六年前
三年生で一番最初にした軽音楽部の活動は、新一年生の部活動紹介での演奏だった。
各部活動、入れ替え時間を含めて五分間だったので、『スターマイン』を道旗と一曲歌い、適当に挨拶をして終わった。
「活動は基本的に文化祭の舞台発表のみで、その他は各自自由に活動をしています。僕ら自身、軽音楽の活動がおよそ二年間だけなので教えられることは少ないと思いますが、一緒に楽しく練習していければ、と思います」
たったそれだけを言うのに、二回も噛んでしまった。歌っているときは緊張なんて吹っ飛んでいたのだが、話すときに限って口が上手く回らなかった。こんな先輩で大丈夫だろうか、と思われていなかったか心配だった。
ちなみに、新入部員が入ってこなかったら来年度で廃部、というのは言わなかった。無くなってしまうのは寂しいが、しかし入部は強制するようなものでもない。やりたいと思った仲間が自然と集まって活動するのが、部活動なのだから。
昨年の卒業式前に「伝説のバンドの母校なんだから、軽音楽部を潰すなよ」と先輩から言われはしたが、その年の新入部員はいなかったことを考えればおそらく本気で言ったわけではなかっただろう。実際、口元には意地悪な笑みが浮かんでいた。
「そこは来年の後輩次第だからね。わからないよ。そうそう、廃部になる時は、ドラムセット、吹奏楽部にあげてね」
高島先輩は今後の軽音楽部のためにと、先輩自身で持ってきたドラムセット一式を寄付してくれたのだった。そんな安いものではないのに、それを寄付できるとは。
お金持ちって怖い。
三週間経って仮入部期間が終わり、受け取った入部届に部長である僕のサインをし、顧問の先生に正式に提出した。驚いたことに新入部員は四名、二年生と新一年生が二人ずつだった。
先生は形の上で顧問をしているだけで、音楽の知識は全くない。軽音楽部の活動には基本的に関与せず、部室に来ることもほとんどなかった。だから入部届を提出する時には、職員室に行かなければならなかったのが面倒だった。
その時ちょうど担任の先生とすれ違った。
「この間のと二年からの進路調査を見たが、ずっと同じ大学を書いているな。目指しているものがあるのか」
体格が良い体育会系の四十代後半の男性教師で、担当科目は社会だった。
「いえ、特にないんですが」
「そうか。まあお前の学力なら無難なところだろう。けれど万が一ということもあるからな。そろそろ本腰を入れて受験勉強に取り組まないといけないぞ」
「はあ」
僕のことにはほとんど興味を持っていないようで、目を合わせずに言った。
「軽音楽だか重音楽だか知らないが、遊びもほどほどにな」
何も言えずにいると、先生はすぐに去って行った。
僕は部活の最中も、家に帰ってからも、先程の言葉を思い返していた。
遊び、なのだろうか。他の、例えば運動系の部活とは違って全国大会があるわけではない。文化系でも全国高等学校文化連盟が吹奏楽コンクールや高校演劇大会などを主催している。高校生バンドを集めての大会もあるにはあるが、全国高文連が開催しているわけではなく、参加するには開催都市の近くでなければならなかった。参加資格は元よりなかった。
表立った活動は文化祭だけだったが、それ以外の期間は楽器演奏や曲作りの技術向上や勉強のために、主要五教科よりも時間を割いていたのは確かだ。そのせいで成績が下がってしまうと、学生の本分は学業にあると怒られるのは尤もだとは思うが、しかし本気で取り組んでいることに対して「遊び」と言われることは、それは違うのではないかと感じてしまう。
偏見ではあるが、先生に限らずあの年代は軽音楽に対して否定的な人が多い。将来的に何の役にも立たないのならば、それは無駄だと言うだろう。
だが将来的にという言葉を捉えるならば、将来的にそれを仕事にするのならば、今のこの行為も将来に直結することであって、決して無駄なことではない。事実、昨年卒業した先輩たちは音楽の方向へと進む道を選び、そのために専門学校へ進学した。遊びではなく本気で音楽に取り組むために。それだけの思いと覚悟をもって、彼らは自分たちの道を決めた。
その思いを、否定されたような気がした。
そして、そこに引っかかったのだ。
けれど、僕は。
ならば、僕は。
そこに向かうだけの思いと、覚悟を持っているのだろうか。
新たに曲を作ろうと思っても、授業内容が難しくなるにつれて自宅での勉強時間が増えたのと、この間の先生の言葉が胸に残って、一向に着手することが出来なかった。
今、僕が曲を作ろうとしていていることは、無駄なことなのだろうか。
夢中になって音楽を求めていたのは、ただの遊びだったのだろうか。
たかが二年間ではあるけれど、楽しみながら一所懸命やってきたことは、何だったのか。
先輩たちと同様に、その道に進む事を決めるべきだろうか。
けれど不安がある。できるのか、できないのかではなく、音楽を仕事にするということが、具体的にどういうことであるのか。先輩たちはそのままバンド活動を続けて、いつかはどこかの会社と契約してメジャーデビューをするだろう。どこの会社かなんて意識したことはなかったけれど、棚にあるCDの背を見てみると、思った以上の数の社名が確認できた。この中のどれかに自分たちを売り込んで、あるいはスカウトされて、門戸は開ける。実力のある先輩たちなら、いずれテレビで見る日も遠くはないかもしれない、と思った。
しかし、そうでなかったら、どうなる。一口に音楽関係の仕事といっても、それは多岐にわたる。曲を作って歌うアーティストはもちろんとして、音源を録音して音全体のバランスや音色を調整するレコーディングエンジニア。ノイズや音質のチェック、整音を行うマスタリングエンジニア。録音やライブのサポートをするスタジオミュージシャン。コンサートや結婚式など、イベントの音響を担うスタッフ。楽器演奏や歌い方を教える音楽講師やインストラクターなど。その他にも、多くの仕事があった。
デビューできなかったからこれらの仕事に就く、というのは失礼だが、しかしこういう道もあるのだ。それに、純粋に最初から目指している人がいるかもしれない。もしくはこれらの仕事をしながら、別に音楽活動をしてデビューを目指している人もいるかもしれない。目標があるから、やっていけるのだろうか。
ならば問題は、僕の目標がどこにあるかだ。
歌を歌ってのメジャーデビューか、音楽関係の仕事か。
分からない。今やっていることと自分の将来がどう繋がるのか、想像できない。
具体的な目標が、イメージできない。
僕は何のために、歌を歌っていた。
僕はなぜ、自分の曲を作っていた。
梅雨に入り長雨の日が多くなってきた頃、部室には僕と道旗、それと二年生二人の四人が集まっていた。
僕はノートを広げて、受験勉強の合間でやっていた製作途中の曲の作詞をしていた。以前高島先輩に教えてもらった方法を真似してみてはいたが、やはりしっくりこなかったので改めて自分なりの作詞方法を未だに模索していたのだ。一・二行をいくつか書いては没にして、一応は書き上げたものも後で読み返してみたら納得できなくて、やはり没にした。どうにも、詞に関しては理論だけでは上手くいかない。
うんうん唸っている横で、道旗は音楽雑誌を読んでいて、二年生の二人はそれぞれエレキギターとベースを鳴らしていた。そのフレーズはどこかで聞いた覚えがあったのだが、どこで聞いたのか思い出せなかった。
代わりに聞きそびれていたことを思い出したので、尋ねることにした。
「そういえば山中山は、どうして二年になってから軽音楽部に入ったんだ」
「言っていませんでしたか。ああ、あれは道旗先輩に言ったんでしたね」
「というかその山中山って、止めてくれませんか。漫才コンビ組んでるわけじゃないんですけど」
「そもそも、どっちがどっちか分かってますか」
「眼鏡掛けてる方が山中」
「どっちも眼鏡です」
道旗が吹き出して大笑いした。
「お前ら三人で漫才してんのかよ。あー、なんだっけ、髪短い方が中山か」
「どっちも同じくらいです」
「ちょっ、道旗先輩まで」
「二重なのが山中」
「パッと見で分かりにくいです」
「制服着てるのが中山」
「ここの全員です」
「もっと分かりやすい特徴があるでしょう!」
中山に怒られてしまった。仕方ない、冗談はここまでのようだ。
「ギター持っている方が中山だろ」
「逆です」
これは本当に間違えてしまった。
正解はギターを持っている方が山中 昴で、ちょっと声がうるさい。
そして最初から淡々と冷静に突っ込んでいたのが、ベースの中山 拓雄だった。
みんなで一頻り笑った後、中山が静かに語りだした。
「去年、高校の軽音楽部を舞台設定にしたアニメがあったのを知ってますか。それが凄く面白くて話題になって今空前の軽音楽ブームなんですよ。ご多分に漏れず僕たちもはまってしまいまして、都合良く言うと失礼ですがこの高校には廃部寸前の軽音楽部があるということで仲間を誘って入部を決意したわけです。残念ながら一緒に入部してくれたのは山中だけでしたが、それでも一人ではなかったのは良かったです。ちなみに僕がベースを選んだのは僕の一押しキャラがベースを弾いているからで黒髪ロングの凄く可愛い娘なんです。本来ならレフティのベースを買いたかったのですが残念ながら僕は右利きでして、せっかくやるならちゃんと弾けるようになろうと思ったのでレフティは断念したわけです」
めっちゃ早口で言っていた。
彼の鞄についているラバーストラップの、あれがそのキャラというわけか。廃部寸前なんて部活動紹介の時には言わなかったけれど、部員が三年生二人だけという時点で推して知るべしというやつだ。
「ちなみにベースの名前はアントワネットです」
名前を付けているのか。意外に感じたが、その感覚は分からなくもない。僕自身はギターに名前を付ける気にはならないが、自分で作った曲を大事にする感覚と似たようなものだろう。
「そうなんだ。じゃあ山中も同じようにアニメの影響で」
「いえ、俺はもともとギターに興味を持っていて、誘われたからいい機会だと思ったからでして。アニメも切掛けではあるんですけど、決してアニメが最初というわけでは……」
山中は言い訳をするような口調だった。
どういう理由であれ入部してくれたのは有り難い事なのだけれど、なにをそんなに焦る必要があるのだろうか。その心情は推して知ることができない。誰かの心はもとより、自分の心さえも分かっていなかったのだから。
「それでさっき練習していたのは、そのアニメの曲か」
「あ、まあ、はい。劇中歌で、スコアもギターと一緒に買いましたんで」
「やっぱり難しいですね。全然弾けるようになりません」
「どれ」
道旗が楽譜立てからスコアをとり、さっと目を通した。
「うわ、これは初心者には難易度高いだろう。っていうか全体的に結構難しいぞ」
僕もスコアを借りて見てみた。先輩たちだったら簡単に演奏できそうだけれど、曲ばかり作っていてしかも基本的にアコギしか弾いていない僕にとっては、ベースとドラムの難易度が分からなかった。キーボードは道旗の私物が部室に置きっぱなしにしてあるので、たまに借りて練習はしていたが、ギターもキーボードも確かに思った以上に難しそうだった。
「文化祭でやるつもりかは知らないけれど、まだ時間があるから基礎から練習していった方が良いんじゃないか」
そう道旗は言う。いろんな楽器に手を出して、それなりの技量で習得している彼の言うことは確かだ。いろいろ経験したからこそ、基礎練習の大切さを思い知ったのだろう。
「好きな曲を好きなように練習した方が良いんじゃないかな。つまらないのよりは、自分が楽しいと思える方がモチベーションを保ちやすいし。まあ基礎を会得していた方が、他の曲を演奏する時にやりやすくて良いと思うけれど」
もちろん彼らが基礎練習を全くしていないわけではないことは知っていた。しかし基礎練習と好きな曲を練習している時の表情が、全然違っていたのは明らかだった。
「趣味でやっているから、本格的に、完璧に出来るようになろうとは思ってないですけど」
山中が目を逸らして言った。
趣味。趣味か。
「先輩たちみたいに上手なら、基礎はいらないと思いますけれど」
中山も呟くように言った。それに対して、道旗は優しい声で反論した。
「俺たちだって最初から上手かったわけじゃないよ。基礎練習を繰り返して、毎日続けてやっと今のレベルになったんだ。それにそんな、言われるほど上手じゃねえよ。まだまだ精進が足りないと思っているし、今でも基礎練習は欠かしてないよ」
「僕もこいつも、ギター始めてからまだ二年くらいだからね。最初は基礎ばかりしていたよ。だからじゃないけれど、基礎練習をする時間を少し延ばしてみればいいよ。基礎教本は卒業した先輩が置いて行ってくれているからさ。趣味でも、難しい曲を弾けるようになると楽しいよ」
趣味。僕のこれは、趣味なのか。
静かな雨音が、微かに聞こえた。今日はこのまま、夜まで降り続きそうだった。
僅かの間、二人は何を考えていたのだろうか。中山が口を開いた。
「すいません、生意気なこと言いました。基礎練習、頑張ります」
そんな気張ってするものでもない、と僕が言う前に、山中が続いた。
「すんませんでした。完璧は無理かもしれないっすけど、出来るだけ基礎、頑張ります」
別に叱ったつもりではなかったのだけれど、変に畏まられてしまった。これで上達していけるようになれば、それでいいのだが、
「謝らなくていいよ。するかしないかは君たち次第だ。これは単なるアドバイスだよ」
努めて明るく、言ってみた。
「そうそう。文化祭で恥をかきたくなければ、しっかりやれってことだ」
道旗も予想外の雰囲気になってしまった事で、変な汗をかいていた。
「ありがとうございます」
「ありざっす」
ただでさえ湿度の高い部室が、さらに湿っぽくなってしまった。さっきの軽い雰囲気はどこへ行った。帰ってこい。
そう願った次の瞬間、除湿器がドアを開けて入ってきた。
「すいまっせーん、遅れました!日直の仕事が思ったより時間かかっちゃいました」
「ルナ、そのノリは軽すぎる。すいません、ルナに付き合っていました」
除湿器こと上梓月と相方の茅嶋陽奈子。新入部員の一年生だった。
肩までの癖のある髪は色素が若干薄く、子ギツネみたいに跳ね回っているのは上梓で、その上梓にいつも振り回されている一つ結びのタヌキ顔が茅嶋だ。
「あれ、練習してないんですか。というかこの雰囲気はなんですか」
「まさか、私たちの遅刻に対する罰を考えていたとか」
「えーっ。痛いのは嫌ですよ、痛いのは。あ、でも先輩からなら少しは痛くても……いたいっ!」
「冗談に決まっているじゃないですか。体罰なんてあるわけありません」
茅嶋が上梓の頭を叩いていた。なんというか、本当に騒がしいな。この二人がいるだけで場の雰囲気が一気に明るくなった。救われた気分で、僕は言った。
「罰なんて考えていないよ。いやね、軽音楽部に入部した理由を聞いてなかったなと思って、聞いていたんだよ」
上梓が座っている僕の肩に手を置いて体をくねらせる。
「それ聞いちゃいますか。恥ずかしいなぁ」
恥ずかしい理由があるのか。それは気軽に聞いてもよい類の話なのだろうか。
「この子、先輩に憧れて入部を決めたそうですよ」
茅嶋がさらっと言った。
先輩に憧れて、ということは僕か道旗が、憧れることを何かしただろうか。思い出そうとはしても、新一年生との接点といったら部活動紹介しかない。あの時には大したことはしていなかったはずだ。
「ちょっとそこ、どうしてすぐ言っちゃうの」
「どうしてもなにも事実だし、恥ずかしがることないんじゃないの」
「いや、そうなんだけど、ヒナは空気読もうよ」
「空気を読んだからルナをいじめてるのよ」
「え、あたしっていじられキャラだったっけ」
「愛されキャラよ」
茅嶋が「愛」を強調して言った。そしてなぜか、にやにやしながら僕の方を見ていた。
もしかして茅嶋は、入って来た時から不穏な空気を察知していたのか。それで空気を読んで上梓を騒がせていたのか。上梓に振り回されていた印象だったけれど、実際は逆に茅嶋が上梓の手綱を引いているようだ。以前聞いた話では二人は幼馴染と言っていたので、なんだかんだ言っても良い関係なのだろう。
おかげで雰囲気は軽くなった。さすが元気な除湿器、パワーが違う。
「愛されキャラかー。それなら仕方ないなぁ」
仕方ないのか。それでいいのか。女の子の思考がよくわからなった。
上梓は「えっと」と言って目線を斜め上に移した。
「あたしの家って、高校の近くなんですよ。というか部室の目の前です。それで、今年の三月、部室でライブしましたよね。卒業生が集まってて家から見えましたし、歌も聞こえてましたから。その時の最後の二曲がすっごい印象に残ってて、良い曲だなって。なにより歌が、凄く気持ちがこもってて、好きな声だなって。卒業しちゃったんだろなって思ってたら、部活動紹介で歌を聞いて、この人だったんだって気付いたら……な、なに言ってるんでしょうね、あたし。恥ずかしい。忘れてください」
真っ赤な顔になって、上梓は茅嶋の後ろに隠れた。特に恥ずかしい事は言ってなかったと思うけれど、でも、僕の曲を好きと言ってくれる人がこんな所にもいたのか。有り難い事だ。
「あ、あたしはもういいでしょ。今度はヒナの番」
「私はルナに誘われて入りました。ルナが一人じゃ心細いと言ったので」
「余計なこと言わないでよっ」
上梓に背中を叩かれながら、茅嶋はまた、にやにやと僕を見ていた。
僕は笑われることをしていたのだろうか。自分では気付いていなかったが、可笑しなことをしたのだろうか。分からない。ただ、その視線は特に不快なものではなかったので、気にしないことにした。
ふいに道旗が肘で僕の腕を突いてきて、小声で言った。
「おい、やっと春が来たな」
「何を言っているんだ。もうすぐ夏だぞ」
そうだ、夏が来るんだ。文化祭の舞台発表をどうするか、早めに決めておかないといけない。夏休みには合わせての練習が出来るようにしたいし、新入部員の二年生は初心者だから、方向を早く定めて一つひとつの練習時間を多めに確保したい。
上梓は中学の時は吹奏楽部で、パーカッション――打楽器をしていた。曲によってはドラムも扱っていたらしいので問題ない。
茅嶋は小学校からずっとピアノを習っていて、こちらもキーボードとして問題はない。
問題は、彼女たちがなにをやりたいかだ。
「ところで文化祭についてなんだけれど、二人は僕たちのバックバンドをしたいのかな」
上梓はドラムで、茅嶋はキーボードで、これまで僕の作った曲ばかり練習していたから聞いてみた。
「いや、あたしはやりたくないですっ!」
上梓にはっきりと言われてしまい、少し傷ついてしまった。てっきりそう思って期待していたのだが、そうではなかったようだ。手持ち無沙汰で練習していただけだろうか。
「その言い方はないんじゃないの。先輩、勘違いしないでくださいね。ルナは先輩の歌を聴きたいからバックを務めたくないんです。一緒に演奏していると、先輩の歌を集中して聴けないじゃないですか」
顔に出ていたのか、茅嶋がフォローをくれた。なるほどそれなら納得……してよいのか。まあ好きな曲は自分で演奏するよりも、しっかり聴きたいということなのだろう。
上梓が微妙な顔で茅嶋を睨んでいたがそれは無視するとして、それなら選択肢は一つ、いや二つか。
「それなら山中山と一緒にバンドをするか。今練習している曲、二人が入れば丁度いいんじゃないか。それとも別でユニットを組んでするか。そうなると山中山がパート足りなくて困ることになるのだが」
そうなると僕がキーボード、道旗がドラムをすることになって、負担がかなり増えるな。僕も新しい曲が書けたらやりたいけれど、練習する時間を取れるだろうか。最悪の場合、彼らとはアニメの二曲だけやって、僕と道旗で二曲か三曲をする方向になるか。
「私たちは別に構いませんよ」
「そのアニメ、あたしたちも好きだし」
拒否された場合の事に考えを巡らそうとしたら、意外とすぐに返答があった。
「山中山先輩が嫌でなければ、ですが」
茅嶋が言うと、二人はもの凄い速さで首を横に振っていた。
「それはどういう意味だ。嫌じゃないという意味か」
僕が言うと、今度はもの凄い速さで首を縦に振った。これは一・二年生でバンドを組むことを了解したという意味で良いだろう。というか声を出せよ。
「そうなったらボーカルは誰がするんだ。それ女性ボーカルだが、まさか山中山が歌いたいってことはないよな。いや、まさかもありえるか」
道旗が言うと、二人は再び首を横に振った。
「私で良ければ、歌いますが。あまり上手じゃないので、期待はしないでください」
茅嶋が言うと、二人はさらに激しく首を横に振った。それは「期待しないでください」への反応なのか、それとも彼女が歌うことへの拒否なのか。歌いたくないことはさっき示したから答えは分かっているのだが、だからお前らちゃんと喋れよ。
「そんなこと言って。ヒナは上手いんだから、期待するよっ」
「まあしばらくは個人練習になるだろうから、それぞれ頑張って。目標はその中の三曲を演奏できるようになること、かな。じゃあ、後は自由時間ということで」
特に拘束していたわけでないし、むしろいつもは自由に活動していたのだが、いつまでも話し続けそうだったので、一応のけじめとして手を叩いて言った。
上梓はドラムスティックをカバンから取り出してスネアドラムの上に置くと、山中のスコアを手に取った。
「それじゃあ山中先輩、ドラムとキーボードのパートスコア、コピらせてください」
「すいません、職員室にコピーしに行ってきます」
上梓と茅嶋が部室から出ていくと、山中山は勢いよく練習を再開した。バンドを組んで目標が出来たことで、やる気が一気に出てきたようだ。
さて、僕の方も詞を考えよう。
テーマを軽音楽部の現状に変えようか。先輩たちがいた頃とは違う、後輩が出来た今の僕たちを、この空気感を書き出してみよう。そうすれば、少しは前に進めるかもしれない。
しばらくして下校時間が迫って来たので、消灯と戸締りをして外に出た。
予想通り、雨は未だ止んでいなかった。
期末考査に統一模試と、受験に向けての下地を整えだした。
クラスメイトとの会話は授業内容や大学についての話題が増えてきたが、まだゲームや漫画などの話題の方が多かった。友人との他愛のない会話まで、勉強漬けにはしたくないだろう。それに部活動に引退は、ほとんどが夏の大会だ。受験を本格的に意識するには早すぎた。けれども進学か就職か、軽いやりとりを交わすことはあった。その中で就職と答える人は全くおらず、一部に専門学校と言う人はいたが、大抵は四年制の大学や短期大学だった。
そして口を揃えて言うことは「とりあえず大学」だった。
就きたい仕事、行きたい学部や学科で進路を決める人、自分の成績で大学を決める人と様々だったが、まるで合言葉のようにみんなの口から発せられていた。
大学を出ていないと良い会社に就職できない。それは確かにそういう部分、今の社会では大学卒業が最低のラインになっている部分はある。一介の高校生がそれを否定できるほど社会を知っているわけでもなく、また経験もない。親や教師から言われたのなら、それを鵜呑みにしてしまうかもしれない。事実として大卒から新入社員を採る会社が多いからこそ、そういう合言葉も生まれるのだろう。
まだ遊びたいから、などと言う人もいたが、それはモラトリアムを享受していたいという意味で、ある意味でいきなり社会に放り込まれることが怖かったのだろう。「遊ぶ」と言えば聞こえは悪いが、それはアルバイトやサークルなど高校生の時より広いコミュニティを経験することで、更に広いコミュニティである社会に出る準備をすることだ。経験値を得て、独り立ちをする心構えの期間と言い換えればいい。
明確な目的がある者。漠然としか目標が定まっていない者。それぞれの意識で進路を決めていた。
ならば僕はどうだったか。
このまま歌ったり作曲をしたりという音楽活動はやりたいけれど、専門学校に行くというのは何故か憚られた。本格的にその道に行くことが怖かった。自分の音楽を、もしかしたら否定されるのが恐ろしかった。先輩や親友に認められたことはあるけれど、それでも、その先の人達に受け入れられるのかを不安に感じていた。
僕は楽器の演奏が取り立てて上手なわけではない。ただパソコンで音楽を作っていただけで、それも自分の好きなように。自分の音楽を仕事にするには、大衆に受け入れられる音楽を作らなければならない。その時の流行があるだろう、上からの指示があるだろう。そういうものに応えられる気がしない。仮にできたとしても、それが受け入れられるかは分からない。要するに、自信も覚悟もなかったのだ。
今でこそ、なんて無意味で思い上がった悩みなんだと思うが、当時は社会への無知と自身への過小評価で、期待よりも不安が勝っていた。誰でも最初は初心者で失敗を繰り返して社会人になる、ということを知らなかった。というか勝手な想像で恐怖していただけだった。
銀行員で厳格な父親から「音楽は遊びだ、将来をもっとよく考えろ」とさんざん言われ続けたことも、原因の一つだとは思う。「お前みたいなやつが、その世界で食っていけるわけがない」と言われたこともあった。
そして夏休みの前半にあった三者面談でも、母親にこう言われた。
「ちゃんと大学を卒業して、良い会社に就職してくれればいいです。そのためには確実に行ける大学を選ぶのが賢明よね。幸い、今の成績だとこの大学は射程圏内だから、このままなら問題はないわよね。ほら、最近ちゃんと勉強しているから成績は上がっているし、これから集中してやれば大丈夫よね」
なんて杓子定規な意見だったのだろう。僕の将来を心配しての発言だったことは理解していたが、しかし僕自身をまったく見ていなかった事の証左でもある。何に興味を持っていたのか、どこを目的にしていたのかを、彼らは全然知らなかったかもしれない。目立った反抗期などなく、基本的に親の言いなりで、強い自己主張をしたことがなかったから。躾が厳しかったわけではなく、物事の分別を弁え、人の道を外さず、やるべきことをやっていれば、強くは干渉してこなかったので、お互いがお互いを理解していなかったのだろう。
僕もそのころにはもう、音楽を趣味の一つとして割り切っていた。漫画やゲームと同じく、息抜きのための手段だと。それでも作曲自体を止めることはなく、休憩のつもりがついつい熱が入りすぎてしまうことも多々あった。文化祭を目標にして、どうしても新曲を一つは作りたかった。
部活にもほとんど毎日行っていた。後輩の成長が目に見えていくのが嬉しかったし、道旗との練習も楽しかった。模試の結果も悪くなかったから、親からとやかく言われることはなかった。
そういえば道旗の進路を聞いていなかった。まさかあいつは音楽の専門学校に行くのではないかと思ったが、
「俺もとりあえず大学だよ。短大だけれど。親から大学への進学じゃないとお金を出さないって言われてさ」
と答えた。そうか、同じなのか。
「僕もとりあえず大学だ。正直、なりたい職種と言うのが今のところないけれど、在学中に見えてくることもあるだろうし。しかしどうして短大なんだ」
「何でもいいから教員免許を取れって。仕方なくだよ。専門学校への入学金は、その間にバイトして貯めるつもり」
「そっち方面に行くつもりではあるんだな」
「まあその間に心変わりするかもしれないから、今ははっきりと言えないな。お前の方こそ、在学中にデビューとかするんじゃねえの」
「ははっ、まさか。音楽活動をやめる気はないけれど、それこそ分かんないよ」
とりあえず大学に行くために、とりあえず将来のことは棚上げした。一応の進路は確定したんだ。そのためにするべきことは、勉強しかなかった。
「それより新曲できたんだよな。聴かせてくれよ」
「ああ。高校生活で作る最後の曲だ。意見を聞かせてほしい」
そうやって自分を誤魔化して、不安や心配を排除して浮かんできた感情に、静かに蓋をした。
高校生生活最後の文化祭の日が来た。
空は雨が降りそうな雲で覆われていたが、何とか持ち堪えていた。
最初にステージに立ったのは、一年生と二年生の合同バンド。バンド名は「コーヒーブレイク」。件のアニメの女子高生バンドに因んで付けたみたいだ。
彼らはこれまで一所懸命練習をしてきて、その成果を初めて披露することになる。ステージに立つ前の彼らの緊張振りを見ていると、最初の頃の自分を思い出した。「今までの練習を思い出せ、君たちなら大丈夫」と発破をかけて見送った後に、自分たちもこの後に演奏することを考えて、妙な緊張感に包まれた。
今更、余計に気負うことはない。所詮は文化祭なのだ。失敗しても中断しなければいい。失うものなどないのだから。
その時、ピシッ、と家鳴りが聞こえた。古い体育館で天気も良くないから、鳴ったのだろう。体育の授業中でも、偶に聞こえていた。けれど今は、その音がなぜか心から聞こえたような気がした。どうしてかは分からない。何かの警笛のような気がしたが、それどころではなかったので、すぐに忘れた。
彼らは三曲を、完璧とは言い難いが最後まで演奏し終えた。有名なアニメの曲と言うことで、客席の盛り上がりも悪くなかった。初心者から短期間でよく頑張ったものだった。「よくやった、良かったよ」と軽く声をかけ、次は僕たちの番だ。
準備を終えて、僕と道旗のユニット、「ブルーフラッグ」の演奏が始まる。ユニット名は名前を合わせて英語にしただけだ。別に名付けなくてもよかったのだが、道旗が思いつきで付けて、特に拒否する必要性もなかったのでそのままにした。
最初の曲は昨年と同じ『スターマイン』。やり慣れてはいても、やはり最初にギターを鳴らす瞬間は緊張した。
二曲目も昨年と同じ『グラスホッパー』。前回は自分でギターとキーボードようにリアレンジしたのだが、今回はキーボードの道旗がさらにアレンジを加えて、透明な世界観に色が付いた。より良い曲になった。
次は『雪と兎』を二人で演奏できるようにリアレンジして演奏した。音の少ない静かな曲だから簡単にできると思ったが、意外と手間がかかった。キーボード主体の音楽だから道旗に結構負担が掛かったが、それを意に介さずに見事に弾いてくれた。
最後は夏休み中に作った新曲『ライトニング』だ。後輩たち、主に上梓をイメージした、うるさくて明るく、軽快な曲。これも最初はバンドサウンドで作り、後でギターとキーボードで弾けるように、道旗と組み直した。大雨の中の一瞬の輝き、稲妻の煌めきを表現するのに、彼のアイデアであるソロパートが光る曲に仕上がった。
想像以上の大歓声に包まれて覚えた達成感は、昨年の比ではなかった。けれども先輩たちの盛り上がりには負けていたように感じるのは、そこまで望むのは贅沢と言うものだ。偉大な先輩たちを持つというのは、こういう部分では損をするのかもしれない。
この後は吹奏楽部の演奏が控えているので、早々に撤退した。余韻に浸るのは後回しにして、吹奏楽部の演奏を聴くことにした。
三十名超のその音は、軽音楽とはまた違った味わいがある。音の厚みと軽妙さ、色んな楽器による強弱とそのギャップ、流れるような音色の波状攻撃。音楽の良さは一つだけではないということを改めて教えてくれた。
二曲を終えて次の準備をしている間に、声を掛けられた。女の子の声で振り向くと、隣には道旗もいた。
「さっきの演奏良かったよ。去年や一昨年もだけれど、普段からは想像もつかない声で歌うよね」
彼女は昨年同じクラスだった、藤野あやめ。今年は道旗と同じクラスだった。
「それは褒められていると解釈していいのかな」
「そうだよ。格好良かったよ」
そう言って微笑んだ彼女は、名前の通りまさに花のようだった。
「道旗はどうして一緒にいるんだ」
「お前を探していたら、そこで偶然会ったんだよ。お前一人でどっか行っちゃうんだもん」
「だもん、じゃねえよ、可愛い子ぶんな。迷子になった子供か。で、僕を探していたって、何かあったか」
「いや何もないが、折角だから一緒に回ろうかと。放送で呼び出してもらおうかと思っていたところだ」
「迷子やめろ。まあいいが、吹奏楽部は最後まで聴くぞ」
「パパー、今度は勝手にいなくならないでね」
「お前は……手、繋ぐか」
「あ、いや、それは遠慮しとく」
二人でバカをしていると、藤野が口に手を当てて上品に笑っていた。
「二人って本当に仲がいいね。幼馴染なの?」
なんて、頓珍漢な質問をしてきた。
「いや、高校からだよ」
この程度で幼馴染呼ばわりなら、僕はともかく道旗は幼馴染だらけだろう。
「へえ、羨ましい」
どこが羨ましいのか分からなかった。何と返せばよいのか迷っていると、さらに聞かれた。
「さっきの曲は全部、オリジナルだよね。二人で作ったの?」
「僕が作った」と答えそうになったのだが、しかしアレンジまで入ると道旗の力もあるし、なにより半分以上は先輩たちの力が大きい。純粋に僕だけの能力で作ったわけではないので、堂々と言うのに逡巡した。
代わりに道旗が僕を指差して、「こいつ」と答えた。
「アレンジなんかは俺も手伝いはしたけれど、大元のほとんどはこいつだよ。一人できっちり作るからな、大した奴だよ」
「いや、先輩や道旗に手伝ったりしてもらったから完成できたわけで、自分ひとりで出来たのなんて一曲もないよ。大した奴だなんて、過大評価だ」
「それでもすごいよ。私は作曲なんてよくわからないから、尊敬しちゃうな。そだ、進路って、もしかして音楽関係に進んだりするの?」
「いや、普通に、とりあえず大学だよ。音楽は続けるとは思うけれどね」
あくまで、趣味として、だ。
「そうなんだ。有名人になる前にサイン貰っとこうかな」
「気が早いよ。有名になれる保証なんてないんだし」
「私はなると思うけどなあ」
「俺もなると思うけどなあ」
「買いかぶりすぎだよ。そりゃあなれたらいいなとは思うけれど」
また、ピシッ、と家鳴りが聞こえた気がした。けれどそれは再開した吹奏楽部の演奏に紛れたので、気にしないことにした。
その後吹奏楽部の演奏を聴き終えて藤野と分かれ、二人で展示教室を回った。
「藤野さんと回らなくてよかったのか」
「別にいいよ。それに、いつでも会えるし」
「同じクラスだもんな。それはそうか」
「そういう意味じゃないんだが、まあいいか」
特別に興味を引くほどに面白い展示もなく、だらだらと話をしながら教室を巡った。普段とは違う浮ついた空気も、これが終われば受験に向けて引き締まったものになる。三年生はみんな、受験戦争前の最後の息抜きを無理して満喫しているように見えた。
やがて放課になり、軽音楽部はファミレスで文化祭の反省会兼打ち上げをした。
反省では各々が失敗したところや要練習点を理解していたので、僕が言うことは何一つなかった。
そして、これで三年生は晴れて引退ということで、部長の選出の話もした。
山中山の二人はどちらも消極的だった。どちらも初心者で部長になる器ではないというのが言い分だった。それはかつての僕と似た立場だったが、僕らは二人しかいない状況だったのと、彼らには軽音楽ではなかったが楽器経験の長い一年生の二人がいることで、決して同じではない。年功序列というのは、もはや古い感覚だ。それに言っては悪いが、確かに二年生の二人は引っ張っていくタイプではなかった。上梓か茅嶋の方が、さらにどちらかと言えば茅嶋の方がふさわしいのではと思った。
四人に話し合いをさせた結果、上梓が部長を務めることになり、副部長は山中になった。
茅嶋曰く「私はサポートの方が性に合っているんです」とのことだった。
面倒な表役は上梓に任せて、実権は彼女が握るだろう事は、想像に難くなかった。実権と言うほどの権力があるわけでもなく、大変な仕事も多くないのだが。
ともかく、後顧の憂いなく軽音楽部の引継ぎができたことで、今後は受験だけに向き合わなくてはならなくなった。息抜きがてらに偶には顔を出すこともあったが、しばらくは勉強漬けの日々だった。
卒業式はあっという間に訪れた。
相応しい快晴ではなく、雪が降るのではと思うほどよく冷えた曇りの日だった。
式の最中に思い出されるのは軽音楽部として活動していたことばかりで、今は演台が置かれている壇上でライブをやったんだと、過去の映像を重ねてぼんやりしていた。校長先生は昨年話した内容と似たような話をしていた。高校の理念の話を前回は聞き流していたが、卒業という立場になると、染み入るものがあった。
切磋琢磨。
昨年卒業した三人の先輩と道旗、四人の後輩。彼らがいたからこそ、色んな音楽に出会い、知識と技術を磨き、そして練習も楽しくやってこれた。
不撓不屈。
作曲で行き詰った時も、文化祭発表も、彼らがいたから乗り越えられた。
一言芳恩。
彼らと日常が、何気ない日々を彩ってくれていたことに感謝しなくていけない。
これら三つの理念を普段は意識していなかったが、こうして振り返ってみると、僕の中に刻まれていたようだ。いや、僕らがやっていたことが偶々当てはまっただけだ。高校三年間の生活を言葉にしたなら、当てはまる四文字熟語なんていくらでもあるだろう。それを三つに絞って言うのは牽強付会もいいところだ。むしろ、二文字で最もふさわしい言葉がある。全てを一緒くたにしてしまうのは気が引けるが、しかしこれで十分とも思えた。
青春。
全てが詰まっている言葉だ。
そしてこれからの人生が、より険しいものだと示唆する言葉でもある。
春に成長した青い幹は、これから枝葉を広げる期間を迎える。上手く育って綺麗な色になるのか、それとも途中で枯れてしまうか、あるいは腐ってしまうか。水が足りないかもしれない。遣りすぎるかもしれない。肥料は十分か。太陽の光は足りているか。風通しはいいか。害虫はどうするか。様々な要因で善くも悪くもなってしまう。管理は大変だが、けれどその分だけの見返りはあるはずだ。納得のいく果実を付けるために、太い幹と強い枝葉を作らなくてはならない。
志望大学に無事合格できた僕は、とりあえず大学生として、今の枝を大切にしながらも別の方向へ枝を伸ばさなければならない。そのためにも、青春から朱夏への過渡期をどう過ごすかが重要だ。
未来は分からない。分からないからこそ、できることはするべきだ。
新たなスタートラインを切って、もう一度将来を探っていこう。
そう決意をして、教室で最後の終礼をし、卒業証書を丸い筒に入れて軽音楽部の部室へ向かった。もちろん卒業ライブをするためだ。仲の良かったクラスメイトには声を掛けたけれど、来てくれる人たちは少ないかもしれない。それでもよかった。このライブは後輩に向けて行うつもりだから、正直、ゼロでも構わなかった。
道旗と共に部室の扉を開けると、いきなり上梓が跳びついてきた。
「先輩、卒業しないでください!せめてあと一年、ここにいてください!」
まさか泣きつかれるとは思わなかった。期待に応えられず申し訳ないが、時間は進んでいく。歩みを止めるわけにはいかないのだ。
「ルナ、わがまま言わないの。先輩、最後まですみません」
茅嶋が窘めた、と思いきや意外な言葉が続いた。
「部長がこんなだと心配になりませんか。だからもう一年、残りませんか」
悪戯顔でにやにやと笑っていた。からかっているのは分かったが、だからといって乗るわけにはいくまい。不誠実な言葉は、発するべきではない。
「寂しいのは分かるが、前に進もうとする人を止めるべきではないよ。できれば、祝福してほしいな」
前に進もうとする人。僕は自分の事をそう言った。どこに向かうのであれ、心に整理を付けたのなら、前に進むべきだ。そう思わなければ足を動かせなかったから。
「今日は別れを惜しむ日として、明日からは、友達が別れを惜しんでくれるような人に成れるよう努力をしていってほしい。具体的にはよくわからないけれど、一つ言えることは、楽しいと思える時間を共有することだ。辛いことも、仲間と一緒に乗り越えて、楽しい思い出に変えていってほしい」
「そう。後輩が存在を忘れる俺のような奴にはなるなよ」
道旗が茶化して、みんなで笑った。
「あれ? ここで笑うっておかしくないか」
「いえ、すいません。そういうつもりはなかったっす。道旗先輩も尊敬してます」
「そうです。演奏技術は道旗先輩によく教えてもらいましたから」
山中と中山が、道端を真っ直ぐに見ていた。
「お前、泣きそうになってんじゃん」
「ばっか、これはアレだ。心の汗だ。それより準備しないと。もう集まっているんじゃないか」
そう言って部室の窓を開けた。僕も一緒に覗いてみると、五十人ほど、去年と同じくらい集まっていた。僕の音楽でも、これほど集められることが出来るのかと嬉しかった。
一年生や二年生も混じっていたが、それは後輩も声を掛けてくれたからだった。
「お待たせしました!そろそろ始めます!」
簡単に音量調整をして、最後の部活動を始めた。
一曲目はもちろん『スターマイン』だ。僕の初めての曲で、僕と道旗の始まりの曲だ。僕のギターと道旗のカホンは、これまで何度この曲を演奏しただろうか。数え切れないほど費やした練習時間は、創部してまだ短い軽音楽部の確かな歴史だ。
歌い終えて次を始めようとしたとき、上梓がドラムを構えているのに気付いた。山中はギターを、中山はベースを手にしていた。そして茅嶋が口を開いた。
「この後の四曲は、私たちも参加していいでしょうか」
中山がベースを構えて言った。
「先輩たちに演奏させて見送るって、おかしくないですか」
山中は少し不安そうな顔だった。
「俺らだってこの日のために練習したんですから。嫌とは言わせないっすよ」
上梓の顔は晴れやかなものになっていた。
「止められないなら、せめて最後のセッションを思い出にさせて下さい!」
ここまで後輩に言われて、断る道理はない。道端も言わずもがなだった。
「次は『グラスホッパー』だけれど、準備は大丈夫かな」
ぐるりとみんなを見渡すと、無言で頷いた。
キーボードを弾く道旗のカウントで、曲が始まった。
文化祭ではギターとキーボードだけで演奏していたけれど、本来はバンドサウンドの曲だ。本来の構成で演奏するのはこれが初めてだった。ドラムの跳ねるような音、ベースの地を這うような低音、ギターの青空を掛けるような明るい音。面白い曲に仕上がっているではないか。彼らもしっかりと成長していた。
三曲目の『雪と兎』も、情緒ある音が作れていた。先輩たちと比べるのは悪いが、しかし彼らとは違った表現にどちらの方が良いという評価はできなかった。歌に気持ちを乗せるには、十分すぎるほどだった。
そして『ライトニング』もまた、バンドサウンドでは初めてだった。ギターとキーボードの音のせめぎ合いは迫力があり、大雨というより豪雨だった。道旗と山中が楽しそうに張り合っているのを見て、歌いながら思わず笑ってしまいそうだった。
少し休憩をいれて、次が最後だと声を掛けると、上梓が申し訳なさそうに口を開いた。
「すいません。『サテライト』は難しすぎて、少し簡単にアレンジしました」
「いいよ。無理してやろうとするよりも、僕の曲にちゃんと向き合ってくれたことが、嬉しいから。さあ泣いても笑っても最後だ。やろうか」
そして始まった五曲目の僕の曲。
僕の高校生活の歴史を閉じる曲。
一つが終わり、そしてまた一つが始まる。それは誰もが人生の中で経験する事。いつまでも引きずっていてはいけない。切り替えなければ前に行けない。
人生は選択の連続だという。何かを得るには何かを捨てなければならない。未来に進むには現在の場所から去らなくてはならない。選んだものが正解か不正解かは分からない。いや、選んだものを正解に出来るように、正解だと堂々と言えるようにしなくてはならない。迷うことがあっても、間違ってしまったと思っても、それを経験として次の選択で活かせばよい。人生の選択肢はこれからも沢山あるのだから、最終的に正解を選ぶために、今はこの道を進んでいこう。
そうやって閉じた歴史を、ふとした時に思い出して、笑えればいいのだと思う。
そして卒業ライブも幕を閉じた。
「よく練習したね。とても良かったよ」
僕はみんなに声を掛けた。山中と中山は泣いていなかったが、上梓はさっきの顔とはまた一転して泣いていた。茅嶋がその頭を撫でて慰めていた。
忘れないうちに、窓から身を乗り出してライブ終了を告げた。
温かな歓声と拍手、吹き込んだ冷たい風が熱を帯びた体に心地よかった。
振り返り、道旗と目が合った。
「今生の別れじゃないって、先輩たちも言ったしな」
そう言って右手を差し出して笑う。
「そうだな。それじゃあ、いつかまた、どこかで」
その手を握って、僕も笑った。
その後ろで、せーの、と小さく聞こえた。
「卒業おめでとうございます!」
四人の声が、感情を一纏めにして部室に響いた。
軽音楽部は少なくとも二年間は大丈夫だ。
そう思えて安心して卒業できた。