二月①
「……くん?…………青葉君?」
誰かの声が聞こえる。誰かを呼んでいるようだ。
「青葉君、寝たらだめだよ」
僕はうっすらと目を開けて、気怠げに視線だけ動かして声のする方を見た。
黒い長髪で白い肌の女性が、僕の顔を覗き込みながら肩を軽く叩いていた。
「大丈夫?ほら、水貰ってきたから。飲んで」
テーブルに突っ伏していた体をゆっくりと起こし、慎重にコップを受け取って水を一気に飲み干す。だんだんと意識が戻ってきた。首を動かして周りを確認する。どこかの居酒屋の、半個室になっている座敷の席だ。テーブルの上には焼き鳥や揚げ出し豆腐などを食べ終えた皿と、お酒が中途半端に残ったグラスがあった。
「もう一杯、貰っていいかな」
僕がそう言うと、彼女はコップを受け取ってどこかへと行ってしまった。
誰かの笑い声と、内容は分からないが何かを語り合っているような話し声、そして最近の流行の音楽が耳に入ってきた。けれどもそれらは耳を素通りするだけで、何一つとして意識を覚醒させてはくれない。頭の中がぐるぐると渦巻いて、何も考えられない。
むりやり姿勢を正そうとテーブルの縁を両手で掴んで背筋を伸ばしてみたが、すぐに体勢を保てなくなり、倒れ込むように後ろの壁に背中をぶつけた。そのままズルズルと体を沈めて横になりたい衝動に駆られたが、お店の中に居ることを思い出してなんとか持ち堪える。今のままでも相当にだらしのない格好になっているのだが、整えようと思っても体が動いてくれなかった。
僕は糸の切れたマリオネットのように、体を重力に任せている。薄い座布団が緩衝材の役割りを果たしてくれず、背中とお尻が少しずつ痛みを訴えてくるが、糸に繋がれていない体は動かすことが出来ない。モルタルの壁と板張りの床の固さを感じながら、首と目は動いてくれたので視線を廊下に向ける。狭い廊下を店員が忙しそうに行ったり来たりしていた。これが自分の役目だと言わんばかりに動き続ける彼の顔は、週末の忙しさのせいで苛立っているが営業スマイルを崩せない為か、何とも奇妙な表情になっていた。
そんな光景をぼんやりと見ていたら、視界に白い影が落ちた。先程の女性が新しく水を貰って戻ってきたのだ。
彼女は僕の手を取ってコップを握らせ、僕が水を半分ほど飲んで一息吐くのを見届けてから向かい自分の席に戻った。
「さて、私は誰で、あなたは誰でしょう」
マイクを持つように軽く握り込んだ左手をこちらに向けられた。僕は女性を見ながら言葉を探し、ちゃんと口が回るか確認するようにゆっくりと声に出した。
「君は、藤野あやめ。で、僕は青葉紡だ」
「はい、正解」
そう言うと藤野は左手を勢いよく引き寄せ、その傍で右手首をくるくると回す。どうやら僕を釣り上げようとしているみたいで、
「戻ってこーい」
と言いながら見えないリールを頑張って回している。
おかげで釣り糸が紡がれ、マリオネットには生命が再び吹き込まれた。なんだよそれ、と呟いて、テーブルには僕の両腕が掬い上げられた。
「ただいま」
目の光は完全には戻っていなかったが、なんとか体を動かせるくらいには回復した。
「おかえり」
藤野の纏う空気は大人びていたが、こうやって笑う顔は高校の時から変わっていないように感じた。
「ごめん、どれくらい寝てたかな」
「んー……私がお手洗いに行って、戻ってきたら寝てたから、五分も経ってないかな」
そうか、一瞬で落ちてしまった感じか。しかし長い夢を見ていた気がする。具体的には僕のおよそ八年間の過去。けれど飲みながら後悔の話もしていた。どこまで話したのだろう。どこから夢だったのだろう。
記憶は判然としないが、夢を追いかける決意をするために話し出したのは覚えている。上手く話せていたのか、伝わっていたのかは分からない。ただ自分の中にある何かを吐き出したかっただけなのかもしれない。藤野には迷惑だったかもしれないが、嫌な顔をせずに聞いてくれていたので、ここは甘えておこう。
時計を見ると十一時が回っていた。
「遅くまで付き合わせてごめんね。帰ろうか」
そう言って立つと、思ったより足腰はしっかり動いた。
レジの前まで行って店員を呼ぶと、少々お待ちくださいませー、と声がしてからしばらく待たされた。
人手が足りていないのだろうか、さっきから行き来する店員は一人しかいない。見た所アルバイトの大学生みたいだ。彼は何年生だろうか。飲食店なので遅くまで働いているようだが、学業の方はちゃんとしているのだろうか。人生をちゃんと楽しんでいるのだろうか。将来をちゃんと考えているのだろうか。そして、夢をちゃんと持っているのだろうか。
確認することもしない、取り留めのないことが浮かんではすぐに消えていく。
意味のある思考ではない。
意思があって頭を動かしているわけでもない。
それでもそんなことを思わずにいられないのは、いつかの自分に対しての問い掛けなのだろうか。いや、それさえも意味のあることではない。時間は過ぎてしまったのだ。もはや通り過ぎてしまった道なのだ。思い出と呼ぶには苦すぎて、後悔するには自分の甘さが引き起こした結果だということを分かっている。
自信があれば。覚悟があれば。才能があれば。
そんな後悔は散々繰り返してきた。保険の会社に就職してからもずっと。まだ一年も経たないけれど、音楽のない日々はもう耐えられない。僕の進むべき道は、やはりこっちではなかった。才能があるかは知らない。自信もいまいち持てない。けれど、自分の気持ちにもう嘘を吐きたくない。誤魔化し続ける毎日は苦痛でしかない。
もしかしたらそれは「逃げ」だと言われるかもしれない。新入社員が早々に人生を語るなと怒られるかもしれない。それらを耐えてこそ大人に、社会人に成れるのだと説かれるかもしれない。
でもそんなのは、今の僕には関係のない言葉だ。
友人に語ることで自分を奮い立たせないと行動に移せない情けない僕だけれど、もう迷わないと決めたのだ。
夢は見るものではない。追うものだ。
失敗したら、その時に考えればいい。それまではもう、なりふり構ってはいられない。
当たって砕けろだ。砕けたら、今度は身を粉にして挑み続けるだけだ。
ようやく店員が会計に来た。支払いは当然、全部僕が持った。割り勘を主張する藤野に対して、次回はそっちの奢りと提案して渋々引き下がらせた。
外に出ると冷たい風が頬を撫でていく。店内の暖房とアルコールで火照った体に心地よいが、タクシーを待つ間に体が冷えてきたので、腕にかけていたコートを羽織る。
息を白い煙に変えて遊んでいると、
「ねえ、本当に音楽の道に行くこと、決めたんだよね」
藤野が真摯な瞳で僕を見る。
「うん。不安はあるけれど、決心したよ」
「大丈夫。青葉君なら、絶対大丈夫だよ。そういう経験が、青葉君の言う自分だけの音楽を作る基になるんだよ。これまでの時間は、きっと無駄じゃなかったんだと思うな」
はにかんで、私が言っても無責任かな、と頬を人差し指で掻きながらポツリと付け加えた。
そんなことはない。その言葉を聞きたかったのだ。今を抜け出す一歩を踏み出すための背中を押してくれる、その言葉を。
薄暗い靄のような漠然とした不安は、今はどこにも浮かんでおらず、一本の光る道が確かに見えた気がした。
僕は単純なのかもしれない。けれど単純な方が良い。色んなことを考えるのはもうやめて、歩み始めるべきだ。ずいぶん遅くなったけれど、やっと、心からの一歩を踏み出せる。
「ううん、ありがとう」
「それに待っている人もいるんだから、これから歩き出しても全然遅くない。理想の自分が遠く離れていても、これからまた追いかければいいじゃない」
「もう寄り道はしない。先輩たちに追いつけるように、頑張るよ」
僕はもうマリオネットではない。自分の人生を自分の意思で歩くことのできる人間だ。今まで囚われていた糸は、心を支配していたものはなくなった。
見上げた冬の空はとても澄んでいて、星の瞬きが鮮やかに映った。
これから先も、どうか晴れ渡る空でありますように。