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9/12

二月②

 目を閉じて瞼の裏の暗闇を見つめながら思い出す。

 藤野あやめと再会したのは、秋が終わり本格的に冬が始まろうとしている頃だった。

 日の光は柔らかい熱に変わり、乾いた風は晒した肌から体温を奪っていく、天気予報の予想以上に冷えた土曜日の午後。営業先の約束が平日に取れなかったので休日出勤となってしまった。会社の先輩と一緒に営業回りを終えて、帰りに見つけた喫茶店で昼食を取ろうと休憩することにした。そこでオムライスとコーヒーを注文して、運んできたのが彼女だったのだ。

 大きい食品会社の事務職に就職した彼女は、この日は偶々両親が経営しているこの喫茶店に様子を見に来ていたそうだ。裏が実家になっており、ピークの時間帯だからと手伝いをしていた時に懐かしい顔を見つけて、注文を持って行くついでに確認したかったと説明した。

 昼間にスーツを着込んでいる僕が今、何の仕事に就いているのかということ――裏を返せば、今は音楽をやっていないのか? という確認。

 この時は既に会社を辞める算段を立てていたのだけれど、その前にどういう方法で音楽の道に行けばいいのか探している最中だった。再就職活動というわけではなく、自分の音楽を認めてくれる会社か人物を探すか、使って貰えるようオーディションかコンペに参加するかで、簡単に見つけられるほどチャンスはそこかしこに転がっている筈もなかった。

 とりあえずは仕事が終わって空いた時間にデモテープを作っていたのだが、なかなか思うような音に仕上がらず、気付けば年を跨いでいた。

 ようやく出来上がって、さあこれを持ってどこに攻め込もうかと考えていた時に藤野から連絡があり、飲みながら話をしようということになったのだ。

 アルコールが入ったことで饒舌になりすぎてしまったかもしれないが、結果としては決意を固める良い切っ掛けになった。過去の熱や後悔を断ち切るのではなく、すべて混ぜ込んで僕だけの音楽として生み出す覚悟ができたのだ。

 夢の入り口に立つことを、どれだけ夢見ていたことか。

 背けていた顔を、ようやく前に向けることが出来る。

 真っ暗な未来に見えなかった目を、今、開くことが出来るのだ。

 鳴り止まない携帯電話の着信音を振り払うことが……着信音?いつから鳴っているのか分からないが、けたたましい電子音が寝惚けた頭に突き刺さってくる。けれど頭が痛むのはこれのせいではなく、昨日飲みすぎたせいだろう。タクシーに乗って、藤野が現在住んでいるアパートの近くまで送って分かれた所までは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。いつもと変わらない自分のベッドの上にうつ伏せになっているので、ちゃんと帰れてはいたことにひとまず安心した。

 とにかくこの電子音を止めなければ、余計に頭痛が酷くなりそうだ。億劫だが気力を振り絞って腕を伸ばし、床に落ちている携帯電話を拾う。

 画面を見ると「道旗灯」と表示されていた。

 とても懐かしい名前のような気がした。高校で別れてから、その後は一切連絡を取っていなかったのだ。何をしているのかお互いが知らない現在、どうしてこのタイミングで奴から電話がかかってくるのか分からなかった。

 ともかく、これ以上待たせるのは悪い。既に待たせすぎているので、申し訳ないと思いながら、僕は携帯電話を耳に当てた。

「おはよう」

 出した声は嗄れていて相手に届くか分からないほどの声量だったが、最近の携帯電話は性能が非常に良いらしく、耳元からは返事代わりのため息が聞こえた。

「おはようの時間帯じゃないっての。久しぶりの第一声なのに、酷いものだな」

 久しぶりに聞く道旗の声は、元気で爽やかなものだった。柏原先輩の裏に何かを隠している仮面のような爽やかさとは違って、裏表のない清々しい青空のような声だ。

「相変わらず、お変わりの無いようで」

「そう言うお前は、色々あったみたいだな」

「ああ……誰かから聞いたのか、僕の現状」

 と言っても、僕と道旗の両方に関わりがあって、今も連絡を取っている人間が思い浮かばなかった。

「聞いたっていうか、お前は何も知らないのか。あやめに聞いたんだよ」

 あやめ。というのは藤野あやめの事だろうか。名前で呼び合う間柄だったっけ。

「えーと、簡単に説明するとだな。あいつとは短大が一緒で、その時から付き合ってるんだよ。で、今は遠恋だけれど偶に会ってるし、今朝も電話を貰ってお前の現状を聞いたから、こうして電話を掛けたって次第だ」

 ふむ、二人が付き合っているのは今更驚くことではないが、どうして僕に電話をしてくるのか、理由が分からない。そういえば、道旗は何の仕事をしているのだろうか。

「やっと重い腰を上げてこっちに向かうことを決めたって聞いて、どうするつもりなのか気になってしまってな」

 話が見えてこない。僕の現状を知っているということで、その言葉は語弊があるように感じるが、しかしそれが道旗の今の立場と関係しているのか。

「散々迷走した結果、再び壁にぶち当たっている最中だよ。デモテープは出来たんだけれど、それをどうしようか探しているところ」

 話しながらなんとか体を起こして、台所へと向かう。

「それはまだ、どこにも聞かせてないってことだよな」

「そうだよ。会社にいきなり送りつけていいものなのか、それとも直接行って偉い人に渡せばいいのか、分かんないんだよ」

 水を一杯飲んだ後に冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。いや、ここはインスタントの味噌汁を飲もう。牛乳を戻し、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。

「そうか、それはよかった」

「ん?」

「単刀直入に言うが、俺が今所属している事務所のプロデューサーに話を付けてやろうか」

 オレがいまショゾクしているジムショ?ぷろでゅーさー?お前は今、何をしているんだ。

「俺は今スタジオミュージシャンをしていてさ、今日もこれから収録があるんだよ。それでプロデューサーに会うから、青葉と会う機会を作ってもらおうかって言っているんだ」

 プロの、音楽の現場に道旗が居る。こいつは既に音楽の道に入っていたということか。そして口聞きをしてくれるというのか。羨ましさと少しの妬ましさが混ざった感情が浮かぶ。

 けれどもそれは一旦無視して、道旗の言葉を反芻して考える。こんなことで嘘を吐くやつではないし、わざわざ電話してまでからかうような性格でもない。信じられないが真実だとするならば、それは願ったり叶ったりの展開だが、それは。

「その人は、そんな簡単に会ってくれるものなのか」

「あの人も音楽に対しては懐が広いからな。良い音を作って世に出すためなら、何にでも手を出して挑戦する方だよ。俺も含めて四人が推薦するって聞けば、悪いようにはならないはずだ」

「お前と、後の三人は?」

「三つ子の魂の三人だよ」

 まさか。信じられないが、そういうことか。

「お前、所属している事務所って」

「ああ、先輩たちと一緒。今はもう一人ボーカルを加えて新たなバンドを名乗っているけれど、知っているかな」

 当然だ。彼らが引鉄となったのだから。

「先輩たちも、僕を推薦してくれているのか」

「まだ聞いていないけれど、たぶん、いや、絶対。後で確認してみるけれど、絶対推してくれるはずだよ」

 携帯電話の向こうから「おはようございまーす」という女性の声が微かに聞こえた。道旗は電話を口元から離して挨拶を返したらしく、声が遠くから聞こえた。そしてすぐに戻ってきた。

「早い方が良いと思うんだけれど、来週の土曜か日曜は都合が付くかな。平日は仕事があるんだよな」

「そうだな。そうなると土曜日が良いかも。絶対に休出なんかしないから、よろしく」

「オーケー。日時が決まったら、事務所の詳しい場所と一緒にメールするから」

「わかった。ありがとう」

「それじゃあ、そろそろ打ち合わせが始まるから」

「ああ、来週、会おう」

「……前にも言ったかもしれないけれど、俺はお前のファンなんだからな。それだけは忘れんなよ」

 道旗は最後にそう言い残して、通話は終了した。

 その言葉は、僕が来るのをずっと待っていたと解釈して良いのだろうか。

 今のやり取りを思い返して、不意に心臓の鼓動が早まるのを感じた。こんな上手い話が有って良いのだろうか。信じて良いのだろうか。都合の良い夢ではないのだろうか。

 カタッ、と電気ケトルのスイッチが切れた。お湯が沸騰したのだ。

 僕は取り敢えず落ち着くため、お椀にお湯を注いでから、味噌汁のフリーズドライのキューブを投げ込んだ。順番を間違えたが、大した問題はなかった。


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