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二月③

 次の土曜日、僕は見慣れない都会に降り立った。

 普段住んでいる場所も都会とは言わないまでもそこそこに栄えた街ではあるのだが、県を跨いで到着した駅は人口密度が違っていた。しかし新幹線から国鉄に乗り換えたときに大勢乗っていた人たちは一駅着く度にどんどん降りていき、目的の駅に着いた時には余裕で座れるくらいになっていた。都心とは逆の方向に行っているのだし、ましてや土曜日だ、こんな日もあるのだろう。間違えないように駅名を再三確認してから降りたときは、何ともなく溜め息が漏れた。知らない場所に行くというのは、何歳になっても緊張する。

 道旗からメールで貰った住所を、携帯電話の地図アプリで確認して、間違えていないことに安心して薄暗い駅舎から出る。

 降り注ぐ陽光は柔らかいが、雑居ビルの窓ガラスに反射されて全方向から光を受けた感じがした。暗い構内から切り替えて慣れ出した目に映ったのは、灰色の光景だった。歓楽街でも観光場所でもない所だと一目で判る。雑然と植え付けられている街路樹と思ったよりも少ない通行人。工事中の白い幕が巡らされている敷地。大小何本にも枝分かれした道路。地元よりも人口密度は高いかもしれないが、都会という感じは一切しなかった。見たことのない街だが、似ている景色は何度も目にしている。どこも中心都市から離れたら、同じ雰囲気を纏うものらしい。

 昼前の約束した時間には十分余裕がある。あまり早く着きすぎないように、ゆっくりと歩きながら、偶に地図を確認しつつ風景を観察しながら進んでいく。

 都心から離れてしまったので当然と言えるかもしれないが、どうにも都会感がない。むしろ疎らに住宅街が見えるのは、地元の風景とどこが違うか、間違い探しをしているような感覚に陥ってしまう。例えばこの路地を曲がったら茶色の大きいマンションが建っている、とか。例えば先の住宅は犬を飼っていそうだ、とか。狭い路地から猫がのんびりと歩いている、とか。全く知らない土地なのに以前来たことがあるような、既視感というか親近感が湧いてきた。

 そうして寒さを忘れて道中を楽しんでいると、いつの間にか目的地に着いていた。

 そこは小さな三階建てのビルで、建てられて二十年は経過してそうな微妙な古さを醸し出していた。入り口のプレートには「BC Record」と書いてあるので、ここで間違いはなさそうだ。BはBEAR、つまり熊で、CはCROW、つまり烏のことだと聞いた。創業者の名前から取ってつけたそうだが、ということは最初は二人だけで会社を設立したということだろうか。まさかそんなことはないだろうが、その時の苦労は想像が出来ない。どれほどの想いと熱を持って立ち上げたのか、仲間は他に何人いたのか、ここに入った人や去った人がどれくらいいるのか。その中の人達と衝突したり折り合いが付かなくなったりして、紆余曲折を経て未だ健在ということがいかに難しい事なのか。人間としての経験が少ない僕は、難しいのだろうな、と思うことしかできない。

 ただ、これからはやっと好きな音楽活動が出来るのだという期待でいっぱいだった。

 外でしばらく待っていると、僕が来た道とは逆の方向から道旗が歩いてくるのが見えた。道旗も僕に気付いて、手を挙げて「よお!」と遠くから声を掛けてきた。

 僕もそれに応えて手を挙げる。

 道端は手を挙げたまま小走りして近付き、挙げたままの僕の手にそのままハイタッチをした。何も変わっていない様子が窺えた。

「久しぶりだな。何も変わってない……少し垢抜けた?」

「そんな気は全然しないけど。お前の方は……すこしやつれた?」

「結構残業とか休出が多くてね、好きなことも碌に出来やしない。とくに最近は作曲とかデモテープとか作っていたから、睡眠時間が足りていないだけじゃないかな」 

「まあ怖い、睡眠不足はお肌の天敵よ」

「乙女か」

 そう突っ込んで僕は笑った。道旗も笑った。およそ五年ぶりなのに、距離感は少しも変わっていなかったのが少し照れ臭かった。

「まあ、入れよ」

 道旗が重たいガラスの扉を開けて入って行き、僕もそれに続く。

「おはようございまーす」

「おはようございます。今日はお世話になります」

 窓口のカウンターに三十歳くらいの女性と、奥にパソコンや資料やらで雑然としている机に大柄の男性が居た。男性は声に反応して僕の顔を確認すると、並びの良い白い歯を見せた。

「おはよう。あら、この子が噂の青葉君かしら。あたしはBC Recordのディレクター、熊井信俊よ。よろしく」

 厳つく髭の生えた顔には不相応なやや高めの声と言葉遣いで握手を求めてきた。おそらく僕の顔はどうしようもないほどに引きつっていて、どう反応したらいいものか分からずに固まってしまった。すると中途半端に空に浮いた手を熊井さんから掴んできて、大きく上下に振られた。

「かわいい顔してるじゃない。なに緊張してんの。ほらリラックス、リラーックス」

 言いながら上下に振る腕をさらに激しくしてくる。

「ああ、青葉紡、です。よろしく、おねがい、します」

 揺れながら、言葉も揺れながら、なんとか挨拶をするとようやく解放された。腕が痛かった。こんな強烈な人がいるのか。あれ、でも熊井って。

「クマさん、緊張というか未確認生物に会ったせいで警戒してるんじゃないすかね」

 道端が茶化すような口調で言うと、

「あら、あかりんも言うのね。初対面で変に気負わないように気を使ってるんじゃない」

 熊井さんも和やかに返す。道旗はあかりんと呼ばれているのか。

「いえ、正直そのキャラクターは強烈過ぎです。名が体を表しているんだがいないんだか、わかんないです」

「見た目と名前から、クマさんと呼ばれるのが似合いすぎてるのよねえ。だからこうして口調だけでも変えたんだけど……って、青葉君も言うのね」

「あ、すみません。思わず」

 しまった。初対面で、失礼だったか。

「いいのいいの。自分でもこれは半分ふざけてやっているようなものだから。でも普段からやりすぎて、本当最近は意識しないと普通の喋り方が出来なくなってきたのよねえ」

 心の広い持ち主で良かった。

「どうしてそんな、女性みたいな喋り方にしたんですか」

「この名前でこの顔でしょう。初対面は大抵怖がられて、目を合わしてくれないのよね。そんな恐ろしい性格じゃないのにね。それでこの喋り方にしたら、警戒はされるけど以前ほどじゃなくなったの。あ、でも安心して。あたしにはちゃんと妻も子供もいるから」

 なるほど、相応の理由があったのか。あっち方面の趣味の方だとしたらどうしようかと思った。いやどうしようもないけれど。

「まさかあちらの方が」

 僕はカウンターの女性を手の平を控えめに向けて聞くと、

「違うわよ。あの子は事務で溝口真知子。三十路にして絶賛彼氏募集中よ」

 目を細めながら紹介してくれた。それに対して溝口さんは、細い黒縁眼鏡の柄を摘まむように位置を直して言った。

「私はまだ二十代です。でももう正直誰でもいいかも」

「そう言いながら白馬の王子様を夢見てるのよねえ。いいかげん現実を見て妥協すれば、いくらでも捕まえられそうなのに、何がいけないのかしら」

「夢見るくらいいいでしょう。この業界にいるんですから。っていうか夢を見てここに来た若者の前でこんな話しないで下さいよ」

「というわけで自称眼鏡を外せば黒髪美少女の彼氏に立候補しないかしら」

 なにが、というわけ、なのだろうか。そんな話の展開に僕も道旗も付いていけてない。

「ほらぁ!二人とも引いちゃってるでしょう。美少女でもないし少女という年齢でもないし自称していません。いきなり痛い人のイメージが付いてしまうから、止めてください!」

 先程までは凛とした大人な女性の印象だったが、熊井さんに弄られるとガラリと変わってしまった。口を開かなければ美人という人物像になってしまった。

「あの、そろそろスタジオ入っていいですか」

 一応自己紹介は済んだと判断したのだろう、道旗が階段の方へ向かうと溝口さんは口を尖らせていた。

「あー、あかりん私を無視して行っちゃうんだ。やっぱりおばさんには興味ないのね」

 青いツバメを狙って爪を隠している鷹かもしれない。

「いや、マチさん、だから俺、彼女いますので」

「溝口さん、見た目若いし綺麗だから、そんな悲観しなくてもいいんじゃないですか」

 僕の言葉に溝口さんの目が光ったような気がした。けれど何か言われる前に道旗が僕の手を引っ張って、

「じゃあ二階のスタジオ使いますから、烏丸さんが来たらお願いします」

 そそくさと階段を上がった。

 重たい扉を開けてスタジオに入り、僕は聞いた。

「どうしたんだ。あからさまに避けたようだけれど」

「俺、なんかあの人苦手なんだよな。本気なのか冗談なのか分かんないけれど、ぐいぐい押してくるから、対応に困るんだよね。あ、まさかお前あーいうのがタイプ?」

「いや全然違うよ。美人系だとは思うけれど、好みかと言われれば、答えはノーだ」

「お世辞を言う奴じゃないのは分かっているけど、あのセリフは勘違いされるから控えめにしとけよ」

 勘違い。まあ確かに、されては困るな。今は恋愛事なんて興味がない。詞のテーマとしては使いやすく扱いやすいが、僕の今の対象は音楽なのだから、よそ見なんてできない。機会があったら、溝口さんに言わなくては。

 階段は上だけでなく、降りる方にもあった。このビルは三階建てに、さらに地下があるのだろうか。

「地下には録音スタジオがあるんだ。機材や防音設備が、ここよりもしっかりしてる。ここでも録音できなくもないけれど、スケジュールがよっぽどじゃない限りは、ここは練習や作曲のスタジオになってる。ちなみに三階は半分倉庫だな」

 録音ブースを見ると、見たことのない大きなミキサーや、シーケンサーキーボード、パソコンに液晶が三つ程、知らない機材も多々あった。ガラス窓を挟んだ向こう側にはドラムセットと、ギターやベースが数種類置いてあり、チェロだったかコントラバスだったか名前が微妙にわからない弦楽器もあった。

 ここで、色んな音楽が生み出されるのだ。誰かと共に、沢山の曲を作り出すのだ。心臓の鼓動が大きく脈打ち、期待と希望の詰まった音が鳴り響いた気がした。

「積もる話はあるんだけれど、これまで何をしていたんだ、青葉」

 道旗は部屋の壁沿いに設置されている、ソファーと呼べるか分からない固い長椅子に腰かけた。

「先週、藤野に聞いたんだろう。大学を卒業した後は保険会社に就職して、けれどやっぱり夢を諦めきれずにいた所をお前に助けてもらったんだよ」

 僕は扉の近くの固い椅子に腰かけた。中央にはテーブルがあり、道旗とは斜め向かいになる。

「ああ、それは聞いた。そうじゃなくて、ええと、どれくらい曲を作ったのかって聞きたかったんだ。まさか一つも作っていないってことはないだろうが、そういや軽音サークルに入ったんだよな」

「二年生の途中で辞めたがな。まあ、それまでにメンバーと作ったのが五、六曲程度。辞めた後に自分だけで作ったのが六曲、いや七曲か」

 二年次の編曲や依頼も含めると二十曲くらいにはなるか。けれどその時に納得のいく仕上がりになったのは、大学生活後半に音楽に没頭していた時期だけなので、それだけを数えると七曲といった所だ。

「あれ、意外だな。もっとあると思ってた」

「一人でちみちみと作っていたら、こんなものじゃないの。それに四年生から二年間はほとんど作れなかったから。それより道旗の方はどうなんだ。短大に行くって言っていたが、その後はどういう経由でここに所属することになったんだ」

「短大に行っても熱が冷めなかったら、溜めたバイト代で専門学校に行くつもりで、まあ予定通り冷めなかったから行って卒業して、宇都宮先輩たちの伝手でここに所属した次第だ」

「あ、ずるい」

「ってのは冗談で、俺好みの音楽を生み出すアーティストの多くがここに所属していたから、ちゃんと面接して採用してもらったよ。先輩たちがいたことは知っていたし、結果的にはやっぱり伝手かもしれないけれど。てかずるいって、お前が今やってもらっていることじゃないか」

 そうだった、失念していた。というのは冗談として、専門学校に在学していたら現場体験や実習で自然と色んな会社との繋がりが出来るらしい。大手なら逆にその時に有望な生徒の取り合いになることもあるそうだ。最終的には本人の希望で選ぶが、それらを蹴って小さいが気の合うプロデューサーのいる会社に交渉しに行く人達もいるらしい。

「実際に三つ子の魂の三人は、実習中に烏丸さんと知り合って、音楽性に惹かれて決めたって言っていたよ。烏丸さんからすれば、物凄い実力を持っていたから、まさかあっちからくるとは思わなかったってさ」

 会社の大きい小さいで営業戦略や広告の強さが決まり、大きな会社は多種の仕事が舞い込むが、その分多くの人間に受け入れられる音楽を多分に求められる。コマーシャルやドラマのタイアップでイメージに合った歌の制作依頼があれば、それに合わせた音楽を作らなくてはならない。どれだけ良い曲でも、個性が強すぎたりイメージと離れたりしていれば採用されないのだ。つまり個性を最小限に抑えて、耳触りの良い音を作らなくてはならない。それを作るのがプロとしての仕事であり、自分の好きなものだけを作るわけにはいかないが、けれどその分多くの人に触れられる機会がある。名が売れればまた仕事の依頼があり、ドラマの歌の人としてではなく個人として意識してもらえる。純粋な音で売り出すのに加えて、別の方面から聞いてもらう機会を多く作れる。それがメリットだろう。

 デメリットは上の意に沿わない音を作れないことだ。自分の求める方向と合っていれば問題ないが、癖の強い音を好む人たちにとっては、それが大きな枷になる。好きなことが出来ない、好きなものを作れないということが、どれだけストレスになるかは分かるつもりだ。

 だからそれが享受できない、我を通したい人たちは、純粋な音だけで聞く人を惹きつける力が必要だ。小さな会社を希望する人は、好きな音楽を作れる代わりに自分の力だけで勝負しなくてはならないのだ。

 一概にそれがすべてとは言えないが、大まかに分析するならこういうことになる。さらに音楽業界は横のつながりが重要で、依頼に適した技術を持つ人を探す時は、会社はあまり関係ないらしい。声や感性、人間性が合っていれば、知り合いの知り合いから紹介されることもよくあるそうだ。小さい会社には小さい会社なりの戦略と、そしてそこに所属する個人の実力がものをいう。

 先輩たちは、自分たちの音楽だけで勝負したいからBC Recordを選んだのだろう。そして彼らの音楽に惹かれた道旗がここを選んだのも、そして僕を呼んでくれたのも、それだけの実力があると思ってくれているのだ。

「みんながここに集まるのは、運命なんだ」

 運命とは言い過ぎかもしれないが、けれど僕が幸運なのは事実だ。道旗との繋がりがこの道への繋がりならば、先輩たちと仲間になれたことも今ここに繋がっていた。結果だけを切り取るのならばそれは運命であり、必然と言えるのだろう。しかしこれは先輩たちの才能とそれに自惚れることのない弛まぬ努力、道旗の夢を諦めない情熱があったからである。だから僕は道端ほどロマンチシズムに浸れず、運命という言葉を簡単には受け入れられなかった。去年一昨年で擦れてしまった感情の弊害かもしれないが、悩んできた日々を軽く扱われたようで、その日々は意味がなかったと言われたようで、道旗の言葉に簡単には反応が出来なかった。

 そんなつもりはなかったのかもしれない。道旗が通ってきた道にも苦労があって、苦悩があったのだろうが、けれども僕はまだ、そんなに割り切ることはできない。

 運命とか必然とか、幸運だとか偶然だとか、僕の人生を、彼らの人生を、一言で纏めたくはなかった。

「それが青葉の強みで、良い所で、感性の支柱の一つなんだろうな」

 弱みで、悪い所でもある。それをあえて口に出さなかったのは、道旗の優しさだ。

 時計の長針が半周したころ、重たい扉が開いて、短髪で四角い眼鏡をして髭を蓄えた男性が入ってきた。ボタンがカラフルな白いシャツに黒のジャケットを羽織り、紺色のジーパンというラフな格好だった。

「おはよう。外は寒いねえ。あ、君が青葉君だね。僕は烏丸昭彦。BC Recordの代表で、プロデューサーをしているよ」

「よろしくお願いします。青葉紡です」

「おはようございます。無理を聞いてもらって、すみません」

 僕と道旗は立ち上がり、お辞儀をして挨拶をした。道旗が奥にずれ、烏丸さんがその隣に腰かける。

「いいよいいよ。君の同級生で『三つ子』とは先輩後輩なんだって? 彼らの才能は目を見張るものがあるし、事実この前出したアルバムはこの会社では異例の売り上げを叩き出しているんだ。そんな彼らが推薦するんだから、きっと君も、面白い音を聴かせてくれるんだよね」

 ちらり、と単に僕の顔を確認するだけに向けられた目線が、品定めをする厳しい目線で睨まれたように感じた。先輩たちには才能があると確信できるが、しかし僕にもあるかと聞かれれば、自分からはどんなに自惚れても口に出すことはできない。

「そんなに畏まらなくていいよ。ほら、座って。『三つ子』や道旗からいくら聞いた所で、僕は自分の耳しか信じないからね。つい試すような物言いになってしまったが、しかし期待はしているんだよ。才能は自分からあると言い出すものではない。それは僕も同意する。事音楽等の芸術には絶対的な価値は存在せず、相対的でしか僕らは評価できない。その基準も人によって様々だ。才能とは、この場に限っては他人を評価する尺度でしかない。だから新しい人を迎え入れるのは、立場上慎重にならざるを得ないんだ。公正公平に売り出せるか売り出せないかを判断しないといけない。会社を経営して、人を雇ったりプロデュースするというのは、自分以外の人間の人生を預かるようなものだからね。生々しい話にはなるが、その人が自分の音楽で食っていけるかどうか、その才能を預かる事でうちにメリットがあるかどうかを、シビアに考えなければいけない。もちろんその人の頑張り次第という部分はあるが、明らかに売れない人間を同情や親切心で迎え入れることは、できない」

 烏丸さんは言葉を切り、正対して強い目で僕を見た。

「青葉君、君は、この世界に人生を掛ける覚悟はあるのかい」

 心臓が跳ねた。

 僕を真正面から見ている、見ようとしてくれている烏丸さんの視線から目を逸らすことなく、はっきりと言葉を紡ぐ。

「色んな道に迷ってここに来ましたが、この間やっと、僕の人生には音楽が必要だということが分かったんです。自分の世界は、自分の音で作らないといけないんです。覚悟はもう、決めています。お願いします。僕の人生を手伝ってくれませんか」

 烏丸さんと見つめ合い、しばらくの沈黙が流れた。

 そして、烏丸さんは、ふっ、と短く息を吐き、口の片方を釣り上げて笑った。

「先輩後輩って、こうも似るもんなのか。いや、『三つ子』と青葉君の波長が偶然にも似ているってだけか。あいつらと同じようなことを言うなんて、びっくりだよ。まさか打ち合わせしてないよなあ」

「いえ、先輩たちとは高校以来会っていませんが……?」

「あいつらは、俺らの世界に手を貸してくれ、だったかな。こんなセリフを堂々と言う奴なんてあいつら以外いないと思ったが。いや類友ってやつなのかな。なるほど納得した。よし、おじさんに任せろ。青葉君の世界は、僕が全力でサポートしようじゃないか」

「え……あ、ありがとうございます!」

 豪快に笑いだした烏丸さんに認められた。勤めている会社への辞表や引っ越しなどの後片付けがあるが、今この時、僕はスタートラインを切ることが出来た。

 ……あれ?

「あの、デモテープとか、聴かないんですか」

 僕の実力を判断してから決めると思っていたのだが、一足飛びで決まってしまった事に気付いて、遅ればせながら困惑した。もしくは、道旗が高校の時に作った曲の音源を持っているはずだから、それを事前に聴いていたのだろうか。

「ああ、そうだった。『三つ子』と同じ匂いを感じて勢いで言っちゃったよ。彼らが推薦しているから、つい、ね」

 さっきは自分の耳しか信じないと言っていませんでしたか。嘘なんでしょうか。

「それは本当だが、さっきのは生半可な気持ちでいる人間に対する脅しみたいなものだよ。音楽の実力も大事だけれど、この業界で本当に大切なのは人間性なんだ。真面目で誠実なのは言わずもがなで、音にどれだけの愛を持っているかが伝わった。それに僕だって人間だ。感情を持って好き嫌いで音楽を作っている。理論だけでは良い音は作れないんだ。それで僕は君を気に入った。それで十分だと思ってしまったんだ」

「それだと公正公平ではありませんので、できれば聴いてから判断していただいてよろしいいでしょうか」

「そういう所なんだよなあ。じゃあ、ほら、聴かせてごらん」

 僕は鞄からUSBメモリを取り出した。道旗がブースのパソコンを起動させて準備を済ませていたので、渡す。少し操作して、上等なスピーカーから僕の歌声が流れた。

 それを一聴して、すぐに烏丸さんは、やっぱりね、と言った。

「青葉君のような人が作る曲が、面白くないわけがない。素晴らしい素質を持っている。甘い所、惜しい所、技術が足りない所はあるが、予想以上のクオリティだね」

 ああ、本物に褒められた。本当に認められた。僕の日々は、意味のないものではなかった。

「あれ、次の曲って」

 道旗が気付く。USBメモリには今まで作った曲を全て詰め込んでいて、二番目からの曲は動画投稿サイトに投稿した曲だった。

「これ、聞いたことある。まさかお前って、カラカラPだったのか」

「ああ、そこではそう呼ばれていたんだっけ」

 今では遠い記憶だ。ある意味で黒歴史。黒い感情に染まった時期に作った、暗い音楽が多かった。けれど妥協は一切しなかった曲たちだ。

「意外な曲を作っていたんだな、青葉」

 道旗が感心しながら言う。

「これもまた面白い曲だね。しかも完成度が高い。逆にどうして埋もれていたか疑問だね」

 烏丸さんも、言ってくれた。

「あの、全部聴くんですか」

「折角だから、聴いておこう。青葉君の引き出しの多さを確認したい」

 自信がないわけではなかった。あの時に自分の力の全てを振り絞って作ったのだから、それなりの自負があった。どうしてか埋もれてしまったから、張りぼてになってしまったのだ。

 六曲すべてを聴いた後、高校の文化祭と卒業ライブの先輩たちと演奏した音源が流れてきた。これも、詰め込んでいたか。忘れていた。

「懐かしい。これ、先輩たちとやった時のだよな。バックバンドは『三つ子』の三人ですよ」

「この曲も、青葉君が作った曲かい」

 烏丸さんが聞いてきた曲は、あの時の『サテライト』と『雪と兎』だった。

「はい」

 今では、とても青い歌に聞こえる。稚拙ながらも情熱に燃えていた、輝かしい過去だ。

「ふむ。君たちはやはり似ているというか、親和性が良いのかもしれないな」

 思案顔になって、ポツリと呟いた。

 持ってきた曲を全て聞き終えて、烏丸さんが改めて僕の顔を見て、そして時計を確認したら急に慌てだした。

「なるほど、面白いものが聴けたよ。ありがとう。すまないがこの後、予定があってね。これは急がないといけないな」

「あ、すみません。スケジュールも考えずに沢山聴かせてしまって。それで」

「青葉君はまだあっちの仕事を辞めていないのだろう。うちとの契約の話は、また後で電話で詳しく話すから、電話番号を教えてくれないかな」

 僕は携帯電話の番号とメールアドレスをメモ帳に書いて渡した。

「今日はありがとうございました。これからが楽しみです」

「ああ、僕も楽しみだよ。素晴らしい音楽を、共に作っていこう」

 固い握手をして、烏丸さんは急いでスタジオから出ていった。

 僕はその背中を、閉まった扉を、見つめていた。

「さて、俺は今日仕事がないんだけれど、どっか飯食いに行くか」

 道旗が片づけを終わらして軽く伸びをする。僕も緊張感が解け、腕を背中に回して体を解した。背中の骨が小さく鳴った後、朝が早かったせいもあって、追いかけるようにお腹の虫が鳴った。

「道旗」

「なに食べたい?」

「ありがとう」

 夢を諦めないでいてくれて。その夢に、僕を巻き込んでくれて。救い上げてくれて。

 運命と一言に纏めることは嫌だったが、言いたいことを全部言葉にすることも出来なかった。そんな簡単に語れるほど言葉と感情は簡単ではない。人は何かと言葉にしたがるが、どれだけ言葉尽くしても表せられない事もある。伝えられないものを伝えたくても、手段がないからこそ、それに近い言葉でなんとか伝えるしかない。的確に指し示すものがないから、幾千の言葉で不明確な輪郭をなぞるしかないのだ。夢を叶えるために努力をして、それに誠実に向き合う日々を送ってきた結果を運命と呼ぶのなら、それでもいい。

「俺の楽しい人生を送るために、必要なことをしたまでだ」

 その顔は、可愛い悪戯が見つかって照れ笑いをしている子供のようだった。

「ああ。お前がいるんだ。僕の人生も、きっと楽しい人生になるんだろうな」

「ちょおま。言葉の綾にマジレスすんなよ」

 こんな良い親友が、僕にはいたんだ。その事に今、気が付いた。

 これまでの毎日は、酷く薄く、寂しい世界に居たような気がした。

 自分の音の限界を探って色んなジャンルや曲調に挑戦して、世界観を広げようと色んな音を取り込んでも、影を掴むように手応えの無いものだった。音楽漬けの毎日ではあったが、しかし深く暗い水の底をゆっくりと進んでいたような、光の無い冷たい土の中を掘り続けていたような感覚で、孤独を静かに噛みしめていた日々でもあった。

 あるいは細い竹材の外枠に手当たり次第に手に取ったカラフルな色紙を張り付けるように、虚構の自分をせっせと作り上げていた日々だ。中心にある本物に触れることが出来ず、そこから放たれる光から顔を背けていた。光を、隠そうとしていた。音楽から遠ざからろうとしているのに音楽で気持ちを紛らわす、という矛盾を抱えながら。けれど外側にいたはずなのに、いつの間にか内側から色紙を張り付けていた。光を背中に浴びながら、外に出さないために覆いながら、決して顔を向けてはいないのに光に焦がされていた。

 だから破綻したのも当然だ。しかし親の期待通りに振る舞って自分を殺して違う道にそのまま進むということは、有り得た未来でもあった。例えば僕が音楽に出会っていなければ、高校大学と心を動かされるものに出会っていなければ、矛盾を抱える事なく、何も考える事なく、成り行きの人生を送っていたかもしれない。確たる自分を持てなかったのだから、自分を殺すという表現をするまでもなく、自分のない自分を生きていたのかもしれない。そうなっていた時にどうしていたは、知る由もない。今こうして音楽の道に進もうとしているのだから、別の道は選ばれなかった可能性でしかない。

 中学の時ギターに憧れていなくても、もしかすると高校の文化祭で先輩たちの音楽を聴いて、結局はこの道を選ぶのかもしれない。運命が収束するというのなら、今ここにいることこそが僕の歩いてきた道の正しさの証明で、悩んで苦しんできたことも、誰かの計算の内ということだろうか。あるいは正解は一つではなく、大学ではなく専門学校を選んでいたとしても、そこでも何かで悩み、答えを求めて四苦八苦するのだろうか。

 違う。そうではない。運命ではなく、過去の可能性を探ることではなく、僕のこれからに必要なのは、正しい道を選ぶことではない。

 選んだ道を正解にすることだ。

 僕が今ここにいる事が重要なのであり、今日の僕は昨日までの僕を積み重ねた上に生きている。これまでの僕自身を、無駄にしてはいけない。

 期待外れも、誤魔化しも、すれ違いも、悩みも、苦しみも、水面下の衝突も、心の罅割れも、挫折も、絶望感も、掠れた空も、笑顔の仮面も、抑圧された生活も。

 全て、忘れてはいけない。

 全てが、僕の生み出す音の礎となるのだ。

 我が儘でいい。欲張りでいい。後悔を肯定して、今までの自分を認めてやろう。良い思い出も、悪い思い出も、どちらも自分が作り上げてきたものなのだから。

「ここの定食屋、店構えはぼろいが美味いぜ」

 そう言われて入った小さなお店で、久しぶりに道旗とバカを言いながら食べたカツ丼は、確かに、とても美味しかった。


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