七年前
二年生になった頃、オリジナルの曲を作ることにした。
自分の好きな曲を参考にして、コード進行やリズムを微妙に変えながら、その流れに合うと思ったメロディを鼻歌で歌いながら録音した。メロディ一、メロディ二、サビとフレーズごとにいくつかパターンを録って、後でそれらを継ぎ接ぎして一つの曲を作ったんだけれど、あまりパッとした曲は作れなかった。その時は上手くいった、最高とは言わないまでもなかなか良いのが出来たんじゃないか、と思ったけれど、一週間後に聞いたら全然良いと思えなかった。どれも何かの曲のメロディの一部をすっぱ抜いて切り貼りした印象で、オリジナリティが一つもなかった。
それも当然だ。
ギターを初めて一年しか経たないガキが、一丁前に曲を作ろうとしたのだから。音楽の知識を何も持っていないのに、情熱だけは人一倍燃やしていて、思い切り空回りしていた。
いくつか曲を作る中で、これは自分だけの音じゃないか、と思えるフレーズもあるにはあったけれど、そこだけ良くてもそこに至るまでの流れとそれからの流れが、端的に言ってそのフレーズ以外全部が納得できるものではなかったから、丸ごと捨てたってのもあったかな。まあそういうフレーズだけは不意に思い出せるくらいに頭の片隅に残っていて、数年後にちゃんとした曲に成りはしたんだけれど。
それでも苦労して少しずつ組み上げながら、七月の期末考査が終わった後、曲がりなりにも完成させた曲を道旗に聞いてもらった。
ギターと歌だけのシンプルな曲、『スターマイン』。
「おーすげえ。良い歌になってんじゃん」
道旗は軽く拍手をして言った。僕はお世辞でも良いと言ってくれたことが嬉しかった。
試験が始まるずっと前から、試験中もろくに勉強をしないで日夜試行錯誤して作ったのだけれど、
「浮かんできた曲を適当に繋げただけだよ」
と、さも努力していませんよと言う風に見栄を張った。ほとんど照れ隠しだ。
「どこかで聞いたようなフレーズがあるかもしれないけれど、それはあまり気にしないでくれ。試作第一号ってやつだから」
「それでもちゃんと自分で作れるってすげえよ」
「そうかな」
「ああ。それに今聞いた限り、何かの曲と被るフレーズなんてなかったと思うぞ。俺の勉強不足かもしれないが」
「そうかな」
「少なくとも有名所とは被ってないと思う。個人的にはサビの入りからが一番好きだな」
「そうかな」
「……アイスクリームに細かい氷をまぜたシャリシャリした食感とさっぱりした後味が特長の四角いカップアイスは」
「……爽かな。ばかやろう。ってかなんで適切な商品説明ができるんだよ」
おかげで顔の火照りも一気に冷めた。
「こう、比重の違う液体を混ざらないようにコップの中で重ねた部分」
「……層かな」
「お寺とかの、お坊さん」
「僧かな」
「豪華なお食事」
「ご馳走かな」
「こんな暑い日はアイスが食べたい!」
「お前の感想だな」
僕たちはいつも通り部室の下、夏は日差しが熱いから一階の部活動用具を適当にどかして場所を作って歌ったのだが、道端とそんな感想とバカ話をしていたら、上から誰かが下りてくる足音が聞こえた。
「よう、アイス買ってくるなら俺たちの分もよろしく。はい、お金。奢るからお前らの分も買っていいぞ。あ、オレはガリガリ君以外な」
道旗に千円札を渡したのは、安金先輩だった。
「あざっす。じゃあ、ちょっと行ってきます」
たぶんあいつは爽を選ぶんだろうなと思いギターを置いて、先に行った道旗を追いかけようとすると、
「なかなかいい歌を作るんじゃないか」
ぽつりと、先輩は言った。
「えっ」
「苦労して考えて作ったって感じが、聞いて取れた。お前もちゃんと努力してるんだな」
僕はまた、頬が熱くなるのを感じた。思わぬ人に聞かれていたことへの含羞か、努力していたことを見抜かれたことへの羞恥か、それとも単純に褒められたことへの歓喜かは判別がつかなかった。
「あ、ありがとうございます」
「でも音の組み合わせがぜんぜんなっちゃいない。良いメロディラインを持っているんだから、今のコード進行のままだともったいない。アドバイスしてやるから、後でギター持って上がってこいよ」
そしてすぐに二階の部室に戻って行った。
僕は外に出て、雲一つない空を見上げた。太陽の日差しが突き刺すようで肌に痛い。まっ白な光と澄み渡る青。汗は噴き出して動くとすぐにばててしまいそうな暑い夏だったけれど、どこまでも走って行けるような気がした。
気がしただけで、取り敢えずは先にコンビニに向かっている道旗を追いかけた。
そして高校生になって二回目の夏休み。
我らが軽音楽部は、次の文化祭に向けての練習だけでなく、先輩に連れられて二泊三日で夏フェスに行った。
夏フェスというのは、野外の大きなライブ会場で、多くのアーティストたちが三日間朝から夜までライブをするという一大イベントである。チケットや宿泊場所は先輩が手配してくれたが、交通費と宿泊代は僕の懐的には大きな痛手だった。それでも行った価値は大いにあり、様々なジャンルの音楽、色んな形のスタイルを知ることが出来たのは、先輩に感謝すべきである。大勢の人間に囲まれながら、ステージの上から広大な世界を相手に立ち向かうのは、どれほど気持ち良いだろうか。そう思った。どれほど頑張ればいいだろうか。どれほど力を付ければよいのだろうか、と。溺れてしまいそうなほど重厚な音の洪水に中てられて、夢を見ているような興奮と熱気の中、憧れを強くした瞬間だった。
その後は寝る暇も惜しむほどに、自分だけの曲を作ることに没頭した。
夏休みが始まる前に親に交渉して今まで積み立てていたお年玉を崩し、先輩たちからアドバイスを貰ってパソコンとデスクトップミュージック――いわゆるDTMのソフトを買った。これがあれば実際に演奏しなくとも色んな音楽を作ることが可能なのだ。操作や楽曲制作は慣れるまでは大変だったが、毎日実践していくうちにある程度使いこなすことが出来るようになった。そして先輩から借りた本やなけなしのお小遣いを叩いて買った教則本で、音楽の知識を貪った。おかげで夏休みの終盤になっても宿題を一つも片づけておらず、作曲以上に寝る暇を惜しんだのはまた別の話。
けれども唯の一つも達成感を得ることはなく、どうしても最初の曲以上か、あるいは同等に納得のいく曲が生まれることはなかった。簡単に作れるものでないことは分かってはいたのだが、上手くいかない失望感と、憧れだけではどうにもならないもどかしさを感じる日々を繰り返していた。
夏休み明け、すぐに行われた中間考査の結果は気にしないことにして、先輩たちの下を訪ねた。その時はすごく緊張していたことを覚えている。高校受験よりも、もしかしたら昨年の文化祭のライブよりも。なんとかして形にした曲二つを音楽プレーヤーにいれて、部室の扉を開けた。
一つは夏休みのほとんどを費やして組み上げた曲。さながら積み木のように色んな音を比べて、選んで、重ねて、とても苦労して作った『サテライト』。
もう一つは夏休みの宿題が終わった気晴らしに、頭を空っぽにしてできた曲。ガラス工芸のように、高温に熱したガラスに息を吹き込んで成形するように、思い切って作った『グラスホッパー』。
僕はその二つを聴かせて、尋ねた。
「どうすればいいですか」
どうですか、ではなく、どうすれば良くなりますか、と。
自信の無さの表れだった。これ以上自分の力だけで弄ると悪い方向にしかいかないような気がして、どうにも立ち行かなくなってしまったのだ。
晩夏の蝉が酷いコーラスを奏でていた。八月の間はずっと、このノイズに悩まされていたことを思い出した。
「俺は二番目の方が好きだな」
しばらくして最初に口を開いたのは宇都宮先輩だった。
「オレは一番目の方かな。探し回って音を見つけたって感じがして好感が持てる」
続けて言ったのは安金先輩。
「どっちもいいと、思うけど」
少し遠慮がちな声は高島先輩だ。
それぞれの言葉に、僕は呆気に取られた。なんとなく、酷評されるような気がしていたから。もしかしたら「こんな聞き苦しい曲を聞かせるんじゃねえ」くらいは言われるかもしれないと想像していたのだ。一年以上も付き合って、こんなことを言う人たちではないことは分かっていたのだが、それでも奥底では非常に憶病になっていたのか。そして今こうして認められたことで、少し泣きそうになっていた。
そんな僕の様子には全く気付かず、宇都宮先輩は言う。
「変に捏ね繰り回してなくて、真っ直ぐに透き通るような音が胸を打つ」
対して安金先輩も声を上げた。
「深い海の中から拾い上げたような音とそれに重ねた波の形が綺麗だろう」
「サビの所は思い切りがいいよな。なんでもかんでも複雑にすればいいってもんじゃないのを、わかってやってるのか」
「シンプルすぎて味が無くなってしまったら本末転倒なんだけど」
「ああ? やるのか」
「ああ? やらねーよ」
どちらも喧嘩腰になってはいるが、それはいつものことだった。本気で言い合いをしているのを、ここで見たことはない。
二人をよそに、高島先輩がのんびりとした口調で言った。
「で、どうしたいの」
何のことか分からなかった。
「だから、これのアドバイスが欲しいんだよね。意見をあげたいけれど、それは君が、この子たちを本当は、どこに向かわせたいか、が分からないと、ぼく達はどうしようもない」
どうしたいか。
僕が、どうしたいか。
どうすれば、と最初に聞いたけれど、それをそのまま返されてしまった。完成はさせたけれど、どちらの曲もなにか物足りなくて、なにか噛み合っていないような気がしたから聞いたのに。違和感はあるけれど、それを修正しきれなかったからアドバイスを求めたのに。それなのに、僕がどうしたいか、なんて。それはもちろん、良くしたい。これらの至らない部分を、全部なくしたい。自分の理想に届かせたい。けれどもその具体的な方法、技術をまだ身に付けていないから、それが出来ない。悔しいけれども、今の自分にはこれが限界だと感じてしまったから、先輩たちを頼ろうと思ったのだ。
この二つの曲を、どこに向かわせたいのか。どこを目標にしているのか。それが分からないから、高島先輩の言葉に答えることが出来なかった。
「それじゃあ、具体的には、どの部分がおかしいと思ったの」
おかしい部分。変えたいと思った箇所。それなら、言える気がする。一つ一つ、作曲中に感じていた所、さっき自分も聴いて思った所を、一気に説明する。
メロディラインが前小節と合わない気がする。繋ぎが違う気がする。ここの繋がりもおかしいかもしれない。ハーモニーが何かが違う。コード進行を変えた方がいい気がするけれど、そうしたらこの先のメロディとずれてくるかもしれない。この小節のリズムは裏打ちの方がいいだろうか。ここはこうした方がいいかもと思ったけれど、そうすると全体のバランスが狂ってくるような気がする。ここと、ここも。そうしたら、こっちも。該当箇所を挙げながら、どうにかしたいことを言っていたら、何もかもがおかしい気がしてきた。
「おうおう、嵌ってるね。この場合は没入するって意味じゃなくて、迷路に迷い込むって意味な」
一通り言い終えると、安金先輩が笑いながら言った。
「まるで昔のオレたちを見ているようだ」
「昔っつったって、ほんの数年前だろうが」
宇都宮先輩がすかさず言い返した。先輩たちも、同じ経験があったのか。
「高すぎる理想だけが先行して具体的な完成形をイメージしていなかったから、あの頃は揉めに揉めて作っていたな。一つの曲に対して三人の目指す方向がバラバラだったし、まだお互いが引くことを知らなかったし」
「ああ? 今はオレたちに遠慮してるって言うのか」
「そうは言ってねーよ。今はそれぞれの得意分野とか役割が出来たってことだよ。それと、曲を作る時に明確な方向性を最初に提示して挑むようになっただろ。それで到達点のイメージが共有できるようになった。こういう、作り方に対する姿勢から模索してったことが、俺らにとっての一つのターニングポイントだった」
「あー、まあ、確かにそうだな。分かり易くイメージすることと、互いの好みが分かってきた上で理想の音と擦り合わせて作るようになったか」
うんうんと頷いて高島先輩も言う。
「そうだねえ。デモを作る時、迷った所があると、この音は匠輝が好きかも、とか、この展開の方が大哲は好きそうだ、ってフレーズにすることがあるねえ」
「そうなの?」
「そうなの?」
異口同音。安金先輩と宇都宮先輩の言葉は綺麗に重なった。
「違うの? ああ、二人は思いっきり、自分の世界観を組み込んでから、聞かせてくることが多いもんねえ。でもその後、具体的なイメージを伝えるから、そこから三人で作り上げるのは、やりやすくなったかもね」
「そういえばマサは、そういうスタイルだったかな。思い出してみれば、雅の作った曲は完成させるのにかかる時間があまりかからないのが比較的多いか。
いや、そうじゃなくてな。今はこいつの曲へのアドバイスだよ」
そして安金先輩はこう続けた。
「変えたい所は置いておいて、一番最初にイメージしたテーマはなんだ」
曲を作る時に、テーマが無ければ何も出てこない。でも最初にイメージしたはずだった。それを、直し続けるうちに、いつの間にか忘れてしまっていた。より良い音をと道を探しているうちに、とんでもない迷路を彷徨っていた。ゴールを最初に見据えていたはずなのに、無視して寄り道を繰り返して、そうして勝手に不安になって泣いてしまった子供みたいだ。
思い出した。最初の思いを。僕はこの曲に、何を求めたのか。
「迷ってもいい。いくらでも迷って辿り着けばいい。目標を見失わなければ、その道筋が正解になるんだから」
最初に掲げた、テーマ。
宇宙の広大さとちっぽけな自分をイメージした『サテライト』。
夏の空に跳ねていく自分をイメージした『グラスホッパー』。
「このままでいいと思う部分も多い。後は自分がそれに納得できるかできないか。そしてなにを求めているのかだ。イメージは何かな。光か。朝か。夜か。宇宙船か。沈没船か。ボトルシップか。そうだ、一度そのイメージを全て忘れて聴きなおしてみるといいよ。曲を聴きながら、白紙の中に何が描かれていくのかを、最初からイメージしなおすんだ。そこで当初のイメージとどう違うかを、修正すればいい。ぼくらなりの一つのテクニックというか、作り方の一つかな」
驚いたことに、修正点が明確になると同時に、こうした方が良いというのが浮かびやすくなってきた気がする。頭の中で出来たものを実際に形にするのは相変わらず難しく、根気がいるけれど、理想の音をしっかりとイメージできていれば、前と比べて作りやすくなった。
「それでも俺ならこうするというところはある。俺が自分の思い通りにアレンジしてやってもいいが、そうしてしまうと完全にお前の曲じゃなくなる。お前がゼロから生み出した曲を、俺が攫って行ってしまう。正直に言うと、今のこの二曲からインスピレーションを貰った。俺からは出てこないフレーズがいくつかあって、少し嫉妬してしまった事は否めない。この時点でお前はいずれ俺らと並ぶ存在になると確信できたね。なんて、俺ら自身がまだプロじゃねえんだけどな。うるせえよ。必ずビッグになるって言ってんだよ」
この言葉は単純に嬉しかった。そして、僕の曲を大切に考えてくれて、安易に答えを教えてくれない所に、僕は口に出せず心の中で感謝した。
「お前は自分の感性にもっと自信を持っていい。自信なさげに歌われたら、こっちだって不安になるんだ。オレはこのフレーズが心地いいんだ。お前らもそう感じるだろって思い切りぶつけていい。それを受けるか避けるか、受けたうえで拒絶するか、それとも抱きしめられるかは聞いたやつ次第だ。歌う方のこちら側は、渾身のストレートを、あるいは変化球を大きく振りかぶって投げるしかない。そいつのストライクゾーンに入るかはわからん。ストライクを判定するのはそいつ自身だからな」
言われてすぐに自信を持つのは無理だけれど、しかし余計に怯えることはないと思った。そうすると気が楽になって、よりのびのびと声が出せるような気がした。
あれほど頭を悩ませていた蝉の鳴き声は、もう聞こえなくなっていた。
先輩たちからアドバイスを受けて一週間後、二つの曲が完成した僕は、およそ一か月後に迫る二回目の文化祭に向けて、道旗や先輩たちと練習に明け暮れた。
そして文化祭、軽音楽部のステージ発表はすぐにやってきた。
予定通り、オリジナルの三曲を演奏することが出来た。
初めての曲『スターマイン』は僕がギターで、道旗はカホン。
『グラスホッパー』はギターとキーボードで演奏するようにリアレンジして、キーボードは道端が弾いた。この頃の彼は色んな楽器に手を出して、そしてそれなりの技量で習得していたから羨ましかった。いや、全ての楽器に対して懸命に取り組んでいたのは知っていたから、羨ましがるものじゃない。素直に、凄いなって思った。
そして『サテライト』は、「三つ子の魂」とバンドを組んで臨んだ。二人で演奏するようにリアレンジするには複雑すぎて演奏を見送るつもりだったのだが、せっかく作ったんだから発表しないのはもったいないと先輩たちが言ってくれて、バックバンドとして三曲目に参入してくれた。
僕と道旗の出番が終わったら、「三つ子の魂」はそのままステージに残って四曲を演奏した。豪雨のようで時には繊細な雨粒のような音の嵐に打ちひしがれながら、相変わらずレベルが違うということをひしひしと感じてしまった。
軽音楽部の出番が終わり、楽器も撤収し終わったあと、僕は携帯電話を忘れたことに気付いた。体育館の裏口に行くと、扉の傍に安金先輩が一人で立っていた。
「よお、どうしたんだ」
「中に携帯を忘れちゃって。先輩こそどうしたんですか」
「オレは、まあ、哀愁に浸ってたんだよ。これで高校でやるライブは終わったんだなって」
「珍しいですね」
「なんだって。それはどういう意味だ」
「先輩は、次の世界が俺を待ってるぜ、ガンガン行ってやるぜ、ってイメージだったので」
「なんてイメージだ」
「なんというか、振り返らないで、前だけ向いて突き進んでいく感じ、ですかね」
「ははっ。まあ基本的に音楽やってる時のオレしか見てないもんな。しょうがねえか」
「すいません」
「いや、いいよ。先輩後輩の関係って、たぶんこんなもんだ。ただ、オレにだってセンチになることだってある。高校生活の三年間は、そういう気持ちにさせるだけの思い出が詰まってたんだなって、思っただけだ。その一つに、お前と道端が入部したことも含まれてるんだからな」
思いがけない言葉だった。先輩の人生の一部に刻まれていたと改めて思うと、嬉しく感じると同時に面映かった。何と返せば分からなかった僕は、代わりにバックバンドを務めてくれたことを改めて感謝した。
そして尊敬できる偉大な先輩を持って僕らは幸せだと、こちらは少し言葉を濁してそれとなく伝えた。
「感謝するのはまだ早いぞ。いやむしろ将来は三つ子の魂の弟分として、世の中に認知されちまうんだからな。そうしたら大変かもしれないぞ」
先輩たちだって自分のバンドの曲や、受験だってあったのに、夏休みからは積極的に関わってきてくれた。
「ああ。同じ部活動をしていても、基本的にはそれぞれで練習していたからな。あまり先輩ぽい事をしてやれなかったから、だからだよ」
「でも夏休みからは、色んなことを教えてもらいましたし、僕の曲のアレンジだって手伝ってもらいました。先輩っぽい事は十分してもらってますよ」
「それでもたった三か月前の話だろう」
「それでも去年入部してからずっと、凄い先輩だと思っていたんです」
「お、おう、そうか」
「はい」
「お前は、そういう所がアレだな。なんて言えばいいか分からないが、まあとにかく、その感性を大事にしろよ。あと、ありがとうな」
「?……はい」
僕の、何がどうなんだろう。僕の何かを評価してくれたのは確かだけれど、それはよくわからなかった。
それから音楽作りに対する姿勢や曲作りのコツなどについて、しばらく話し合った。
文化祭の各クラスの出し物を見て回るのを忘れて。去年とはまた一味違った快感を味わってしまったその残り火が、消え去らないうちに共有したかったのだ。
安金先輩は、本格的なことはこれから少しずつ学んでいけばいいと言った。
「大事なのは、この世界から溢れるほどの音の中から自分の魂が震えるような音を探すことだ。自分が気持ち良いと感じるフレーズ。美しいと思うメロディライン。面白いと思うリズム。それらは画一的じゃなくて、沢山の種類がある。これまでも多くのアーティストが、それぞれ自分の感性に合った曲を作ってきた。それらをオレらも聞いて良いか悪いか判断する。単純に言って好きか嫌いか、だ。お前も同じアーティストで好きな曲と嫌いな曲があったりするだろう。オレだってあるさ。でも当の本人たちは全部本人が好きだから発表しているはずだ。本人たちは全部本人が好きな曲だけを作っている。世間がどうのこうのじゃない。自分が好きか、嫌いか、それだけの世界なんだよ。他の皆に受け入れられるだろうか、なんて考えちゃいけない。音楽に、音に向き合うってのは、自分の内側と向き合うってことなんだよ。自分の感性に、正直に立ち向かうんだ。色んな音を試して、何度も何度も探して、これだと感じた音を拾いだした時は物凄い快感だな。こんな素晴らしい音が、まだあったのか!って感動するよ。後はそれが一番輝くように周りの音を作っていくんだ。そうやって出来た曲をまとめて、その人の音楽が作られるんだ。ほら、だれだれ節って聞くだろ。そういうやつだ。
偉そうに語っちゃったけれど、オレはまだ、自分の音楽を確立できていない。オレの曲を聞いたときにこれはオレの音楽だと誰もが気付いてくれるような音楽を生み出したい。いずれ、オレ自身が一つのジャンルになれるような偉大な人物になりたいもんだ。ロック、ジャズ、ショーキ、みたいな。
……おい、笑うところだろ。
ああ、曲作りのコツ、な。
そんなものはないよ。さっき言ったが、自分が好きだと思える音が見つかるまで、根気強く探すことだ。誰もが最初から何でも出来るわけじゃない。トライ&エラーを繰り返して少しずつ積み重ねて、そうやってできるようになる。
理想の自分と今の自分を比較して、現状に腐らずに今日を投げ出さないで続けることで、オレは今ここにいる。そしてこれからも、理想を追い抜くまで辞めないんだろうな。
だからお前も、出来ないと嘆いてないで何曲でも作ってみることだ。取捨選択なんて後回しにして、とにかく数をこなすことだな。そうすれば、自分なりのコツってのがわかってくるさ」
好きなことを忘れない。
それに対する情熱の炎が消える前に燃料を追加する。
それが推進力となって、自分の目指す夢に向かっていける。
ただ、その燃料を追加するタイミングを間違えると、炎は消えてしまう。
それをこの時、教えてもらったのに。
いつの間にか忘れてしまっていた。
文化祭が終わると先輩たちは引退ということで、部長は僕が引き継いだ。とはいっても、もともと大した業務があるわけではなく、しかも先輩たちは高校を卒業したら専門学校に行くというので、ほとんど毎日部室に顔を出しては演奏したり、漫画や雑誌を読んだりしていた。つまりはこれまでと何ら変わりはなかったということだ。
いや、道旗は色んな楽器の演奏技術や知識を、僕は自分の曲に関しての意見やアイデアを以前よりも増して積極的に教わろうとしていたから、全く何の変化もなかったわけではなかった。残り少ない先輩との時間を惜しむように、卒業式が来るまで毎日、色んなことを質問しては、必死に取り組んでいた。先輩たちの音楽に少しでも追いつけるように。あるいは自分の理想の音楽を、具体的に思い浮かべられるように。
とある冬の日、冷たい雨が降っていた。
終礼が鳴ると僕は真っ先に部室に行った。そして薄暗い部屋の中、明かりを付けずに真白なノートとにらめっこをしていた。右手に持ったボールペンは、薄い罫線の上をなぞることなく、隅っこをトントンと叩いては黒い点を増やすだけだった。
新しい曲の、詞が浮かんでこない。
文化祭が終わってから一曲を新しく作り上げたのだが、どうにも上手い歌詞が浮かんでこなかった。
イメージは冬の寂しさと乾いた音、静かな町。
ピアノのゆっくりしたイントロから始まり、スネアドラムのシンプルなリズムへと繋がる。サビの前からギターとベースが加わるが、音が少し足りないくらいに控えめに、もちろんサビの盛り上がりは意識して。二番に入っても煩くなりすぎないよう四種類の音のバランスを整えながら、静かなイメージを崩さないように続いていく。最後にサビがもう一度繰り返されて、そこで転調し、そして再びピアノだけになって終わる。
形は大体できていて、メロディも多少の修正は必要だが、できていた。
後は歌詞だけだった。
前に作った三曲はどうやって書いただろうか。
どの情景を切り取って、どの感情を描いて、どう表現しただろうか。
思い出そうとしても、テーマに沿って言葉を並べただけで、悪く言えば何も考えずに浮かんだ言葉を組み合わせただけだったように思える。言葉の重要性を蔑ろにしていたことに気付いた。
改めて考えてみると、歌詞というのはその曲の世界観を表現するのに大きな役割を担っている。いまさら、と思うかもしれないが、その時までメロディを声に出すためのただの記号と考えていたのだ。極端に言うと、ラララ、だけでよいと思っていた。音楽の表現はあくまで音。楽器の奏でる旋律と伴奏で表現できれば、言葉なんていらないと思った。けれど、それならばクラシックやオーケストラを作曲すればよいのではないかという考えに至ったが、それは違うとすぐに却下した。それならば吹奏楽部に入っていたが、僕は自分で軽音楽部を
選んだのだ。自分でギターを弾いて、自分の声で歌いたいと思っていたから。
そう、歌いたいから。
言葉を伝えたいから。
思いを届けたいから。
歌って、演奏して、みんなで楽しみたいから、歌を歌う。文化祭のあの空気を味わったからこそ、その思いは強くなっていた。だからこそ、自分の口からは発する言葉は丁寧に扱わなければならない。
歌の世界は思っていた以上に深く、難しい。
そうやって唸りながら一文字も書けないままでいると、部室のドアが開いた。入ってきたのは高島先輩だけだった。
「やあ、居たのか。電気もつけないで、どうした」
相変わらずゆっくりした口調と、それに連動するようにゆっくりした動作で鞄を部屋の隅に置いた。
「お疲れ様です。一人ですか、珍しい」
「あの二人は補習を受けてるよ。大学受験しないからって勉強しないでいたら、卒業まで危うい成績を取っちゃってね。専門に行くとはいっても、基本を疎かにしたらいけないよね」
進学校だから地頭は悪くないはずだが、まさかそこまで酷い成績だったか。音楽の方に力を入れすぎていたのだろうな。
「あれ、道旗君は」
「あいつは先生をやっている姉の所に、ピアノを習いに行っています」
「へえ、お姉さんがいたんだ。初聞きだなあ。あ、それでこの一年でキーボードが上手くなっていたのか」
「それだけじゃないと思いますけどね。それに色んな楽器に挑戦していたのは、先輩も知っているでしょう。ドラムを教えていましたし」
「まあね。上手い下手はさておいて、楽しそうにやってたからね」
「好きこそ物の上手なれ、ってやつですね」
「ところで、ノートを広げてどうしたの。勉強……にしては教科書ないし」
何か書かれているわけでもいないのに、なんとなくノートを両腕で覆い隠してしまった。
「これは、詞を書こうと思って」
「詞。なに、また新しい曲作ってるの」
「はい。いえ、空オケはできたんですが、それに合う詞がなかなかできなくて」
「へえ、そうなんだ。聞かせてよ」
まだ完成していない曲を誰かに聞かせるのは少し抵抗があった。けれど、それじゃあ何故、部室で詞を書こうとしていたのか。先輩たちが来るのは分かっていたのに、わざわざ聞かれるのを待っていたかのように、分かりやすくノートを広げて。
音源は音楽プレーヤーで持ってきていたので、少し逡巡してイヤホンを渡し、耳に付けたのを確認して再生ボタンを押す。
イントロが少し流れてから、
「へえ」
と、呟いて、それから何も言わずに最後まで聞いていた。
部室の窓を叩く雨足が、先程より少し強くなった。こちらも何も言わず、ただ雨音を聞いていた。
その無言の間に、僕は、この曲を聴いてもらいたかったんだと気付いた。
小賢しいけれど、ノートはきっかけ作りで、浮かばない詞のアドバイスを欲しがっていたのか。
高島先輩はイヤホンを外して、率直な感想を言った。
「また違うアプローチで曲を作ったね。良いと思うよ」
白紙のノートをちらっと見て、言葉を続ける。
「この雰囲気、ぼくは好きだなあ。それで、後は詞だけ、と。前の三曲は、結構真っ直ぐな内容だったと思うんだけど、なに、スランプかな」
それほど多くの詞を書いていたわけではないし、急に書けなくなったわけでは、今回はない。詞の方もアプローチを変えて書こうと思って、その糸口を探している最中だ。それにそういうのは、もっとたくさんの曲を作って、自分の音楽を確立した人が不意になるものだ。僕はその境地には、逆立ちしたって届いているわけがない。
「この間、天ヶ崎泪の新曲を聞いたんですけれど、表題曲よりもカップリングの方の詞に惹き込まれてしまって」
「ああ、君の好きなミュージシャンだっけ。ぼくも聞いたよ。確かにあの人のカップリング曲は、独特な世界観を持っているよね。カップリングだけは共通の世界観を意識して作っているって、いつかの雑誌で読んだことあるなあ」
「だからというわけではないんですが、音楽と詞が相まって良い曲になるんだなって思ったら、なんか、適当に詞を書くのが躊躇われて。いえ、これまでも適当に書いていたわけではないんですが、なんていうか、もっと大事にした方が良いかなって」
「ぼくは三曲の詞は、嫌いじゃないけれど」
「でも」
「うん、わかってる。今は、ああいう歌詞が書きたいんだよね」
高島先輩は、僕にイヤホンを渡して微笑んだ。
「ぼくでよければ、力になるよ。ぼくなりの作り方しか、教えてあげられないけれど」
「ありがとうございます!ぜひ、お願いします!」
腰が折れるくらいに、直角に、激しくお辞儀をした。
「最初に言っておくと、これを真似したからって、書ける保証はないし、それが君の曲に合うとも限らない。君自身の書き方にもね。参考程度に、聞いていてよ」
「はい、勉強になります」
「まだなにも教えていないよ」
お互いに笑って、先輩は、それじゃあ、と口にした。
「この曲のテーマはなに」
「冬の寂しさと乾いた音、静かな町、です」
「なるほど。冬の夜空の、澄んだ空気感が、確かに表現されていた曲だったね」
「夜空」
「ん、夜のイメージじゃなかったかな」
冬ではあるけれど、昼とか夜とか意識していなかった。言われてみれば、無意識に夜を思い浮かべていたかもしれない。
「静かな町、であるなら、人が活動する日中ではない。ならば朝か夜かだけれど、曲は静寂に始まり静寂に終わった。眠れない夜の、微睡みの中にいるような。あるいは暗い森の中、一人で寂しく散歩していた私を、月は優しく見守ってくれている……みたいな。ちょっとロマンチックかな」
「いえ、ぜんぜん」
むしろ、そういう方面が似合う曲だと思っていた。空想的というか情緒的というか、そういう物語みたいな方が。
「朝ならもう少し明るい曲調になるかな、と思った。まあ最初に抱いた印象だから、詞の内容次第では、心の浮かない一日、と考えることもできる」
「今のだけで、そんな思いつくんですね。すごいです」
「変な妄想をするのは趣味みたいなものだから。いろいろ考えても、それが良い詞に繋がるとは限らないけれど、想像の幅を広げないと言葉が出てこないのは、確かだからね。
ぼくなりの作り方、だね」
僕は広げていたノートに、ボールペンを構えた。
「ぼくの詞は、物語みたいになっているのが多い。匠輝と大哲が思いをストレートに綴っている詞だから、っていうのもあるけれど、まあ自分の趣味ってのが大きいかな。
物語っていうのはファンタジーとかSFとか、あるいは恋愛物とか、小説みたいなお話を想像するんだ。一人の人間の人生や、動物や物を擬人化した時に見ている光景、情景の一部を切り取って、それを言葉にする。それをするためには、先ず、テーマを決める。この場合は、冬、乾いた音、静かな町。その次はテーマの単語一つひとつで、ブレインストーミングをする。ブレインストーミングってのは、知ってるかな。その言葉から想像する言葉を、思いついたらとにかく書き起こして、その言葉からさらに想像して言葉を書いていく。それを繰り返していく、いわば連想ゲームかな。例えば冬ならば、寒い、冷たい、寂しい、白い、コタツ、枯れ木、手袋、鍋、白い息、張り詰めた空気、長そで、雪、氷、北海道、などなど。どんな言葉でもいいから、関連したものを書いていく。そして再びそれらの言葉から連想する。寒いなら、暗い、震える、孤独。枯れ木なら、乾燥、死、落ち葉、森。できるだけ方向性が被らないように、様々な種類の言葉を思い浮かべる。そうしたら次は、その中からキーワードになりそうな言葉を探す。どれとどれを組み合わせたら、面白い設定が出来るだろうか、一つのお話が作れるか、なんて想像しながら強い言葉を探すんだ。強い言葉というのは、それが詞の軸になれるような、話を膨らましてくれる言葉のこと。それがなければ、もう一度ブレインストーミングをするか、あるいはその中で思い浮かんだお話を軸に、言葉を紡いでいく。そうしたら後は大雑把な設定だ。僕は、私は、どんな感情でどこにいるのか。怒っているのか泣いているのか、だとしたら何に対してか、何が起こったからか。それに対してどうしたい、解決策はあるのか、それとも忘れたいのか。愛の歌か、失恋の歌か。相手はどこにいるのか、それは精神的にあるいは物理的に近いのか遠いのか。それと同時に歌の方向性も考える。明るい内容にしたいか、暗い内容にしたいか。前向きに進んでいくのか、どこまでも堕ちていくのか。最後に落ちを決める。こうやって歌の中の主人公の物語を作って、後は音楽のメロディに合うように詞を書いていく。
短編の小説を思い描くように、詞を書いているんだ。
うん、そうだね、主人公は必ずしも自分じゃなくていい。女性目線になってその心情を想像しても良いけれど、やっぱり最初は自分を主人公にして、違う世界で何を思ったかを書いていくことから慣れた方が良いかもね。でも、詞の世界は自由だ。色んなものを空想して、それを言葉に落とし込むことは、無限大の可能性があって、何にも縛られてはいない。君の好きな物語を、書けばいいよ。テクニックは沢山考えたり、色んな歌詞や小説を読んだりすれば、身に付いて行くからさ。
ちなみにこの方法は、小説の書き方を参考にしているから、いわゆる詩のような、作詞の技術とは少し違うかもしれない。感覚ではなくて、いわゆる理論という感じだね。実際にこればっかりで作るようになってから、二人のような単純な歌詞を書けなくなったからね」
結局は作詞だって、自分なりのやり方を模索していくしかない。
この後すぐに、先輩の方法で詞を書いたとして、納得のいくものが出来るとは限らない。
最初に言っていた。あくまで参考にして、違う方法も考えるのだ。
思いをぶつける。空想小説の一部を切り取る。溢れる言葉を並べる。
色んな手法から書いていけば、僕だけの世界観はそれだけ広がるかもしれない。
僕の物語の可能性は、無限大だった。
この瞬間は、確かにそう思えた。
可能性だけは、ゼロではなかった、ということだ。
結果がどうであれ、その時は、知ることなどできはしないのだから。
下校時間が迫ったので、二人で部室を出た。
雨は止んでいたが厚い雲は去ってはいなかった。
けれど、僅かな隙間から星空が見えたような気がした。
卒業式の日は、門出を祝うにはふさわしい快晴だった。
式の最中、僕は泣くのだろうかと思ったけれど、そんなことはなかった。
先輩たちの一つの区切りに、寂しいとか悲しいとか後ろ向きな感情ではなく、これからは思い切り夢に向かって進んでいけるんだという、羨ましさがあった。
式は恙なく行われ、途中の起立と着席に気を付けていれば、非常に暇なものだった。
何をすることもできず、校長先生の式辞を適当に聞き流していたら、ふいにその内容が入ってきた。
「卒業は、終着点と同時に出発点です。就職する者も、進学する者もいるでしょう。この学校で学んだこと事は、勉学だけではないと思います。部活動で汗を流し、進路で悩み、友人たちと楽しい思い出を作ったことでしょう。それらを糧に、新しいスタートを切って、新しい場所で自分を切磋琢磨していってほしい。それぞれの夢を追って、不撓不屈の精神で、一言芳恩を忘れずに進んでください。」
たしか、こういう内容だったと思う。
卒業したら、新たな出発。
僕はこの学校を卒業したら、どこに行くのだろうか。就職か。進学か。進学するとして、どの大学を受験するのか。あるいは先輩たちみたいに専門学校だろうか。けれど音楽の道に本気で行こうなんて、意識したことはなかった。だからといって、他にやりたいことがあっただろうか。
進路調査は一年生のころからあったのだが、いつも適当に近くの大学を書いて提出していた。偏差値はそこそこ良くて、本気で目指していた人には失礼だが、まあ無難な選択ではあった。ただ、そこに入学できたとして、さらに卒業できたとして、その先に就職があるのだということを、その瞬間まで意識していなかったのだ。二者面談も適当なことを言ってやり過ごしていた。将来について本気で考えるよりは、まだまだ音楽に夢中だったのだ。
けれど、二年生も終わり、来月には三年生になる。志望大学を決めて、願書を提出する期限を考えたら、もう一年も残っていない。幸いというか、勉学を疎かにしてはいなかったから、標準偏差は決して低くはなかった。無難な選択をするには十分な学力があったので、焦る必要はなかった。しかし進路を意識したことで、将来を決めなければならないという、妙な焦りを感じてしまった。
卒業式が終わった後、僕と道旗は部室で先輩たちを待っていた。
「先輩たちとは今日でお別れか。寂しくなるなあ」
と言う道旗の目は少し潤んでいた。感情豊かというか、思いを真っ直ぐに伝えるやつだったんだ。
「先輩たち、来るかな」
「来るに決まってるでしょ。来なかったら俺が流した涙を返してもらうね」
「なんだ、水鉄砲で目を狙えばいいのか」
「それ痛いやつだからやめて」
笑いながら、置いてあった安金先輩のギターを鳴らす。チューニングはばっちりだった。
ベースも置いてある。ということは来るに決まっていたのか。
楽器を元の場所に戻して、道旗とバカ話をして笑っていたら扉が開き、先輩たちが入ってきた。
「おうおう、うちの後輩どもは先輩との別れに泣くどころか笑っていやがるのか。嬉しいってのかこのやろう」
安金先輩の表情は言葉とは裏腹に、寂しそうに笑っていた。
「男五人で泣き合うってのは、傍から見て気持ち悪いでしょう。それに先輩たちは湿っぽいのよりは、明るく見送った方が性に合ってると思いまして」
そう僕は言ったが、内心は少し泣きたかった。けれど涙を見られたくないという思春期の意地で、表面上はいつも通りの顔を繕っていた。
「まあ、そうだよね。卒業式だって、今生のお別れじゃあないからね」
「むしろ泣かれていた方が、対応に困るな」
高島先輩と宇都宮先輩も、似たような表情をしていた。
そんな二人に対して、
「俺は寂しくて泣けるっすよー」
道旗が涙を流していた。
「さあ、時間がないからさっさと準備するぞ」
「安金先輩無視しないでください」
「準備って、なんのですか」
先輩は、にっ、と笑って、
「卒業式だからな。狭い部室で数曲だけだが、卒業ライブだ」
言って扉と窓を全開にした。そんなにしたら音が外に漏れてしまうのでは、と思ったが、外が少し賑やかしい。窓から覗いて下を見ると、卒業証書の丸い筒をもった学生服が十人ほど集まっていた。いや、遠くからこちらに向かって来ている卒業生の姿も見えた。もう少しすれば、結構な数が集まってくるかもしれない。
「今準備中ですので、もう少しお待ちくださーい」
高島先輩が僕の隣で、下の卒業生たちに向かって声を上げた。
宇都宮先輩がベースを鳴らし、アンプの出力を調整していた。
「クラスで告知して来たからな。どれほど集まるか、見ものだ」
隣で安金先輩もギターとマイクの調整をしていた。あまり大きくなりすぎないように、けれども下にいる観客には十分に届くように。部室の窓を解放して演奏したことはなかったので、二人が交互に下へ降りて、その絶妙なバランスを探っていた。
高島先輩もドラムを叩く力加減を、逐一確認していた。
適当でもいいのではないか、と思ったが、そういう所に妥協しないのが三人だった。人に音楽を聞かせるときは、徹底して完璧を求める。納得するまで追求する。その意識こそが、彼らの魅力だった。
「じゃあ、始めまーす」
高島先輩が声を掛けるとき、僕も一緒に外を見ると、五十人くらいが集まっていた。
僕が演奏するわけでもないのに、なぜか緊張した。
ドラムスティックを叩いてカウントすると、すぐに音の奔流に飲み込まれた。
凄まじい熱気を纏ったギターの音。
清濁を併せ持ったベースの音。
深い森のような洗練されたドラムの音。
時に突き刺すような、時に包み込むような、ただ激しいだけではない卓抜された演奏に、圧倒された。
文化祭の時よりもさらに、進化していた。
彼らがこのままどこまでも走っていく姿を見ていると、なんだか怖くなってしまった。どうしてなのかは分からなかった。僕の知らない景色を知っていることが、僕の見えない世界を見ているこの人たちが、手の届かない存在のように思えたからだろうか。
卒業ライブは、五曲を演奏してすぐに終わってしまった。
時間が過ぎるのがあっという間に感じた。
もうこれで先輩たちとはお別れなんだ、そう思った時、
「お前らも、やるか」
そう言ってスタンドからマイクを外し、持った手を突き出された。
「っていうかやれよ。五人でする、高校最後のセッションだ」
「やるのはあの二曲な。実はこっそり練習していたんだよ」
汗を流しながら、宇都宮先輩が笑う。
「記念というか、置き土産というか。ぼくらは、君の曲が好きなんだよ」
タオルで汗をぬぐって、高島先輩も笑う。
「俺もファンだぜ」
道旗がキーボードの準備をしながら言ってくれた。
僕の気持ちとしても当然、やらないわけにはいくまい。
突き出されたマイクに手を伸ばし、受け取った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
そうして僕は先輩たちの方を向いて、心の準備をする。道旗の方に目線をやると、準備はすでに整っていた。
みんなと視線を交わして無言で頷き、演奏が始まった。
ギターのアルペジオから始まる曲は『サテライト』。文化祭でもバックバンドを務めてもらったそれは、作曲歴半年で、無謀なほど重厚な曲にチャレンジして、挫折しかけたのだった。先輩たちの力を借りてようやく完成することができて、ほとんど先輩たちの曲といってもよかったのだけれど、「もともとの基礎がちゃんと組み立てられていたからこれほどになったのだ」と言ってくれた、感慨深い曲だ。
涙声になっていないか、上擦っていないかと歌いながら気になったが、その心配は必要なかった。今は、先輩たちの為に歌うんだ。気持ちをいれて、精一杯歌うだけだった。
曲が終わり、次の、最後の曲を歌う。
先輩が道旗に目配せをして始まった曲は、冬休みに完成した、詞で苦労した『雪と兎』だった。
こっそりってこの事か、と思った。確かに先輩たちに披露して音源も渡していたが、まさか演奏してもらうとは思っていなかった。しかも道旗もちゃっかり一緒に練習していたんだな。僕に内緒で。このやろう。
キーボードの音色はまさしく思う通りで、スネアドラムも綺麗に加わった。
そして僕が歌い、サビの前でギターとベースが優しく入る。
僕の音源以上の、想定以上の音楽になっていた。打ち込みではなく、生演奏だとこれほど素晴らしいものになるのかと、歌いながら痺れていた。
一番が終わり間奏になると、僕はみんなの顔を見た。
涙が溜まっているようにも見えたが、汗と混じってよくわからなかった。口元はみんな、笑みを浮かべていた。
二番が始まった。
もうすぐ、セッションが終わってしまう。
寂しい気持ちが湧き出してくるけれど、それは声に出さず、しっかりと歌った。
詰まらない声は出してくれるな。自分にそう念じながら、最後まで歌いきった。
最後のキーボードの音が余韻を残して、やがて、消えた。
先輩たちとの時間が、終わった。
それぞれが汗か涙かわからない顔で、けれど笑みを浮かべながら、しばらく放心していた。
もう、なにも言う必要はないと、みんなが理解していたのだろう。静かな時間が流れた。
いきなり、思い立ったように高島先輩が窓際に駆け寄った。
「卒業ライブは以上で終了でーす。ありがとうございました」
窓から顔を出して叫ぶと、外から大きな拍手や指笛、喝采を送る声が沸きだした。
それを受けて安金先輩と宇都宮先輩も窓から顔を出し、彼らの声に応えていた。
僕はもうしばらく放心していたが、気付くと道旗がこっちを見ていた。涙を流しておらず、達成感を伴った眩しい笑顔だった。
はーい解散解散、という先生の声が聞こえてあたりが静かになり、ようやく先輩たちが窓際から戻ってきた。
最高のライブ、ありがとうございました。ギターを教えていただき、ありがとうございました。曲作りのアドバイス、ありがとうございました。
伝えたい感謝は沢山あったけれど、そのどれもが、言葉にすると違ったものになるような気がした。いや、今のセッションで全部伝わったのだから、これ以上は不要だろう。
重ね過ぎると、無粋だ。
だから僕と道旗は声を揃えて言った。
「卒業、おめでとうございます」
まだまだ寒さの残る春の入り口は、高校生活の中で、最も熱い日だった。