュシーはのんきな性格なのか特に怒った様子も不安そうにする気配もなくにっこり笑った。


 セルジュはあからさまに顔をしかめた。思っていた反応ではないことに失望が隠せなかった。


(もっと待たせればよかったか。……が、本番はこれからだ)


 セルジュは目を細めた。リュシーの体をじろじろと不躾に眺め回してから、鼻を鳴らして酷薄そうに唇を曲げる。


「貧相な体だな。伯爵令嬢だとは思えんみすぼらしさだ。若い女と結婚したつもりが老婆だったらしい。それかせいぜい飢えたロバ、朽ちた案山子というところか。いやもっとひどい、まだこれなら木の枝とでも結こ――」

「ええ、そうなんです!」

「え?」

「ご存じでしょうけれどお父様がお倒れになってから心労が耐えませんでしたの。それで酷く痩せてしまって、髪の手入れをする余裕もなかったのです。お父様のお体のこと、領地のこと、今後の身の振り方、わたくしの結婚、それから」

「……」

「あら、どうかなさいまして?」

「……。いや、お前なんか」

「わたくしもそう思いましたわ、おっしゃる通りなのです! お父様が助かればわたくしなんて、と何度も考えました。けれどもどうにもならず……わたくしの生活は一変しました。わたくしにすり寄り、媚を売り、隙あらば襲おうとする者までおりましたわ。けれどもセルジュ様、貴方様が彼らを追い払って下さって。ありがとうございます」


 滝のような勢いで話し続けたリュシーは、ポッと赤らんだ頬を両手で押さえた。

 リュシーは絶望に打ちひしがれるどころか、結婚式のときよりもさらに艶めかしく元気になっていた。


 セルジュは顔を引きつらせた。

 この、リュシーの謎の自信と、勢い。予想していた令嬢とはだいぶ違う。


 が、セルジュはハッと気を取り直した。自信があろうと勢いがあろうと令嬢は令嬢だ。ただの箱入り娘だ。平民の孤児から必死でここまでのし上がってきたセルジュに敵うはずがない。


「は、お前のために結婚したとでも? 自惚れ屋なところは父親にそっくりだな! そのくせ父親よりも頭は鈍く、愚かで」

「ええ、そんなわたくしを娶ってくださって本当に感謝いたします」

「……。娶ってくださって感謝だと? 本当に何もわかっていないのだな。あなたはこれから愛されることもなく絶望にまみれて一人寂しく死んでいくことになるんだ。私に愛されるとでも思ったか? 哀れなことだ、私はあなたを愛することはない」


 脳天気な愚か者め、とリュシーをせせら笑う。


(さあ、泣きわめけ)


 ブロー伯爵は国王の信頼厚い有力貴族の一人だった。そのブロー伯爵の溺愛する一人娘となればさぞや周りからチヤホヤされて育ったに違いない。

 結婚したばかりの夫が本当は自分を愛していないなど予想外だろう。


「結婚誓約書はすでに受諾されている。今さらやめようと思っても無駄――」

「ええ、愛されないのは仕方のないことですわ。恋愛結婚でもございませんし、今更でございましょう?」

「……え? は」

「国王陛下から、セルジュ様はお父様の意思と仕事を継いだとうかがっております。しかもそれにとどまらず、わたくしと政略結婚してまでお父様の爵位の領地を守ろうとして下さるなんて!」

「え、まっ」

「もしわたくしが結婚しなければブローの爵位と領地ははとこの手に渡るはずでしたの。あの方、表向きは良いのですけれど父の後釜に座れるほどの能力も気概もないのですわ。なにより浪費家ですから! きっとこの領は疲弊し荒廃したに違いないのです。ですからセルジュ様に求婚して頂いたときは夢かと思いました。セルジュ様でしたらきっと」


 リュシーはまたセルジュに口を挟ませる間もなく怒濤の勢いで話すと、言葉を詰まらせ、感極まった様子で涙をぬぐった。


 セルジュはポカンと口を開けた。


(せ、政略結婚…………?)


 いや、確かに政略結婚である。領地や爵位のためではなく復讐のための、であるが。

 しかしそれはセルジュだけの秘密であって、リュシーや周りはこれを恋愛結婚だと思い込んでいる。はずだった。


(なぜ恋愛結婚だと思っていない!?)


 セルジュは求婚するに当たって、復讐のために集めたブロー家のあらゆる情報を洗い直した。そこからリュシーの好きな食べ物、好きな宝飾品、好みの色、好みのタイプなどを割り出して、全身全霊をもってリュシーを口説いた。

 贈り物を持って足繁くリュシーの元へ通い、他の求婚者(ライバル)たちも驚くほど熱心に熱烈に甘い言葉をささやき続けた。


 ――愛している。あなたのオリーブ色に身も心も染まってしまったようだ。寝ても覚めてもあなたの顔が頭から離れない。あなたが他の男のものになってしまうと思うと、身が引き裂かれそうでいてもたってもいられない――


 こうしてリュシーを夢見心地にさせ、愛されていると勘違いさせ、結婚して幸せの絶頂へ導き、そこから一日と経たずに地獄へたたき落とす。……はずだったのに。


 リュシーがハンカチから顔をあげた。まだ目が赤い。

 セルジュはとっさに間抜けに開けていた口を閉じた。腹に力を込める。頭を抱えたくなるのを必死で我慢した。


(この女はどこまで馬鹿なんだ……)


 リュシーはいまだに自分が置かれた状況を理解していないのだ。

 セルジュが濁った目でリュシーを見れば、リュシーはガウンの合わせを握ってもじもじている。


(そうか、初夜だったな。ならこう言ってやればいい)


 セルジュは唇をゆがめた。


「まだ勘違いをしているのかな? 私はあなたを抱くつもりはない。全くそそられないのでね。あなたがどうしても男に抱かれたいというのであれば脂ぎった好色中年男でも用意してやろうか。あなたにはぴったりの間男だ。ククッ」


 セルジュが嘲笑すると、はじめてリュシーは驚いたような顔をした。その表情に少しだけ胸がすく。


(さあ、泣け、わめけ、抵抗して抵抗して絶望しろ)


 リュシーは目を伏せると静かに言った。


「わたくしを抱かないと……?」

「ふん、泣いて請うても無」

「大丈夫です、わかっております! そういう方もいらっしゃると噂には聞いております、ええ。殿方でも女性を抱くより自分が抱かれる方が好きな方がいると。変な顔をしてしまってごめんなさい、驚いただけですの。嫌だというわけではございませんのよ。まさかセルジュ様がそうだと思ってはおりませんでしたけれど」

「……ん?」


 リュシーの言葉に妙な文言が混ざった。


「ええと、そうですわね、わたくし、残念ながら男性を抱く手ほどきは受けておりませんの。ばあやからもさすがに。ですが必ずなんとかしてみせますわ! 男性しか持ち得ない部分はどうしようもありませんが、代わりに木製のそういった玩具があるとも聞いております。ふふ、恥ずかしいですわね、でも実は女ってこういう話もするのですわ。それに」

「え、ちょっ、違っ」

「違う? 男も女も中身は同じようなものですわ。あら、セルジュ様の抱いていた女性像を壊してしまったのでしたらごめんなさい。でも実際は――」

「そっちじゃないっ!」

「ああ、抱くか抱かれるかという話ですか? 初めて抱くのも初めて抱かれるのも同じだと思いません? どっちもわたくしにとっては未経験ですし、夫婦で営むということには変わりませんわ。大丈夫です、ご心配なく」

「そっちでもない、早まるな!」

「問題ありませんわ、誰にでも初めてはあるものです。セルジュ様に初めて女性を抱く瞬間があったのと同じように、わたくしにも初めて男性を抱く瞬間があるというだけですわ。ご懸念の通り、未熟なわたくしでは最初はセルジュ様を満足させることは難しいかと存じます。けれども精進いたします、近いうちに必ずセルジュ様にご満足いただけるよう――」

「だから待てと言っているだろう!」


 怒鳴るようにセルジュが言うと、ようやくリュシーは口をつぐんだ。だがその顔には満面の笑みが浮かんでいる。


 セルジュは頭痛を感じた。わけがわからない。全く話が噛み合わない。


 セルジュは女性にモテる。高い能力と王城の文官という身分の確かさ、情熱的な赤い髪に逞しい肉体、強い意志を宿す目にニヒルに歪む唇、そして平民という身分の気安さ。

 ブロー伯爵への復讐に燃えるセルジュは女に興味を持たなかった。が、性欲は当然あるので王都の踊り子から貴族の女まで様々な女と関係を持った。それゆえに、セルジュは脳天気な田舎娘から神経質な代筆屋の娘、気位の高い貴族の女まであらゆる女を知っているつもりでいた。


 が、こんな女は初めてである。


 沈黙が落ちる。

 リュシーの無言の笑顔が重い。

 焦りだけが募っていく。

 セルジュは回らぬ頭を無理矢理回して、ようやく一人の女のことを思い出した。


「意味がわかっているのか。私は伯爵、跡取りが必要だ。だがあなたが私の子を産むことはない」

「それはそうでございましょう。わたくしがセルジュ様を抱いても子はできませ――」

「そういう意味ではない! ……跡取りは、私の長年の愛人に産ませる」


 ニヤリと嫌な笑みを浮かべてみせる。

 セルジュに長年関係のある女がいることは本当だった。しかも貴族の女である。

 といってもセルジュは彼女を愛人だと思ったことすらなかった。ただ他の女とは違って、セルジュがどれほど冷酷に振る舞っても諦めずにまとわりついてきたから惰性でたまに関係を持っていたいただけだった。

 セルジュはブロー伯爵が死んだ時からリュシーを手に入れることに必死でその女のことはすっかり忘れていたのだが、思えばリュシーとの婚約後もしつこく手紙が来ていたはずだ。それを利用しない手はない。


「本当は彼女と結婚したかったのだがな! 爵位と領地のためだ、やむを得まい。だが私は今からでもあの愛しい人と本当の家族を作る」

「……セルジュ様。それは無理でございます」

「なんだと」


 リュシーに揺さぶりをかけるために大嘘を吐いたはいいものの、動揺するどころか困ったような顔ではっきり言い返されてセルジュは鼻に皺を寄せた。


「セルジュ様、よろしいですか。わたくしでなくとも、他の方が相手であっても。女性が妊娠するには殿方に抱かれる必要がございます。セルジュ様がいかにその方を愛していらしたとしても、セルジュ様がその方に抱かれるばかりではお子はできませ」

「そんなもんわかっている!」

「ああ、無理に抱くという意味でしょうか。その点についてはいたしかたありませんね。頑張ってくださいませ。しかし、お世継ぎを産んで頂くならばその方にきちんと財をお与えくださいましね。伯爵のお妾が金銭的に困窮しているなど外聞が悪うございますわ」


 にっこり。


 笑顔の絶えないリュシーを前にして、セルジュは本当に、今度こそ、完全に言葉を失った。



***



 まだ初夜は明けない。


 夫婦の寝室とは別にあつらえたベッドで一人、セルジュは死んだように仰向けになっていた。なんとか体裁を取り繕って、這々の体になって逃げてきたのである。

 それをパスカルがひょいと覗き込んだ。


「あのー、セルジュ様、旦那様。生きておりますか?」

「……」

「うーん、ダメだこりゃ。死んでるわ」

「……やかましい」


 パスカルがとても従者とは思えぬ無礼な態度を取ると、セルジュは目を開けてギロリとパスカルを睨んだ。


「おや、生き返りましたか。生者の世界へようこそ」

「そもそも死んでいない」


 セルジュはのっそりと起き上がってベッドサイドに腰掛けた。両肘を膝についた状態で動きを止める。

 パスカルが様子をうかがっていると、セルジュは勢いよくサイドテーブルを叩いた。

 ガチャン、と上に乗っていた水差しが跳ねる。


「パスカル! いったいなんだあの女は! いったいなんなんだ!」

「セルジュ様の妻でございましょう」

「そういう意味ではない! わかってるんだろ! なんだあの――まったく噛み合わない女は。初夜に愛人の話を持ち出されてなぜ平気なんだ! 箱入りのくせに! 頭がおかしいんじゃないか!? そうだ医者でも呼んでやろうか」

「んなことしたら自分の首締めますよ。っていうか新婚早々セルジュ様が大興奮してリュシー様をぐったりさせたとかいう噂になるのでは」

「わかっている!」


 セルジュはイライラと立ち上がり、水差しの横に置いてあった瑠璃の杯を持ち上げて、勢いよく振りかぶって壁へ投げつけ――ようとして、やめた。セルジュは子供のころ極貧生活を送っていた。そのころの名残で、いくら腹を立てていても物をわざと壊すことなどできないのである。


 パスカルは大きくため息をついた。


「セルジュ様。愛人に子を産ませると仰ったように聞こえたのですが、本気ですか」

「聞いていたのか」

「怒鳴られましたでしょう。なにかあったのかと思いまして扉の前で待機していたのです。……あのですね、いくら復讐とはいえ、わざわざ愛人に子を産ませるような真似をするなら頭かち割りますよ」

「……お前、ときどき不敬になるのはどうにかならんのか」


 セルジュは瑠璃の杯を元に戻すと眉間に皺を寄せた。


「本気なわけないだろう。ただの嫌味だ。それに、俺に()人などいたか?」

「いませんね。でもあなたの愛人だと勘違いして愛人を名乗る女性ならたくさんおりますね」

「……それも、リュシーへの求婚以来、減ったはずだが」

「ええ、まあ。今でも堂々と愛人と名乗っているのはおそらくあのジュスティーヌ様だけかと」

「ふん」


 ジュスティーヌというのが、セルジュと関係がある貴族の女の名前である。


「いいんですか、放っておいて」

「いい。どうせ周りは俺がリュシー一筋だと思い込んでいる。あの女の言うことなど信用されまい。それにあの女にはまだ利用価値がある」


 セルジュは今度はうつぶせにベッドへ倒れ込んだ。


「目がオリーブ色ではなく、若草色であれば……」


 そう呟くと、気絶するように眠りに落ちる。

 パスカルは主人に布団をかけてやってから、やれやれと頭を振った。

○ジュスティーヌ

 貴族の女。セルジュがお気に入りで、本人はセルジュの愛人だと思っている。

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