第89話「ひとなれば、二度寝」
「ごめん、私が弱くって。シオンは頑張って、私も手伝わなきゃ、って思った。でもダメだった......怖くなんてない、そんな言葉嘘だった。ずっと感じてた。どうしたらシオンに追いつけるだろう。追いつけなくてもいい、強くなれるためにはどうしたらいいのかずっと考えてた。けど答えは見つからなかった。弱い私にシオンの頬を叩くなんて資格、ないよね......」
涙をほろりほろりとこぼし、それは言葉を増すたびにミカロの心を現すように溢れ出ていった。シオンもヒラユギも彼女を慰めようと、彼女の力になろうと手を伸ばす。けれど彼女は彼らの手を勢いのままに、弾いた。シオンは彼女の行動に力強さを増した拳を握った。けれどそれを右手で落ち着かせ押さえるように、ゆっくりと体のうちに戻した。
彼女の言葉が夢だと願った。けれど、いくら経ってもその世界が壊れるはずもない。とわかっていた。シオンは振り払おうとするミカロの腕を避け、左手で彼女の背中を押し、自分の胸に押しやった。彼女は抵抗をやめることなく、彼の胸を加減なく太鼓をバチで叩くような音で拳を突き続けた。
神経を通れば右腕が痛む。傷ならまだしも、治療すら終えていない膝立ちで押さえすらない状態の彼の痛みをヒラユギは危惧していた。けれど、彼がその痛みを感じていないかのように見せる、にこりとした笑みに彼女は背筋が凍ったような感覚になった。ミカロの別格に似た言葉を心の中で納得していた。
シオンはぽつりと彼女の涙のようにゆっくりと地面に響くようにつぶやいた。
「ミカロのおかげで、記憶屋に僕の記憶があるのかそうではないのかを確認できた。ミカロが召喚してくれたミファさんのおかげで、敵を倒せた。僕の記憶を取り戻せたのだってそう。ミカロがチームに誘ってくれたから、ファイスに出会えた。フォメアに出会えた。ナクルスに出会えた。エイビスに会えた。ヒラユギに会えた。セインにもまた会えた。ミカロがいてくれたから、僕は強くいれた。絶対あきらめずにいられた。ミカロなら諦めないから」
ミカロはその言葉の道中、振り子のようにシオンの胸に投げていた手を止め、彼の服の袖をがしっと強く掴んだまま離さなかった。かすかに耳にこだまする嗚咽に合わせ、シオンの言葉に感謝の満ちた涙が溢れた。きらきらと陽光に照らされ、一粒一粒が希望の色に満ちていく。シオンはしわくちゃになった彼女の顔を、形を確認するようにするりと撫で、彼女に微笑み返す。
「そんなんだからお人よしなんて言われちゃうんだよ。シオン」
「いいさ。騙す人間よりも、騙される、信頼される人間でありたいんだ。ミカロもそうだろう?」
「私は......」
答えなんて分かりきっていた。口をつぐみ、ふいとシオンから目を逸らし、窓からこぼれる輝きを受けた風景を視界に、ミカロは涙を指で掃い彼の顔を臨んだ。
「そうだね。見ず知らずのシオンを誘う私も十分お人よしだったよね」
あえての自虐な言葉にシオンは驚きを笑いで隠す。ミカロの笑顔の同調とともに、ぐさりと見えない痛みが体を貫き、苦い顔をこらえきれなかった。勢いよく椅子にもたれるように横になる。けれど、そこはふわりと柔らかい彼女の膝の上だった。
「けど、シオンのそういうとこ嫌いじゃないよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕はプールの中に沈むように静かに暗闇の世界へと導かれた。とぷんと疲れが眠りの道に引き込み、呼吸の響きだけが体を動かした。
「シオンさま!」
目覚めた瞬間、待っていたのはエイビスの代名詞ともいえる抱擁だった。覚醒が知識を生み出し、状況の理解が構築されていく。日はすっかり姿を消し、月が後を追いかけるように姿を現わす。元通りの右腕の感触を何度も左手で揉み解して確かめ、ここに自分たち2人しかいないことに気づいた。
「エイビス、みんなは?」
「食事を済ませそれぞれ準備に赴いている次第です。お目覚め時だとは思いますが、シオンさまも、準備のほどを」
彼女はすっとクローゼットから僕の|戦闘服(茶色のレザーコート)を取り出し、僕の生身を見ても動揺することなく、着替えを支援した。
エイビスが不思議と成長を遂げているようにも思えた。今までのような僕にだけ妙に甘さを見せていたいつものエイビス。冷静であり、棘のように張り詰めた誰にもスキを見せないエイビスさん。その二人が混ざりあった、冷静でありながら優しい彼女に本当の意味で危機を感じている。思わず笑顔は消え、無数の敵に囲まれているかのように、体中から危害を知らす警告が飛び出す。
部屋には旅行の面影などすっかりなく、並んでいたスーツケースは小さなボストンバッグへと変わり、警戒が部屋内を駆け巡る。リゾート気分を味わえるのはグラスに入った空色に光る弧状にカットされたフルーツか飾られた飲み物だけだった。緊張とも動揺とも違う。まるで、手のひらの中に閉じ込められているような、息苦しさを忘れきれない感覚だった。
扉を開くと、ミカロは目を合わせたかと思えば、ふいっと頭をそっぽに向け、薄紅に染まった片頬を見せる。きっとどさくさに膝にダイブしたことを怒っているに違いない。けれど後悔はなかった。むしろ感謝したいほどに堪能で魅惑な世界だった。
「シオンさま?」
「いや、なんでもない。行こうか」
恐怖ではなかった。むしろ興奮を覚えていた。けれど足を踏み出そうとした瞬間、体中に押しつぶされるかのような圧を得た感覚にさせられた。我に返ったとき、目の前には不安そうに胸前に手を添え僕の目を見つめる彼女がいた。
そうですわね、とエイビスは何かを悟ったような表情を見せると、出口に歩き出した。ロビーに全員が集合すると、話をしていたみんなは口を閉じた。
「――つけてね」
「え?」
もにゃもにゃとした形の定まらない声に耳が捕らわれ、シオンはミカロに振り向いた。シャンデリアがさんさんと輝くロビーの中、彼女は光が消えるようにふっとまたネオンに輝くリゾートに視界を戻した。
「その、シオンはカッコいいことばかりしようとするから、心配なの! 無茶なことしても誰も助けてくれないんだからね!」
口を開いたかと思えば、水を得た魚のように留まることなく思ったままに、シオンの欠点とも言える事実をミカロは彼を指さし伝えた。が、シオンにとっては彼女の優しさに心を洗われていた。
「そうですね。気を付けます」
「約束だからね」
ふいとこちらを向き直し、ミカロはシオンの手を力強く握った。それに合わせ、僕もがしっと彼女の手を握る。稲妻が走るほどの衝撃ではなかったが、彼女の目が何を語りたいのかはわかった。僕にとって彼女が大切であるように、彼女が僕のことを気にかけてくれているということを。
ふっと彼女に笑みを送り、それに呼応するように彼女は満面のさんさんと光輝く太陽に似た笑顔を見せた。その顔に心残りの色は見えなかった。
「ようやく揃ったか」
やれやれといった表情で杖を突き、老人はこちらに姿を見せた。さきほどとは違い、こころなしか服もより一層くたびれたように体を床に吸い込まれるように張り付いていた。ふと背の空にある時計を振り向くと、彼はごほんと喉を鳴らした。
「時間は超過していませんよ。むしろ早いくらいでしょう?」
「枠に収まりきらないやつが嫌いなだけじゃ。何事もぴったりがいいんじゃよ」
「そうでしょうか。わたくしはむしろそれを幸運と考えますわ。水があふれるでしょうが、それだけ能力が優れている、ということですから」
僕は気絶していたあの時間を心から憎んだ。セインをつい最近まで思い出せなかった自分の情けなさと似ている。
肝が据わったようなエイビスの相手の知識を誘うかのような声。以前の彼女なら絶対に年長者に対してそんな言葉を使いはしなかった。むろんあえて言っている、老人が僕たちをからかっているのは承知の上だ。けれど、こころなしか、全員の姿が時を超えているようにも思えた。眼では決して見えない。けれど心がひそりと耳元に語る。『お前は弱い』と。
「大丈夫、シオン?」
ミカロの背からの声とともに、僕は妙で陳腐な考えを振り落とした。彼女は僕の謝罪の言葉を聞くと、僕のこの先を不安に思っているような悩ましい顔をしつつも、それを見逃すようにエイビスと老人の会話に加わった。一息つき、僕も加わると、彼は6つのチケットを見せた。僕たちにとってはデジャヴであり、本当の意味で新たな冒険を示してもいた。
「これが貴様らの道じゃ。それぞれに対して必要不可欠なものがこれには詰まっている。受け取れい!」
言葉を交わす間もなく、ナイフのように放たれた紙幣の形に似たチケットはミカロの身体に張り付き、彼女を光の粒に姿を変え、消えた。左にも右にも僕の仲間の姿はなかった。そして悟った。
「あの……僕は?」
「わしが基礎を教えてやる。残りは自分でなんとかせい」
「はい!」
あったのは虚しさよりも起死回生に似た強気だった。根拠なんてない。が、なぜだか力があふれるような感覚。悪くない。ここから僕たちはまた走り出すんだ。
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