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三月~五月

 今の職場に退職願を出して四週間後。

 まだ一年も経っていなかったが、この支社では新入社員が僕も含めて三人辞めたことになる。ある程度辞める人間が出てくるのは、会社側も想定内なのだろうか。退職願を出した時、上司には特に理由を聞かれることもなく、ああお前もか、という蔑みと憐みの混じった表情で見上げられた。逆に僕も、何故か同じような感情を抱いた。深く濃い目の隈と、怒鳴り散らすかため息を吐くか、どちらかしか見ていなかった僕にとって、彼の姿は鎖に繋がれた獣のように見えた。大切何かを守るために自ら進んで鎖を掴み、さらに上の上司と部下の板挟みになり、家族や友人に気遣って精神を削っているような、優しくも悲しい獣。多少なりとも世話になった上司ではあったが、同情するほどの内情を知っているわけではなく、また本当の感情が分かっているわけでもなかった。現在の立場や人間関係を維持することで幸せになっているのならば、彼が満足しているのならばそれでいいではないか。不満があれども呑み込める程度のものならば、無理に吐き出させるものではない。人間関係はお互いに全てを曝け出して築くものではなく、閉じ込めておきたいもの、秘めておきたいものには触れずに、ある程度を察して適度な距離感を保つことが重要なのだ。特に会社での関係は、無闇にプライベートに立ち入らないことが、暗黙の了解だったりする。

 だから、いよいよ退社が迫った日、その上司から、

「何か、夢があるんだな。羨ましいよ」

 と言われたことには心底驚いた。それは、僕が退職願を出したけれども他の、今まで辞めていった新入社員とは違ってより生き生きとしているように見えたからだそうだ。会社を辞めるということで、そこに対して罪悪感や後ろめたさ、あるいは精神的な苦痛で、そこまで明るく振る舞っていた人間は見なかったそうだ。

「大抵は逃げたことに対する自信の喪失感か、自身への失望感で、下を向いてばかりなのだが、青葉君は違った。次を見つけたから、辞める決心をしたのだろう。四週間は長かったと思うが、これは規定なのでね。すまないな」

「部長は、夢を、追いかけられなかったのですか」

「そんな能力も、覚悟もなかった。けれども、だから今が不幸だと嘆くつもりはない。おかげで妻と知り合えたようなものだし、二人の娘も授かった。これ以上を望めば罰が当たるよ」

 家族を想ったのだろう彼の顔は、今まで見たことのない優しい微笑みだった。

「君がこれから進む道がどんなになるかは分からない。辛かったり苦しかったりするだろう。けれど道程を楽しめ。目標を持って邁進しなさい。けれど結果ばかりを追い求めるな。楽ばかりしようとするな。努力を怠るな。頑張って飛び続けろ。人生の先輩として月並みな事しか言えないが、月並みだからこそ真実なのだと、ワタシは思う。

 それじゃあ、いままでご苦労だった。将来が明るくなることを願っているよ」

「はい、ありがとうございます。今までお世話になりました」

 彼にとって僕は、目標に向かって一心不乱に飛んでいく一羽の鳥に見えただろうか。

 それぞれの望むものが違い、守るものが違う。彼はここに根を下ろしたが、僕はこの木を住処にすることはできなかった。見上げれば臨む青い空を、忘れることが出来なかったからだ。その間一時的に、羽ばたく前の止まり木になってくれていたこの会社に、上司に、感謝をした。

 飛ぶ鳥跡を濁さず。担当していた営業先や振られていた雑事は、全て完了するか引き継いで、無事に遺恨を残さずに退職できた。と、思う。

 そして新しい桜の花びらが満開となって、事務所の近くへ引っ越しを終えた僕は、早速新しい環境で音楽制作を始めることとなった。

 制作の基本過程はあまり変わらない。メインメロディか歌詞か、どちらかをテーマからイメージして作り、あとはパズルのように組み立てていく。大枠が出来たら細かい部分や流れとしておかしいと感じた所を修正していく。

 今までは修正も一人でしていたのだが、これからは違う。大枠が出来た時点で道旗に聴いてもらい、色んなアイデアを貰いながら完成へと一緒に組み立てるようになった。

 僕の五年間を道旗が知らなかったように、道旗の五年間を僕は知らない。その間に得た何かが、その曲の中でぶつかって、弾けて、化学反応を起こし、溶けだし、混じり合う。それらから生み出される音を拾い上げることが、どれほど楽しかっただろうか。あーでもないこーでもないと言いながら、次第に洗練されていく曲の完成が待ち遠しかった。

 あるいは事務所の二階のスタジオで、新しく買った楽器や置いてある楽器を借りて実際に弾きながら、どの音が良いか、イメージに合うかを探した。硬いか柔らかいか、芯がある方が良いか、全体を包み込む方が良いか。透明か。濃い色か。針みたいか。ハンマーみたいか。爽やかさは。歪みは。強かさは。冷たさは。

 あくまで聴いて頭に浮かんでくる映像は微かな差異でしかないけれど、僅かな違いで音楽は劇的に変わることを、僕も道旗も知っている。

 だから二人で、納得いくまで探した。二人の求める音を。二人だけの音楽を。

 そうやって最初の曲が出来たのは、そろそろ長袖では暑くなりだした五月の半ばだった。

 デビューシングルとしての発売予定は七月で、表題曲とカップリングで三曲の収録を予定していた。後の二曲も並行作業でほとんど作り終えており、五月末には出来るつもりだ。そちらの方の使用楽器も、そろそろ決めないといけない。

「ところで道旗さんやい」

「どうした青葉さんやい」

 メロディに合わせて歌詞の内容を修正しているときに、僕は聞いた。道旗はスコアを作成して、そのチェックをしていた。

「いまさらな質問かもしれないけれど、どうしてスタジオミュージシャンをしていたんだ」

「どうしてと聞かれましても。曲は作れないし、歌も上手くない、から」

 道旗は僕の問いに顔をこちらに向けたが、しかしすぐに目を逸らした。

「え? いや、曲は作れるだろう。今の三曲とも、半分はお前の力だし、アレンジとか凄い上手じゃないか」

「いや、うん。作れなくはないんだが、やっぱ、何かが足りないって感じてしまうんだよな。その曲の中心、核になる音を作れないというかさ。もともとの光をさらに輝かせることは得意だけれど、元が光っていないというか。言うなれば青葉が原石で、俺が研磨機、みたいな。色んな楽器を触って、色んな音を作り出してはみたけれど、お前の作る曲を聴いて確信したよ。やっぱり俺は……」

 その続きは、言わせてはいけない気がした。かつての僕と、似たような悩みだろうか。それは分からない。だから僕は敢えておどけて言った。

「サポートが得意ってか。あるいは秘書って肩書にしておくか。そうなるとブルーフラッグの社長が僕ってことになるか。いや、会社じゃねえよブルーフラッグは」

「そういうことじゃなくて」

 わかっている。そういうことじゃない。

「この三曲は、お前と僕で作った曲だ。僕が原石でお前が研磨機だというなら、この曲が輝けるのは道旗がいたからだ。僕だけじゃ、ただの石で終わっていた」

「俺、足手まといになっていないかな」

「人間には得手不得手があって、役割も一人一人違うんだから、ここに来てその悩みは違うんじゃないのか。それとも、僕と組んでやるのは嫌だったか」

「……嫌じゃないけど……邪魔になっていないか」

「さっきも言ったけれど、道旗がいたから凄い良い曲が作れた。道旗がいたから、僕はこうして曲を作れるんだよ。邪魔どころか、僕を助けてくれた張本人じゃないか」

 僕が先にギターを始めたのに、道旗の方が先に音楽の世界に入った。お陰で僕はまた、道旗と音楽を始めることが出来たんだ。

「……」

「僕とお前で、青い旗だ。ブルーフラッグだ。それは烏丸さんにも言った。高校の延長線じゃない。今の僕には道旗が必要だ。一緒に、色んな面白い音を作っていこう。僕一人でデビューなんて、それこそ嫌だ」

「……」

「……」

「やっぱり青葉は青葉だ。こういう所なんだよなあ」

「こういう所ってよく言われるけれど、僕はよく分かんないんだよな」

 伏せた顔が上がると、そこには晴れやかな笑顔があった。

「才能だなんだって変に悩んだけれど、吹っ切れたわ。情けない所を見せてごめん。俺はお前のサポートとして、胸を張ってお前の音を輝かせる」

「僕の音じゃなくて、二人の音だよ。面白くて楽しい、青い旗の音だ」

「正直に言うと、青葉をずっと待っていたんだよ。ずっと青葉と音楽をやりたいって思っていたんだよ。もし来なければ、スタジオミュージシャンかアレンジャーとしてやっていこうと思っていた」

「待っていてくれて、ありがとう」

「来てくれて、ありがとう」

 今更ながら、改めて握手を交わす。

 ああ、忘れていた。高校の卒業式の日、また会おうと握手を交わしていたことを。その時の約束を、五年と二か月を経て果たすことが出来たのだ。共に同じ道を歩む仲間として、同じ志を持つ者として。

 そして今、その音を探し出すことができた。

 一人では奏でられない、二人だからこそ響かせることのできた、美しく爽やかな音だ。

 きっとこれからも、素晴らしい音に出会うための、始まりの門出の音だ。

 ところで、カーレースで青い旗が振られたときは、後ろからの追い越し車両に注意、という意味だ。僕は道旗に追い越されていて、そしてまた道旗を追い越そうとしているのだろう。けれどこれからは二人で走っていく。ずっと先にいる先輩たちに、いつか追い付くために。追い越せるかは分からない。たぶん無理かもしれない。しかし挑戦しなければ何も始まらない。果てしなく遠い目標でも、何も目指さずに走るよりずっと良い。

 青いシグナルは点ったばかりだ。

 先の見えない長いコースを、今度こそ、しっかりと進んでいこう。

 始まりの音を胸に刻んで。


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