第2話 雨の帰り道
「好きです」
聞き間違いかと思った。有雷零歌は改めて今の言葉を脳内で反芻する。
目の前には、頬を紅く染め目を潤わせ不安気な表情で佇んでいる桃色ロングヘアーの少女。そして、今いる場所は誰もいない教室。シチュエーションとしては、ある単語が頭の中に浮かぶ。
告白。
(……………………え、マジで?)
今まで15年間生きてきた零歌だが、人生の中で告白されたことは一度もない。あるとしても、それは成人してからずっと先になると思っていた。それがよもや放課後の高校の教室でされることになろうとは……。
「あ、あの、有雷くん……?」
しばらく呆然としていた零歌に再び話しかける少女。零歌の答を待っている様子だったが、当の零歌はまだ状況整理が追いついてない。恐る恐る少女に話しかける。
「あの、えーっと……君は……誰? まだ、会ったことないよね?」
そう、零歌は目の前の少女と話すどころか会ったこともない。そんな自分に告白しにくるなんて、この少女はどうかしているのか。当然の疑問に少女は慌てて、
「あ、まだ自己紹介してなかったねごめんね!私は真竜夢為!有雷くんと同じ1年生!」
(しんりゅうゆな……?)
やはり聞いたことがない。もっとも零歌はクラスメートでさえまだ全員覚えきれてないのだが。
「あの、有雷くん……返事は」
「え? あ、あー…………」
どうする。いや、正直断る理由はない。目の前にいるのは、疑いようのない美少女だ。このチャンスを逃したら、自分には一生恋人ができないこともあり得る。ならば、答えは決まっている。
「あの……別にいいんだけど…………付き合うの」
目を逸らしながら、ほとんど聞き取れないような小声で返事をした零歌。しかし夢為の耳にはしっかりと届いていたようで、
「ホント!? 良かった……嬉しい。ありがとう」
天使の笑顔でそう言われた。零歌は、その時心臓にズッキュウウンと矢を射抜かれたような感覚がした。
これが、恋か。
「あの……これからよろしくね。零歌くん」
下の名前で呼ばれた。女子に。下の名前で。
(いいな…………)
謎の感動が押し寄せてきた。
「よろしく……真竜さん」
「もー零歌くんも夢為って呼んでよ」
そう言われても、今会ったばかりの女子の下の名前を呼ぶなんて勇気は零歌にはない。しかし、二人はもう恋人同士なのだ。今零歌の目の前にいる少女は、彼女となった存在なのだ。ならば呼ばざるを得ない。
零歌はまた目を逸らし小声で返事をした。
「よろしく……えっと…………夢為」
正直かなり恥ずかしい。罰ゲームの一種のようにも思える。夢為は満足したように笑みを浮かべた。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「いや、めっちゃ恥ずかしいからな」
大勢の前で発表したり、何か失敗をしたりする時の恥ずかしさとはまた違う。自分の心臓の鼓動と身体の熱さがそれを物語っている。
(…………ん?)
零歌は何かを忘れている気がした。ふと机の上を見ると、そこには解答欄が白紙の数字問題プリントが一枚。
「あ、これ忘れてた」
この数分の間に起こった見知らぬ少女からの告白というイベントのせいで、天島地穂から与えられた課題をすっかり忘れてしまっていた。
「どうしたの零歌くん?」
夢為は不思議そうに零歌の机の上を見た。
「それは?」
「……数学の課題」
「もしかして居残り?」
もしかしなくてもそうだ。もっとも零歌は約二時間眠りこけていただけだったが。
黙って頷くと、夢為は何かを思いついたように笑顔で言った。
「それ、私がやってあげようか?」
「え。いいの」
思わず反射的に答えてしまった。この辛い課題をやってくれるなんてコイツは聖女か何かか?
「任せてよ。数学は得意だから」
そう言うと零歌と席を代わり、問題プリントをやり始めた。
スラスラスラスラーッ………………
(マジか……)
零歌があんなに苦戦していた数学の問題を、いとも簡単に解いていく。
これはねーこの公式を使うんだよー。これはこういう考え方で解くんだよー。と、丁寧な解説付きだ。零歌は半分も理解していなかったが。
そしてものの十分程度ですべて解いてしまった。
「すげー……頭いいな」
「これくらい簡単だよー。零歌くんはもっと勉強しなきゃダメだよ?」
「……はい」
お叱りを受けた零歌だが、その類の忠告は受け慣れているので特に何も感じない。
「あの……これさ、明らかにオレがやったものじゃないってわかるから確実に叱られるよな」
当たり前だった。このような不正行為を天島に咎められたら首絞め地獄待ったなし。
しかし夢為は意にも介さぬように両手でガッツポーズを作った。
「大丈夫だよ零歌くん! 私も一緒に叱られてあげるから!」
「そりゃどうも……」
そういう問題じゃないとは思うが……とにかくプリントは提出しなきゃならないことに変わりはない。
「はあ、行くの嫌だけど職員室行くか」
「オッケーレッツゴー!」
何故だかテンションが高い夢為といつも通りテンションが低い零歌の二人は教室を出た。廊下の電気はまだ点いているので普通に進めるが、階段の電気は消されており、見下ろすと地獄の入り口のように見える。
「うわあ……暗いね、零歌くん。なんだか怖いな」
「別に怖くはないけど」
「わあっ! 頼もしいね!」
………………頼られるのも悪くないな。今の「わあっ!」は結構わざとらしかった気がしないでもないが。
二人は闇の階段を降りていく。足を踏み外しそうで確かに怖いっちゃ怖い。
慎重に進んで無事一階まで辿り着くと、二人は職員室の前まで行った。零歌は職員室の扉を開けた。
「失礼しまーす1年4組の有雷です。天島先生はいますか」
職員室の中は人が少なく、数人の教師がパソコンをいじったりテストの採点をしていた。その中の一人のアラサー独身女教師が驚いた顔でこちらを見た。
「え? 有雷くん全部できたん!?」
「あ、はい……多分」
「何や多分って……まあとりあえず見たるわ」
天島地穂は零歌からプリントを受け取り、ザッと見た。すると、天島の顔がみるみるうちに険しいものになっていく。
「アンタ……こんな字やったか? こんなきれいな字やったか??」
「えっと実は……あそこにいる人にやってもらったんです」
零歌は職員室の入り口を指差した。そこには桃色ロングヘアーの美少女が中の様子を伺うように立っている。
天島は二人を見比べ、
「どういうことなん? そこにいる子、中に入ってきて説明して」
呼ばれると夢為はと天島のもとに駆け寄っていった。
天島は二人を交互に見て言った。
「アンタら協力して私を出し抜こうとしたんか?」
正確に言えば夢為が勝手に問題をやっただけのような気がするが……天島は零歌がやらせたと思っているだろう。
零歌はチラッと横の少女を見ると、特に何も感じていないような様子だった。結構肝が据わっているのかもしれない。
夢為は冷静な口調で話し始めた。
「えーっと実はですね……有雷くんがどうしてもやってくれって聞かなくて……仕方なくやりました」
…………ん?
「ほー……有雷、アンタがその程度の男やったとは……前から勘付いてたけど」
あれ? あれ? あれ? おっかしいなあ。なんか話が違わない?
「よし、有雷。罰としてアンタには新しい問題プリントを二枚やってもらう。明日の朝提出やで。わかった?」
天島から二枚の数学問題プリントをポンと手渡された零歌。どちらも今日取り組んでいたのと変わらない難易度の問題ばかりだ。
「…………マジかよ」
超予想外の展開だった。まさかの彼女の裏切り行為により、課題が二倍に増えてしまった。
「今日は木曜日やろ? 今日の夜頑張って明日学校行けばお休みやで。そう思えば頑張れるやろ」
果たしてそうかな。休日が近づくにつれてやる気が失われていく人間もいることを忘れてはならない。
「有雷、アンタ反省しいや。それとそこの子も、頼まれてもやったらあかんで」
「はい、わかりました。いくら彼氏の頼みでもやったらいけませんよね」
ピクッと。天島がある単語に反応した。
「……彼氏? アンタら付き合ってんの?」
指摘された夢為は頬を紅く染めて、
「はい、今日告白したんです。恋人同士なんですよ私たち」
そう言いながら、零歌の左手を繋いできた。突然の恋人繋ぎに動揺する零歌。
ブチッ。天島の中で何かが千切れる音がした。
「学校の中でイチャついとんちゃうぞお前ら……」
「すみませんでしたー!」
零歌は夢為の手を引いて、急いで職員室を出て行った。
「はあ……増えちまった」
玄関の下駄箱の前で、零歌はガクッと肩を落としていた。課題が二倍になった上に明日提出など悪夢のようだ。
「まあまあ零歌くん。大丈夫だよ! 気合いで出来る量だよ!」
隣では夢為が励ましているが、気合いが出せないからこんなことになっている零歌なのである。
外を見ると、まだ雨が結構降っている。そして零歌は傘がない。
「……詰んだ」
「へへー、私は持ってきてるよ」
夢為は傘立てからピンク色の傘を取り出した。零歌と違い用意がいい。
「いや、でもオレのはないし……」
「え? 相合傘すればいいじゃん」
……その発想はなかった。今まで彼女がいなかった弊害だ。
「零歌くんはいつも何使って帰るの?」
「オレは港山公園から電車。青石町まで行くんだけど」
「港山の駅? だったら帰り道一緒だね! ちょうどよかった」
夢為は傘を広げると、零歌との距離を詰めた。
「ほら入って?」
「……わかった」
傘の中に高校生男女が並ぶ。その様は、どこからどう見てもカップルだ。
「じゃ、行こ」
夢為に促され、零歌も進み出す。
校門を出ると左に曲がりそのまままっすぐ歩く。港山公園駅までは十分程度で着く距離だ。
この時間はあまり下校の生徒はいないとはいえ、男女で相合傘をしていればどうしても注目されてしまう。何人かの生徒たちから(あれは何年何組のカップルなんだろう)というような視線を向けられた。零歌はこういったことに慣れていないので、目を向けられれば夢為との距離を自然と少し開けてしまう。夢為はそれに気づいたようで、
「ちょっと零歌くん傘から体出てるじゃん! 濡れたら風邪ひくよ!」
「ちょ、わかったわかったからそんなに引っつくな」
零歌を濡らせまいと傘を零歌の頭上まで覆うのだが、それには夢為の体も零歌と接してしまうわけで。端から見ればイチャついてるように見えなくもない。ほのかに漂うシャンプーの香りが零歌の鼻孔をくすぐる。
「零歌くん私とくっつくのがそんなに恥ずかしいの?もっと堂々とすればいいのに」
「いや、そう言われてもやっぱり恥ずかしいから……」
「もー強情だなあ」
意地悪っぽい笑みを浮かべる夢為にたじろぐ童貞高校生零歌。左半身が雨に濡れてるはずなのに、さっきから体より発せられている熱のせいで寒さなどほとんど感じない。
「零歌くんは優しいね」
不意に褒められてドキッとする零歌。優しいも何も傘に入れてもらってるのは自分なのだが。
「……お礼言うのはこっちのほうだよ。課題やってもらったし……まあおかげで増えたけど」
「ごめんね! でもこれも零歌くんのためだよ! やっぱり自分の力でやらなくちゃダメだからね」
確かな指摘だが、課題が増えればそれに反比例してやる気が失われていくこの男の心にどれだけ効いたかは謎であるが。
気がつくと、雨は大分小降りになっていた。そして、ちょうど目の前に港山公園駅が見えてきた。零歌と夢為はここで分かれることになる。夢為は傘についた水滴を外に飛ばしながら、零歌に聞いた。
「そういえば、青石町から家まではどうするの? 濡れちゃうよ?」
「これくらいの雨なら別に大丈夫だよ」
確かに、もう歩いても大丈夫な程度の小雨だ。元々零歌は多少の雨なら傘を差さずに歩くのも平気な男である。
天井から下がっている電光掲示板を見ると、次の青石町方面行きの電車は6時20分に来る。現在時刻6時16分。
「あ、そうだ零歌くん」
夢為が何かを思い出したようにスマホを取り出した。
「あのさ、まだライン交換してなかったよね。しよーよ」
「そういえばそうか」
零歌はスマホを取り出しラインを起動する。そこのQRコード読み取りの画面を出し、夢為のスマホにかざす。これでラインの友達登録は完了だ。
「えへへ、これでいつでも話したりできるね」
「まあ、そうだな」
零歌のラインの友達欄に数少ない女性の名前が追加された。それだけでも感動ものだ。
スマホの時計を見ると、もうすぐ6時20分だ。
「あ、やべえ電車来る」
零歌は急いでポケットから定期を取り出し改札口に向かう。
「それじゃ、夢為……またな」
零歌は手を挙げて挨拶すると、夢為も笑顔で手を振って返した。
「うん、また明日ね! これからよろしく! バイバイ!」
零歌の姿が見えなくなるまで、夢為はその場に立っていた。そしてしばらくすると、その顔から一切の笑顔は消え険しい表情になった。
「有雷零歌くん………」
その眼は闇を含んでいるように見える。一体何を見ているのかはわからない。
ただ、『今』は見ていない。
「ホント、目が似てる…………」
未だに実感が湧かない。
(彼女…………か)
零歌は電車に揺られながら、今日の出来事を思い返していた。突然の告白からの突然の相合傘……昨日までは考えられないことだった。
(帰り道に何か悪いことに巻き込まれたりしないかな)
そんな不安がよぎってしまう。恋人ができた代償に事故に遭うという漫画的展開になってしまうかもしれない。
(まさか……な)
青石町に到着すると、電車を降り改札を出ていつもの帰路に着く。雨はもうほとんど止んでおり、走って帰る必要はない。
青石町はスーパーからデパートまで結構幅広くある街であり、この近辺では便利なところである。おかげで零歌も買い物はこの辺りで済ませてしまうのがほとんどだ。
零歌の家は団地であり、店が連なり賑わっているところを抜けた少し先にある。その団地の周りは静かで、過ごしやすいところではある。
団地の入り口付近には自動販売機が一台あり、零歌はそこで飲み物を買う時が多い。今日も適当なジュースを一本買っていこうと自販機の前まで行った。
しかし、零歌はふとその足を止めた。
自販機の前に、謎の人物が佇んでいたからだ。
髪を水色に染めて逆立てており、両耳にはピアス、そして左目を中心に赤い下矢印が描かれている。上は赤いTシャツ、下は紫のズボンという出で立ち。
そんな男(?)が自販機の前で飲み物を選んでいる。零歌は関わらないように急いで通り過ぎようとしたが、男の後ろまで行ったとき、突然男がこちらに振り向いた。
「んー? ちょっとキミ待ってくれないかなぁ。なんだか変な香りがするねぇー」
「変な香り?」
思わず返してしまった。まったく心当たりがないが。
男は口をニンマリと開いて低い声で言った。
「キミ……もしかして『ソヴェルス』の人間かい?」
「……そゔぇるす??」
悪い予感は的中したようだった。