五年前
自宅から自転車で通える距離にある国立大学の法文学部に入学することが出来た。
およそ二十分かかる通学路の川沿いには、桜がとても綺麗に咲き誇っていた。綺麗だとは思ったが、しかし感動するほどではなかった。軽く見上げては流れゆく桜の花びらと青々とした葉の眩いアーチに対して、はしゃぐ気持ちにはどうしてもなれなかったのだ。
原因は分かっていた。自分の感情を誤魔化して進学したことを、卒業式から入学式までの間ずっと考えていたからだ。いや、誤魔化したのではなく、望んだ一歩を踏み出すことが出来なかった自分を責めていた。別の道へ足先を向けたことを、今更になって後悔していた。一度は決めたことだけれど、やはり未練があった。
それでも、もう足を動かしてしまったのだ。時間は戻せはしない。ならば少なくとも四年間は、進んだ道に対して向き合うべきだ。その空いた時間に、音楽を精一杯楽しもう。それは高校で勉強や部活を、自宅では音楽をしていた今までと変わらないかもしれない。けれども気持ちの面では大違いだ。最終的な目標は卒業後だ。そうなると大学は社会勉強と経験値を積むために必要な時間だ。あちらに行かなかったことで得られるかもしれない経験に、期待しようではないか。とりあえず大学を、無駄にしないようにしよう。
そう考えてはいても、無理やり自分を正当化していることは頭の隅で分かっていたのだろう。気持ちが晴れることはなかった。
必修講義の履修登録を済ませて、軽音楽のサークルを探す前に掲示板や校内案内を調べ、そしてサークル棟へ向かった。三階建ての棟の入り口にはサークルの部屋の案内が書いている立て看板があったのだが、誰も管理していなかったのだろうか、風雨に晒されて文字を読み取ることが困難になっていた。かろうじて「軽音」の文字と音符マークを確認できたので、目的地は一階の最も奥の部屋ということが分かった。
いざ部屋の扉の前に来てみると、その上に「軽音サークル・ライトロード」と書かれているポップな看板が掲げてあった。控えめな大きさの文字とは逆に装飾がごちゃごちゃと沢山つけられていた。それが音符やト音記号などを電飾やコードで模っていなければ、音楽系のサークルだとは一目では気づかなかっただろう。
慣れない場所に一人で飛び込むのは勇気が要った。何度か深呼吸をしてから、意を決して扉をノックしてノブに手を掛けた。
しかしガチリと大きな音が廊下に響いただけで、扉は開かなかった。
誰も居ないようだった。
出鼻を挫かれた思いで時計を確認したら、一時を回ったところだ。
考えてみれば当たり前で、二年生以上の学生はまだ講義やなんやと用事があるのだろう。活動するには早い時間だ。
緊張が解けたところでお腹が鳴った。そういえば昼ご飯を食べていなかった。食堂に行こうと思って廊下を戻ろうとすると、楽器のケースを肩に担いだ男の人がこちらに向かって来ているのに気付いた。彼もこちらに気付いている様子で、見慣れない僕を不躾に観察しながら近づき、僕のギターケースを見て合点が行った顔をした。
「なんだ、新入生かな。誰かと思ったよ。早速サークルに入りたいだなんて、やる気あるね。他のサークルもまだ勧誘活動してないのに、早すぎないかい。あ、もしかしてライトロードに知り合いがいるから呼び出されたとか?」
一見して真面目そうな人で、喋り方から判断しても真面目そうな部類の人だった。
「とりあえず鍵開けるから、入りなよ。ああ、自己紹介がまだだった。僕は落合 陽翔。法文学部の二年生です」
部室に入って僕も自己紹介をした。部屋の中はギターやベースやキーボード、ドラムセットの他に、大きなスピーカーやアンプや見慣れない機材が乱雑に置かれていた。壁や天井は申し訳程度の防音処理がされていて、部屋こそ広いものの高校時の部室と比べて取り分け良い環境とは言えなかった。
「へえ、君も法文学部か。試験の時は相談してよ。過去問とかあげるからさ」
「あ、ありがとうございます。えっと、入部届みたいなのはないんですか」
「あー、高校の時みたいな? 顧問の先生とかはいないし、自由に集まって好き勝手やるのがサークルだからさ。そういうのはないな。そうだ、二週間後に新歓ライブをするから、それに来てよ。その後に入部希望者も含めて打ち上げするから、歌いますとか楽器は何をしますとかってその時に言えばいいよ」
「はい」
「今はみんなが来るまで何もすることないし、来たら来たでライブに向けて練習するから、君に構っている余裕はないと思うよ。まずは同じ学科で友達を作ることにして、二週間後にまた会おうか」
「分かりました。ご親切にどうも、ありがとうございます」
柔らかい笑顔で手を振られた。それは暗に邪魔だから帰ってくれと言っているのだろう。先輩方はライブが迫っていてるので、新入生が居たところで邪魔になるのは確実だ。それに練習中の中途半端な状態は、仲間以外には見られたくはない。初めての人には完璧に作り上げた音楽を聴いてもらいたいものだ。新歓ライブと銘打っている。つまりは新入生のために聴かせる音楽を、本番を待たずして先に聴いてはいけない。
その内情を察したので、落合先輩の言葉に従うことにした。
失礼しましたと部屋を出て、再びお腹が鳴ったので、今度こそ食堂に行った。
から揚げカレーは値段が安くボリュームがあったが、僕の口には合わなかった。
新歓ライブまでの二週間は特に何があったというわけではなかったが、なぜか忙しかった。大学で過ごすにあたってのガイダンスや、取得講義に必要な教科書の購入、同じ学科の人達と仲良くなれるかどうかの微妙な腹の探り合いなど、思い返せば取り立てて言うことはない。ただ、新たな友人関係を作るというのは精神が少し磨り減る作業だったせいで、サークル勧誘が盛んにされていても見学に行く気は起きなかった。もっとも、既に軽音楽のサークルに入ることを決めていたからかもしれないが。
大学生活の一週間目は基本的に講義の担当教授の挨拶や小話で、二週間目から本格的な講義は始まった。最初は講義によって教室を移動することに戸惑ったり迷ったりはしたが、追々慣れていくことだろう。構内の入り口近くに事務棟があり、入ってすぐに講義の教室変更や休講のお知らせなど、重要な事柄が張り出されることがある掲示板がある。まずは朝一で掲示板を確認する習慣を付けないといけなかった。
その掲示板の隅に、軽音サークル・ライトロードの新歓ライブのチラシが張られていることに気が付いた。コピー用紙の中央に大きくギターの絵が描かれ、下の方には日時と場所が書かれていた。手作り感溢れるチラシによれば、次の土曜日に街の外れにある音楽ホールでするとのことだった。
当日、ギターを持って行こうかギリギリまで悩み、考えた挙句持って行くことにした。やる気を見せるとか考えたわけではなく、何となく手ぶらで行くのが忍びなかったのだ。
担ぎ慣れたギターを背負い、自転車に乗って会場まで向かった。小学生の時に演劇鑑賞会か何かで一回来たきりで、場所が曖昧だったので早めに出たのだが大して迷うことなく到着した。
簡単なリハーサルをしているようで、音のする方へ行くと小ホールに着いた。そこには二十名弱が右往左往していて、なかなかに慌ただしかった。
音合わせを丁度終わらしたバンドの中に落合先輩の姿を見つけたので、落ち着いたのを見計らって声を掛けた。
「お疲れ様です。忙しそうですね」
彼は最初訝しむように僕を見て、「ああ君か」と言った。思い出してくれたようだ。
「お疲れ。ちょっとミキサーが調子悪くてね。さっきようやっと直したところ。開演時間には間に合うと思うけれど、おかげでリハが押し気味になっているかな」
「先輩はどんなバンドなんですか」
「スリーピースのコピーバンド。ベースを弾いているよ。主に……」
と言った所で、女性が落合先輩の後ろから話しかけてきた。
「どーもー。ギター兼ボーカルの川上 絢華でーす。なになに、新入生?」
「そうそう、この間話した子。やる気があるようで、今日も早めに来ちゃったってさ」
「なんだー? そんな肩肘張らなくていいよ。それとも初対面は緊張するタイプかな。あ、挨拶してなかった。はじめましてー」
「はあ、はじめまして」
気さくで明るい人であったが、少し苦手なタイプだった。それこそ初対面で緊張はしていたが、積極的に来られると対応に困る。
「あれ? ギターなんか持ってきちゃってるけど、もしかして演奏したい人?」
「いえ、そういう訳ではないんですが」
「もしかしたら時間余るかもしれないから、もしかしたらチャンスあるかもよ。新歓ライブで新入生がやるってのは珍しいかもだけど、最初でバーンと存在感を示すのもありなんじゃない。というか面白そうだからやってみなよ。話、付けてくるからさ」
「あ、ちょっと」
止める間もなく彼女は「たっちゃーん!」と叫びながらどこかへ行ってしまった。
「どうしましょう」
落合先輩に言うと、
「どうしようも。強引なんだから」
と呆れた声で返された。
「面白いし良いんじゃない。君次第だけれど。もしかして少しは期待していたんじゃないの」
期待はしていなかったけれど、良い機会だとは思った。実は高校の卒業式から暇を持て余して作った新曲があったので、早く誰かに聞かせたいと思っていたのだ。静かな曲と明るい曲の、どちらもギター一本で弾き語りが出来るように作った曲ではあったが、まさかこうなることを予知していたわけではない。
「なんだ、本当にやる気あったんだ。時間が余るかは分からないけれど、楽しみにしてるよ。じゃあちょっと言いに行くから、そこらへんブラブラしときなよ」
ペットボトルのお茶を仰いで、落合先輩もどこかへ行ってしまった。
手持無沙汰になったので、リハーサルの様子を見たり音楽ホールを探検したりして時間を潰した。
やがて開演の予定時間が近づき、人が集まってきた。場の雰囲気を観察するような仕草と慣れない空気に遠慮する態度は、一目で僕と同じ新入生だと分かった。最終的に十四人が集まった。その中に同じ学科の人が二、三人程いたが、顔がおぼろげでまだ会話もしていなかったので、その時は話すことはなかった。
扉が閉められて照明は少し暗くなり、ステージの真ん中にスポットライトが当てられた。その中に一人の男性がマイクを持っていて、薄暗い周りにギター、ベース、ドラムとメンバーが控えていた。スピーカーから男性の声が響いた。
「こんにちは。私、軽音サークル・ライトロードのリーダー、柏原 佑と申します。新入生のみなさん、この度はご入学おめでとうございます。並びに新歓ライブに来てくださってありがとうございます。このライブはおよそ二時間を予定しており、その後は新入生も含めての打ち上げを予定しておりますので、最後まで聞いたらそちらの方もぜひ御参加ください。料金は我々の受け持ちとなりますので、その点はご安心を。ただで飲み食いできる機会はこの時期限りなので、存分に楽しんで行ってください。
挨拶はほどほどにしないと時間が足りなくなる恐れがありますので、早速ですが始めさせていただきます。
では、最初は私たちのバンド、オークランドです。イッツアショウタイム!」
最後の掛け声と同時にステージが一気に明るくなり、演奏が始まった。
音が大きく伴奏もごちゃごちゃしていて最初は何の曲か分からなかったが、歌を聞いてやっと理解できた。有名なロックバンドの曲だったのだが、アレンジをやり過ぎているのとそれに技術が追い付いていないのとで、もはや別の曲と言ってもよいくらいだった。歌はお世辞抜きで上手だったが、その他はお世辞も言いたくなかった。正直に言って耳を塞ぎたかった。
四曲目の最後はオリジナルの曲だったのだが、それも、まあ、酷いと思わざるを得なかった。全パートが常に主張し過ぎていて、それなのに流れは平坦に感じられて、唯々うるさいという感想しかなかった。
「三つ子の魂」との比較対象に挙げるのも烏滸がましいほどだった。
その次の四人編成バンドも、またその次の五人バンドも同様に、何とか形になっているだけで、感動も何もあったものではなかった。ただ仲間内で騒ぐために、バンドをしているのではないかと思った。
もしかしたら初心者の新入生でも入りやすいようにと、敢えて下手にやっているのではないかとも考えたのだが、もしそうなら逆効果だろう。少なくとも僕は、ここではやる気は起きない。
そして、敢えて下手にやっているわけではないということが、次のバンドで証明された。
落合先輩と川上先輩と、もう一人がドラムのスリーピースバンドだった。
女性ボーカルのその曲は、彼女のハスキーな声と合っていて伴奏のバランスや演奏技術も申し分なかった。ただ我武者羅に弾いていたそれまでのバンドとは違い、多少の余裕さも持ち合わせていた。比較的簡単な曲ばかりを選んでいたが、それこそ敢えて選んでいるように感じた。
その次は二人とも女性のギターデュオだった。こちらも上手な人たちで、ギターよりも歌の方を重視しているようで、高音と低音のハモりは綺麗に揃っていた。
彼らの歌が終わり、これで全部の予定が消化された。時計を見ると時間が少し余っていた。
「ああ、いたいた。ちょっと予定より押したから一曲分しか時間ないけれど、歌う?」
落合先輩から声を掛けられた。待ってました、という心境ではなかったが、せっかく都合をつけていただいたのだ。断るのは申し訳ない。
みんなからの拍手に押されてステージに上がり、ギターのチューニングを手早く行った。並行してマイクの音量を調整してもらい、スタンドマイクの前に立つ。スポットライトの熱でじわりと汗が浮かんできた。
一曲だけなので、明るい曲を歌うことにした。
それは新たな環境へ踏み出す自分への、不安を払拭したかったのか、希望を無理矢理見出そうとしたのか、どっち付かずな歌だった。中途半端な自分の感情に気付かない振りをして精一杯頑張って作ったのだが、今にして思えばそれはやはり隠しきれるものではなく、整理を付けたはずの感情の残滓が滲み出ていた。
無事に歌いきった後に聞こえてきたのは、盛大ではないが決して小さくもない拍手だった。ステージに立った者を称えてくれるその音は、どんな状況であれ心地の良いものだ。僕の曲が、僕の歌がどう聞こえたかは分からない。心の片隅にでも響いたかは分からない。明るいステージからは薄暗い客席は見えなかったが、ともあれ、その拍手は素直に受け取ることにした。
その後は急いで撤収作業をして打ち上げだ。僕は自転車で大学に戻って部室にギターを置かせてもらい、みんなで揃って居酒屋へと向かった。歩いて十分ほどのお店で、今夜は軽音サークルの貸切だった。
未成年者にはお酒を飲ませないことを徹底していた事が意外だった。サークル主体の飲み会なので、ばれてしまうと今のご時世ではそれなりの責任を負わされる可能性が高いのだろう。解散後は関知しないので飲酒するなら個人的に自宅でどうぞと言われた。
そういう訳でウーロン茶を飲みながら出された料理をちびちびと摘まんでいたが、この状況は人見知りの気がある僕にとっては辛いものだった。社交性に富む同期は先輩たちと盛り上がって騒いでいたのだが、反対に社交性の乏しい同期はみんなして借りてきた猫のように大人しかった。人前で歌うことを目指してこのサークルに来たんじゃないのかと言いたかったが、それは僕も同じことだったので何も言えなかった。
しかし、いつまでも静かなままでは耐えられなかったので、同じ学科だと思われる二人に話しかけた。拒否されて会話が成立しない可能性も考えたが、思ったよりも友好的だった。むしろ向こうも話しかけられたことに安心したようでもあった。彼らは上赤勇人と八坂黄之助と自己紹介してくれた。
「トリで歌ってたけど、まさか同期だったなんて、驚いたぜ」
「あれって聴いたことない歌だったが、もしかしてオリジナルとか? まさかね」
「そのまさか。高校を卒業してから作った曲だよ。こんなに早く発表するとは思っていなかったけれど」
「すげえなあ。ってじゃあ、このサークルに入るつもりなんだよね」
「うん、もちろん。えーと、上赤くんと八坂くんも入るつもり?」
「まあ、そのつもり。ライブの途中まではどうしようかと悩んでたんだけど」
「え、そうなの?」
「下手なバンドばかりだったら、ここにいても得る物がないからね。でも最後の二組、いや君も入れて三組か。がいたから入ってもいいかなって、勇人と話していたところ」
「箱を回ってバンドメンバーを募集するのも面倒だし、ここで見つけられたら楽かもって思って、とりあえず一か月はお試しで入る予定ではあったよ。まあ先輩たちはバンド組んでるし、簡単には解散しないだろうしねえ」
「そこで相談なんだけれど、俺たちと組まないか。実力はさっきので十分すぎるほどに分かったし。あ、俺はリードギターで勇人はベースな」
「んで後は最低でもドラムって思っていたんだけど、歌うまいし曲作れるしってことでボーカルとリズムギターをやって欲しいんだ。オリジナルをやりたいと思ってはいたんだが、俺もキスケも作れなくて。ドラムを探すにしてもたぶん作れるやつとかいないんだろうなあって」
「リズム担当だからな。メロディに関しては分からないだろうからなあ、ドラマーは」
「なんて悩んでいたところに、君が現れた。いやなんというか渡りに船。鴨が葱背負って、は違うか。失礼。とにかく、君が入るなら俺らも入る意味があるってものだ。是非、一緒にやってくれないかな」
「決めるのは今じゃなくても、俺たちの実力を見て判断してからでもいいから。前向きに検討してくれないかな」
途中からは僕が口を挟む余裕がないくらいに、代わる代わる話してきた。お酒は飲んでないよな、と二人のグラスを確認したらコーラが底を尽きかけていた。ウーロン茶とコーラを注文して一息ついたところで、やっと僕の話す間が生まれた。
「君たちの演奏を聞いてから判断するということで、お願いします。ところで、その息の合いようは、二人は同じ高校出身なの?」
「ああ、小中高と同じ学校だったね。軽音を始めたのは二人とも高校から」
「もてそうだからって始めたんだけど、意外ともてないな。女子と話す機会は増えたかもしれないが、ぜんぜん彼女はできなかった」
「やっぱり顔なのかなあ」
「いや、性格だろう」
「その人と波長が合うかどうかじゃないのかな。僕も彼女なんていないけれど」
「曲を作れるやつは、物の見方が違ってんな。独特の感性っていうの?そういうのがすっと出てくる感じが、やっぱちげーわ」
「こういうのに限って周りに何も言わずにしれっと彼女作ってたりするんだよ。くそ、モテるやつみんな爆発すればいいのに」
「じゃあ少なくともここは爆発しないで済むんだね」
一瞬の沈黙。
「お、おう。参りました」
何か分からないが勝ってしまった。
それからはどの歌手が好きだとか何の雑誌を読むだとか取り留めのない話をしていたら、打ち上げ終了の時間が来たので一応の締めをして解散となった。先輩たちはまたどこかで飲み直す相談やらをしていたが、僕は付いて行く度胸も理由もなかったので、そのまま大学に自転車を取りに行った。
その途中で先輩たちや新入生の挨拶とかしていないなと思ったが、正式に入るメンバーも分からないから省略したのだろう。ただ単に酔っていて忘れていた可能性もあるけれど、僕としては人前で喋るのは苦手なのでそれで良かった。そもそも、このサークルに入りたいかと聞かれれば答えに困る思いであった。上赤か八坂のどちらかが言っていたが、ここでバンドを組んで活動するには得る物がない気がするのは確かだ。サークルの音楽をさっき聴いた限り、ちゃんと向き合っていないのは明白だった。向き合っている者もいるにはいるが、やはり本気ではないだろう。片手間の、お遊びの感覚でやっているのが感じ取れたのだ。
部室は鍵がかかっていたので、ギターは後日取りに行くことにした。夜中なので弾くことはできないし、盗難や破損も心配はないだろう。
自転車に跨って、少しだけ身軽な体で風を切って走り、考え直した。
お遊びの感覚。それは当たり前だろう。彼らは音楽以外のことを勉強するために大学に入学したであって、本気で向かい合おうとしている人はこんな所にはいない。勉学の合間の息抜き、趣味でやっているから、演奏が下手でも気にしない。仲間内の遊びだから、完成度には拘らない。そこまでの熱意がないから、手を抜くのだろう。
それは悪い事ではない。自分の目指すものがどこにあるのか分かっているなら、そこへ向かうことには本気になるのだろう。けれど、それに関係がない事なら本気でなくたって構わない。他の、例えばスポーツだって、プロを目指さない僕は本気でやることはない。そりゃあ上手になるのに越したことはないが、所詮は運動不足の解消やストレス発散だ。ふざけて誰かに迷惑を掛けない限りは、誰に何を言われる筋合いはない。同じ世界に立っていないのならば、過干渉はするべきではないのだ。
そして今の僕は、音楽は趣味だと割り切って大学に入学した、謂わば彼らと同じ世界に立っているのだ。演奏の上手い下手はともかく本気で向き合ってない人間は軽音サークルにいるべきではないなどと、どの面下げても言えるはずがない。
代わりに出来ることは単位の心配をして先輩との繋がりを保持する事くらいだ。
つまりは、打算での入部。
幸い一緒にバンドを組もうと言ってくれた二人がいたから、入る理由もなくはない。
卒業も就職もまだまだ先のことなので、ともかくまだまだ趣味を楽しもうと思った。
新入生勧誘は四月いっぱいで終わり、その間に見学としてくる人も多少いたが、軽音サークルに入ったのは最終的に七人だった。
その中で僕と、上赤勇人と八坂黄之助、そして中学からドラムをしていた橙堂創がバンドを組むことになった。バンド名はみんな名前に色が付いていることから「カラーズ」にした。
全員がコピーバンドではなくオリジナル志向だったので、ひとまずは僕を中心にして曲を作ることにしたのだが、ある日の休講の時に四人で食堂に集まって一つ提案をした。
「作詞作曲と編曲は僕がするとして、各担当のパートはそれぞれで作らないか」
パソコンを使ってバンドサウンドを作っていたことは言っていたが、それでは時間がかかるし、何より僕の負担が大きすぎる。それに彼らの音楽性が分からない以上、自分一人で作るのはどうしても躊躇われたのだ。自信がなかったわけではないが、かといって胸を張れるほどでもなかった。自分の音楽を押し付けるようで気が引けたのもあって、それならばゼロから方向性を探して行けば良いかもしれないと考えたからだ。
「えー。最初に任せろって言ったじゃん。俺、作曲できねーよ」
任せろなんて買って出てはいない。上赤は作曲をしたことがないから不安に思うのは仕方ないが、オリジナルをしたいと言うからにはそれでは良くない。僕がすべて作ってしまえば、それは彼らからしたらコピーバンドと何ら変わりはないのではないか。
「これまで色んな曲を弾いてきたんでしょう。それらを真似て、少しずつオリジナルを加えて作っていけばいいだけだよ。自分の好きなフレーズを好きなように弾いていけばなんとかなるよ」
「ベースはそれでなんとかなるかもしれないけどさあ、俺はどうすればいいのよ」
八坂も僕の提案には難色を示していた。
「ギターだって同じだよ。基本コードの流れに合わせてイントロとかソロを、好きなように弾けばいい」
「好きなようにって簡単に言うけどさあ、それが出来たら作曲を任せたりしないっつーの」
簡単に言ったつもりはなかった。言うのは確かに簡単で、実践するのが困難であることも分かっている。僕だって少しは楽をしようと考えて言ったけれど、全てを丸投げしようとは思っていなかった。
「最初は僕も一緒に作っていくからさ。こういうのは積み重ねだよ。少しずつ慣れていくしかないんだよ」
橙堂はドラムの音を自分で作ることには積極的で、二つ返事で了解した。むしろ作曲の姿勢としては僕の仲間だった。それまで黙っていた彼が不快感を露わにして二人に言った。
「ってかさ、オリジナルをしたいって言っておいて、それはどうなの」
「え」
「どうって」
「オリジナルをしたいです、リードギターします、ベースします、でも曲は作れないから全部作ってください、俺たちはそれを弾くだけでいいですってさ。だったら楽譜買って勝手にやればいいじゃん。オリジナルって自分らで作ってこそのオリジナルだろ。自分らであーだこーだ言いながら作って演奏するから楽しいんじゃねーか。リーダーが作った曲を弾くだけだったら、それはただのサポートメンバーじゃねーか。そんなんでオリジナルやりたいって言ってたんだったら、辞めるよ俺は」
橙堂の凄むような低音に、目を逸らした八坂の声は小さかった。
「いや、そこまで言っては」
「さっき言ったじゃねーか、作曲しないって。端からリーダーに作らせるつもりだったんだろ」
「そんなつもりは……」
上赤は言葉尻は濁したけれど、そのつもりだったらしいのは感じていた。だからこそ説得しようとしたのだ。僕の思っていたことを橙堂が言ってくれたが、良すぎる体格と強面が相まって言葉以上の威圧感があった。これ以上続けると二人の方から辞めると言い出しかねない。
「まあまあ、その辺で。二人とも一緒に作るって言ってくれたからさ、それでいいじゃないか」
低音が、僕に向けられた。
「ああ? ちゃんと言ったか?」
言ってはいないが、僕が如何にもな作り笑顔で、
「だよね」
と言うと、二人は無言で首を縦に振った。なんだか脅したみたいになってしまったが、了承を得られたので良しとした。
「最初から完璧を目指せなんて言わないし、最終的なバランスは僕が調整するから、いいよね」
「全然構わんよ。下手でも自分で一から作った音楽っていうのは、コピーをするより気持ちの入りようが段違いだからな。一曲でも作れば、それが分かるさ」
橙堂は自分の音楽の方向性が分かっているようだ。早く彼の音楽を聞いてみたかった。
「ところで、僕はいつのまにリーダーになったんだ」
「バンドに誘われたときに、何となくそうかと思ったからだが」
「いやいや。そもそも決めていなかったんだけれど」
最初は上赤か八坂のどちらかがするかと思ったんだけれど、今のやり取りで力関係が決まってしまったような気がした。だからといってそのまま受けるのは面倒だった。
話し合いは談合されそうなので無難にあみだくじをしたら、橙堂がリーダーに決まった。
それからは二か月に一曲作ることを目標にバンド活動をすることにした。一か月にすることも考えたのだが、そうしなかったのは作曲初心者である二人に教えながらすることと、勉学という学生の本分を忘れないように配慮したつもりだ。それと、バンドとは別に自分自身でしっかりと曲を作りたいという思いもあった。
前期試験が終わり、単位は一つも落とさずに取得できた。
大学特有の長い夏休みの入り始めには、バンドの曲は三作目に入った。僕自身は最初の二曲は苦労した割には納得できるものに仕上がらなかったが、上赤と八坂が満足気に完成と言ったので、それで完成とした。
橙堂の作るドラムサウンドは高い技術と独特の感性があり、満足のいく面白い音を作ることが出来た。けれどギターとベースの彼らは、期待していたほど高くない技術と発想力で不満の残るものだった。したことのない作曲をした彼らと曲がりなりにも数曲作ってきた経験のある僕では、最初に設定したハードルや最終的なイメージが違っていたのだろう。客観的に聴けば、確かに可もなく不可もなくといった出来ではあったが、自分が手を加えるのならと考えると物足りなかった。これ以上の質を求めるのなら、根本から変える必要があると感じた。
いや、そうではなく、やはり彼らと僕の方向性が違うのだろう。出来た曲を根本から変えたいと思ったのは、彼らの弾きたい音を優先させた結果であったのだ。メインで作曲するのは彼らであって、僕はあくまでサポートだ。最終的に曲全体のバランスを調整するのも僕の役目だが、それを勝手に変えてしまってはバンドを組んだ意味がない。感性は他人に押し付けることが出来るものではない。これが彼らのやりたい音楽だと理解して、その方向に僕自身が合わせないといけない。バンドは一人では成立しないのだ。自分から彼らに編曲を提案したのだから、いまさら納得できないから全部自分で作る、なんてことはできなかった。何のために、自己流ではあるが作曲法を教えたのか。それを忘れてはいけない。
それに不満ばかりがあったわけでもない。一人一人の声や仕草が違うように、生み出す音楽もそれぞれが違う。僕一人では思いつかないような、違う角度からの展開を生み出す事があるので、それを考えると決して無駄ではなかった。この時点ではまだ無駄でしかなかったが、違う視点を知るというのは自身の可能性を広げるということに、いつか繋がるのだ。
自分の好む音が万人に受け入れられるわけではない。そして一人だけで生み出せる音には限界がある。誰かの音で、今まで見ていなかった方向からの見方に気付くことがある。自身が生み出せる音を一方向だけに凝り固まらせてしまわないように、こういう刺激は常に必要だった。万人に受け入れられたいわけではないが、しかしいつも同じような音では飽きてしまう。
マンネリ化してしまうのだ。誰でもない、自分自身が。
そこまでいくほど深く入り込んでいるとは思っていなかったが、けれどその恐怖がいつの間にか頭の片隅にあった。時代の移り変わりは早い。現代は使い捨ての時代だとテレビか何かで見て、自分もそうなるのではと、音楽に限らず人間としてそうやって捨てられてしまうのではないかと、漠然とした恐怖を抱いていた。
使い捨てられる自分。
使い捨てる自分。
何を、とは言えない。
自分の中にある何かが、誰かは分からない誰かに捨てられていく。
自分の中にある何かが、なぜか分からずに無くなっていく。
自分の中が、だんだん空っぽになっていく。
だから底を尽きてしまう前に、どこかで補充しなくてはならない。
何を、なんて知らない。
とにかくその時は、何でもいいから入れなくては、と思っていた。
単細胞生物のように自分の中にある音楽を分裂させて増やさなくては、と思っていた。
そのための栄養は誰かの音だった。バンドメンバーでも、サークルの先輩でも、テレビから流れるメジャーなバンドもマイナーなバンドも、アイドルも、アニメも、ネット上の動画投稿サイトで得られる音も。
飽きて捨てられてしまわないために、そうなる前に詰め込めるだけ詰め込んだ。
ミュージシャンデビューして音楽に追われる日々を過ごしていたわけでもないのに、これでは可笑しな妄想だった。自分の音楽を大々的に評価されていたわけではない。批判されていたわけではない。捨てられる以前に、使われてすらいないのに。何をそんなに怯えていたのかが分からなかった。
だからそんな湾曲した妄想をかき消すために、正しい評価が必要だった。
自分だけで作った曲を、批判されてもいいから大勢に聴いてほしかった。
自分は捨てられるのか、受け入れられるのか、判断したかったのだ。
その思考は辻褄が合わず、荒療治だったかもしれないが、その時は気にも留めなかった。
そして詰め込むだけ詰め込んだ自分をどこかで吐き出すための道具は、音声合成ソフトだった。歌唱に特化した所謂ボーカロイドを使うことによって、自分の声ではなくそのキャラクターに歌わせることができ、DTMで作った曲と容易に合わせることが可能だった。音程と歌詞を入力して、息継ぎや抑揚などの細かい調整をすれば、言うほど簡単ではないが歌声を得ることが出来る。いかに自然に、感情豊かに歌わせるかを拘れば時間はいくらでもかかるが、そうやって理想を追い求めていた間は、何もかも忘れることができた。
そうして長い夏休みが終わる前に『ライトロード』という曲ができた。サークルでの活動の傍ら、誰にも言わずに自宅で自分だけで作った。いっぱいの胃袋を少しずつ消化するように、詰め込んだ想いを理想に昇華するために、不安と不満と恐怖、それと希望を曲に込めた。テーマは特に意識してはいなかったが、光の道が希望とリンクしたのだろう。図らずも軽音サークルと同じタイトルになってしまった。
けれどもタイトルを変える気にはならなかった。それまでに取り込んだ経験と溜め込んだ感情の結果出来上がったものだから、これまでの自分を全て注ぎ込んだものだから、後になって取り繕うような真似はしたくなかったのだ。タイトルはいわば作品の顔であり、溢れそうなほどに詰め込んだ何かを一言で表したものだ。それを別の言葉に変えて、作品を誤魔化すことはしたくなかった。
ようやく出来た曲を、一枚の絵を背景に曲と合わせて動画にして、動画投稿サイトに投稿した。ボーカロイドを使ってオリジナル曲を発表するのは、そのサイト特有の文化として定着しつつあったので敷居は低かった。黎明期から見ていた僕からすれば、自分が投稿する側になるのは若干畏れ多くもあった。正直に言うと、誰にも見られずに埋もれてしまうかもしれないことが怖かった。そうなると評価される以前の問題でどうしようもないが、とにかく投稿しなければ何も始まらない。やる前から逃げていては駄目なのだ。
夏休みが終わり後期の取得講義の履修登録も終え、覚悟を決めて自分の投稿した曲を確認することにした。
投稿して一週間は、僕の曲がどれくらい聴かれているのかが気になって仕方がなかった。動画再生数がどれだけの勢いで伸びるのか。コメントには何が書かれているのか。確認したい気持ちとしたくない気持ちが半々で、落ち着かない日々を過ごした。
結果として再生数は一万回を突破していた。それが良いのか悪いのかは分からなかった。人気の曲は百万回を超えていて、しかも他の曲でもそれに近い数字を叩きだしている作曲者もいるのだ。こういう人がプロになるんだろうなあと思いながら、自分との実力の差を実感した。
動画再生数というのは、それだけで評価の指標になるものだ。同じ人が繰り返し動画を再生することもあるので、再生数イコール見てくれた人数ではないが、しかしそれに近い人数が見てくれたことは事実だ。あるいは繰り返し再生する人は、それが気に入ってくれたから何度も見るのであって、その分だけ高評価をしてくれていることになる。
つまり一万回と言うのは、一万人に近い人が僕の曲を聞いてくれたという事実である。高校の文化祭で演奏した人数の比ではない。それだけでもう嬉しい限りだった。
コメントでも「ボーカロイドの調教が惜しい」や「流れをもう少し極端にした方が良い」、「いや、これはこのままの方がいいよ」など、預かり知らない所で評価や改善点が指摘されていた。中でも一番嬉しかったのは「次回作に期待」というコメントだった。
それは、僕の曲を受け入れてくれたということで。
そして、僕を捨てないでいてくれることの証拠だった。
僕を支配していた恐怖感は、おかげで大人しくなっていた。
タイトル通り、希望が垣間見えた気がした。
ちなみに「ボーカロイドの調教」というのは、この場合では調律して教育するという言葉を合わせた意味らしい。合成音声を不自然なく聞こえるようにするのは、存外難しかったのだ。
事件が起きたのは十月も終わるころ、その日の講義が終わってから訪れた軽音サークルの部室だった。
来月に行われる学校祭でライブをする予定で、参加したいバンドが複数いるので、練習で使う部室は交代制となっていた。不公平にならないように細かいルールを定め、時には話し合って使用時間を決めた。一年生である僕らは取得講義が多いので基本的に遅い時間で予約し、取得講義の少ない三年生はそれよりも早い時間に部室を使うことでバランスを取っていた。
僕たちが部室に着いた時、中からはまだ歌声と演奏音が響いていた。その声から判断するに、サークルのリーダーである柏原先輩が中心の「オークランド」だった。
七割はコピーバンドだと言っていた先輩たちが今やっているその曲は、テレビで流れるような有名な曲のコピーではなかった。オリジナルと言えばオリジナルだろう。しかし、コピーと言えばコピーでもあった。
ほぼ二か月に亘って毎日聞いていた音に酷似していたそれを、最後まで聞いて確信した。確かに僕が作った曲だった。
演奏が終わったのを確認して、橙堂が部室に入って行った。
「すんません、そろそろ交代の時間です」
「ああ、終わるまで待っててくれたのか。すまんな」
それぞれが楽器の片付けと準備を始める中、僕は言った。
「柏原先輩、最後の曲は……」
オリジナルですか、とカマをかけようか。それとも僕が作りました、と使用許可を求められていないことを言及しようか迷った。けれど投稿した際、自分のプロフィールは詳細に書いておらず、ネット上での別の名前であるハンドルネームは自分とは関連のない名前にしていたので、それが僕の作った曲であることは分からないはずだ。
逡巡していると、先輩は気負いのない爽やかな顔で堂々と言った。
「今の曲? 俺が作ったんだよ。学校祭ライブに出演するのは、一応これが最後だから、これまでのサークルの感謝の意と俺がいた証を刻むために『ライトロード』と名付けたんだ」
他のメンバーからは、それを賞賛する声が聞こえた。
「まさか最後にこんな良い曲を作るなんて思っていなかったよ」
「動画再生数は五万回超えたんだって。すげえよな」
「才能はちゃんとあったんだな」
本来なら僕の曲が褒められているはずだった。けれどその声は全て柏原先輩に向けられていた。
なんだこれは。何が起きている。
僕が作った曲を、どうして先輩が作ったことになっているのか。盗人猛々しいとはまさにこのことだが、今ここで本当の事を言った所で証拠がない。動画投稿サイトのアカウント承認から見せることも考えたが、とぼけられるかもしれないし、それが本当に証拠になるのだろうか。先輩の立場は悪くなると思うが、しかし信じてもらえるかが分からない。
「お前ら褒める振りして貶してんじゃねえよ。なんだ、俺の才能に嫉妬か? あ、鍵はここに置いておくから、後はよろしく。じゃあお疲れ」
先輩を睨むような目で追いながら考えているうちに、オークランドのみんなは部室を出て行った。残された僕たちは今までに作ったオリジナルの四曲を練習した。客観的に判断できないが、やはり納得のいかなかった。
サークル棟の前で解散して、僕は駐輪場へ向かった。入り口に到着すると、そこに柏原先輩が立っていた。
あの時、先輩のメンバーは感心した表情をしていて、カラーズの僕以外は尊敬したような表情だった。僕の顔が引きつっていたか、怪訝な表情をしていたかは分からないが、少なくとも彼らとは反応が違っていたのは確かだった。明らかに動揺した態度を取っていたかもしれない。僕が分かっていたことに感付いて、練習が終わるのを待っていたのか。
「お疲れ。四つも新曲を作るなんて、精が出るね」
「これだけ時間があれば、普通です」
「あれらは全部、君だけで作ったのかい?」
「編曲と歌詞は僕ですが、作曲はそれぞれのパートに任しています。ギターとベースはサポートしながらですから、何とか形になっているとは思います」
「ふむ。そうだよね。レベルが明らかに違うもんね。君だけで曲を作ったりはしないの?」
「先月、一曲作りましたが、それがどうしましたか」
「単刀直入に聞くよ。『ライトロード』は、君が作ったの?」
「はい」
「ああいや、誤解しないでくれないか。謝りたいんだ。勝手に僕の曲にしてしまった事を。気になるタイトルの曲があって、良い曲だったから歌いたかったんだけれど誰が作ったか分からなかったからね。それでサークルと同じタイトルだからもしかしてと思って、他のオリジナルを作っているメンバーにも聞いたけれどみんな違った。まさか君だったなんてね」
もしかして僕ではなかったらそのまま自分の曲として学校祭で演奏するつもりだったのだろうか。利益が発生することではないし、僕自身も著作権を振りかざしたいわけではない。幾曲と溢れるボーカロイドの曲の中で、許可を取ってコピーとして演奏する分には問題はない。
けれど彼は自分で作ったことにしていた。虚栄心にしては危ない橋ではなかろうか。いや、彼からすればサークルのメンバーに対しての見栄なので、有名どころではないそこそこの再生数の曲を選んだということか。
僕に対して直接聞いたのは、あの時の態度で察したのだろう。他のメンバーには遠回りに聞いたか、相手から何か言われるのを待ったのかもしれない。
どんな理由で他人の作った曲を自分で作った事にしたのか分からないが、とにかく、謝るというのなら許してあげよう。大人になるには、寛大な心を持たなければならない。
「許してくれるんだ、ありがとう。まあこれとは別件で、感謝して欲しいんだけれどね」
何を言っているのか。侮蔑することはあれど感謝することは何一つないはずだ。
「実は俺、そのサイトで結構有名な歌い手になってるんだよね。で、俺が歌ったことでそっちの曲の再生数も伸びたじゃない」
あの動画投稿サイトでは、主にボーカロイドの曲のボーカルを抜いて、代わりに歌が上手いと自称する人が歌う動画も流行っていた。そういう人たちを歌い手と呼ぶらしいのだが、早い話がカラオケを不特定多数に聞かせたい人たちの総称だ。
「それは知りませんでした」
「なんだ、そうだったか。まあいいや。とりあえず学校祭で歌う許可がとれたってことでいいかな。それとお願いなんだけれど、この事は内緒にしてもらえないかな。リーダーとしてさ、これがばれたらバツが悪いじゃん。ね、お願い」
犯人が分かった上で自分の曲が騙られたとして、メリットもデメリットも特に思い浮かばなかった。できることなら純粋に評価されたうえで再生数が増えるのは嬉しいが、そもそもの切っ掛けが無ければ聴いてもらえない。僕自身がこの曲で持て囃されたいわけではないのだ。実力の一つの証拠として確認できればそれで良い。捨てられていないのならば、使われるのは構わない。むしろこちらから捨てる覚悟で次の曲への養分としようじゃないか。
先輩の態度は癪に障るが、起きてしまった事は仕様がないとして、流してしまおう。
「ありがとう。それじゃあ、また。学園祭、お互い頑張ろうな」
キランと擬音が聞こえてきそうなほど爽やかな笑顔で、駐車場の方へ去って行った。
暗くなった夜空を見上げると、ピシッ、という空音が聞こえた。そんな気がした。
事件と言うには穏やかに片が付いたかもしれないが、ああいう人間が存在することを知らなかった僕にとっては十分な事件だった。
家に帰ってから先輩が歌っている動画を見たが、再生数は言うほど高くはなかった。本当に実力がある歌い手の百分の一にも達していない。この程度で有名と言っていたのだから、相当の自信家らしい。
学校祭は金曜日から三日間行われ、軽音サークルのライブは土曜日の昼過ぎから始まった。大学生や院生だけでなく一般の人も来るので、集まってくれた客は相当な人数だった。
各バンドが五曲前後を演奏する中、僕らのバンド「カラーズ」はオリジナルの四曲を演奏した。それなりに緊張はしたが、しかし興奮することはなく余裕と言うよりは冷めた感情があった。納得のいかない出来に仕上がった曲を人前で演奏して歌うのに熱はなく、そして楽しくなかった。むしろ恥ずかしいとさえ感じていたかもしれない。
僕の曲ではなく、僕らの曲であり、歌ったのも僕ではあったが、どこか別の場所から声が出ている感覚だった。
理想と現実の乖離は僕の現状から起因し、僕の感情の矛盾はメンバーとの熱量と方向性の相違から発生していた。
彼らには音楽に対する熱量が僕と同じ程度に感じられなかった。僕の方も彼らとずっとバンドを組みたいと思うほどの熱量はなかった。
僕が無理矢理合わせるくらいに、方向性が違った。自分の主張をして擦り合わせられる程度のズレではなかった。
難しい曲であれば、それなりに弾ければいい。他のパートと綺麗に噛み合った時が何とも言えない快感となるのに、それを彼らは知らない。一分の狂いなく、これ以上はないと思えるくらいの嵌り具合を、彼らは求めない。
簡素な曲であれば、適当に流してしまう。音数の少ない曲だからこそ、一音一音の響きやバランスを試行錯誤して出来得る限りの最高の音を探すことを、彼らはしない。
もっと輝けるはずの音楽を、彼らは磨かないのだ。
それが歯痒くてたまらなかった。
そんなフラストレーションを溜めても、しかし本格的に音楽の道に進んできたわけではないことを思い出す。彼らには彼らの物差しがあり、そこで満足できれば良いのだろう。
それを承知したからここに居るのだ。ここに居る意味を忘れてはいけない。
そうやって自分を押さえつけていた。
冬休みに入る前に、柏原先輩から声を掛けられた。
「前に作曲した腕を見込んでさ、一曲お願いしたいんだけれど。いいかな」
爽やかに図々しい言葉の裏側には、僕を利用しようという魂胆が透けて見えた。
「構いませんが、作曲はちゃんと僕ということにしてくださいね。最低でも、共同制作という体でお願いします」
「さっすが。物分かりが良いやつは好きだよ」
「そのかわり、テーマは先輩が決めて、歌詞も書いてください」
「おう、いいぜ。お礼は弾むよ」
「お礼なんていりません」
そこにどんな思惑があったのか、僕は知らない。大方、次を期待されて思うようにいかず、僕を頼ってきたのだろう。
ライブが無事に終わったからか、カラーズの活動がやや無気力になってきた頃で、新しいことに挑戦するのに丁度良い機会だった。
他人のテーマと歌詞を以って、望まれる音楽を作り出すことが出来るのか試したかったのだ。利用するのは、お互い様だ。
誰かの音楽を聞くという外側からの刺激だけではなく、僕が持つ引き出しを確認するという内側からの刺激が必要だった。完成品を評価してもらうのではなく、過程で評価してもらって改善点を直して行けば、もっと完成度の高いものが出来るのではと考えたのだ。
柏原先輩からの依頼というのが癪に障るが、仕方のない事だ。顔の広い先輩は、断ると厄介なことになりかねなかったからだ。先輩の性格がどうであれ、音楽の、とりわけ歌に対しては真面目に向き合っていたので、彼と僕の音楽性を組み合わせることに思ったほどの嫌悪感はなかった。
ともかく。
これも一つの縁だと思って、連絡を取り合いながら製作を始めた。
先にテーマから大まかな伴奏をイメージして作り、そこから先輩が更にイメージして書いた歌詞を一緒になって悩んで考えて改善した。
僕が考えたメロディを、今度は先輩の好みと歌いやすい音域を考慮しながら組み立てた。
歌詞とメロディの細かい修正をしながら、伴奏を作り直す。
後期の試験を挟んだら、改善点が浮き上がって来たので、それをさらに修正した。
ちょっとした言い合いもなくはなかったが、それも良い曲を作るためにお互いが妥協しなかった過程だった。結果としては満足のいくものに仕上がった。
音源が出来たので、僕はボーカロイドで歌唱部分を作り、先輩は実際に歌うために練習をした。
二月の終わりに完成して、動画投稿サイトに投稿した。
僕の音楽を待っている人がいたことがコメントから分かり、前回の曲以上に動画再生数の伸びが早かった。十万再生数を超えるのに一ヶ月と掛からなかった。
確かな手応えを感じた。