第86話「夢浜への切符」
振り向いた瞬間、そこには冷たい風を危惧し、毛布を二重に巻き付けた、軽装のミカロがいた。小さくこくりとうなずくと、彼女は僕の隣にやってきた。
「もらうよ」
ミカロは気にしていない様子で、僕の飲み口に唇を合わせた。僕の体は氷のように固まったが、舌で唇に付いたココアを取り、僕にカップを戻した瞬間、暖かみと共に氷は姿を消した。
彼女は僕に気分を合わせてくれたのか、口を開かなかった。うれしく思った。だてに長い間チームを組んでいることはある。きっと彼女にもいろいろと葛藤があったんだろう。僕のものに似た、何かを。
彼女は僕にちらりと目をやると、仕方ないなぁ、という表情で毛布を僕の左肩に差し出した。僕は彼女に礼を言い、互いに座ったが、彼女からの返事はなかった。
「……ごめん」
「何が、ですか?」
「エイビス、最低だよね。シオンがセインさんに振られたって言うのに......けど私もそれを止められなかった。同罪だよ」
僕は彼女の肩に寄りかかった。いつもならパンチが飛んできてもおかしくなかった。けれど彼女はぴくっ、と身体を震わせただけで、抵抗も反撃もなかった。
確かにエイビスの行動は身勝手に見えた。自分の大切な人が傍にそのままいてくれる、きっとそれに対して彼女は喜びの表情を見せたのだろう。けれど、そんな風には見えなかった。
彼女は僕にサルシア・ルージュの紅茶を出してきた。あれは、彼女の前のパートナーと飲もうと約束して、果たされなかった、一杯で一カ月を生きるには不便しない額の紅茶だと聞いていた。
彼女が料理をする合間、その名前を見た瞬間、僕は彼女に言葉をかけたかったが、それがエイビスなりの励ましのような気がして、僕は言葉なくそれを受け取ることしかできなかった。それに今日は珍しく健康に悪い僕の大好きな料理を振るまってくれた。やっぱり僕は彼女に顔が上がらない。きっと僕があのときどんな感情にあったのか、あの時が止まった瞬間、読んでしまったに違いない。
ミカロは僕の予想を耳にすると、何度かうなずき、そっか、と口にすると、僕に首を傾けた。
「……シオンは強いね。私だったら、どうしてただろ」
「そんなことないですよ。だって、涙が止められないそうにないや......」
ぽろぽろと涙が顔から落ちてゆく。何の涙かわからなかった。セインに振られたことか? ミカロに迷惑をかけていることか? まだ誰も守れていないからか? それらを思うたび、目頭は熱をまとって雫をあふれさせた。
僕は誰かに背を押された。違った。ミカロは僕を自分に引き入れた。毛布を潜り抜け、彼女の元に僕の涙が注がれていく。けれどその勢いが留まることはなく、彼女の背中に手を回し、悲しみを放出させることしか僕にはできなかった。
「くっ......くそおおおおおお!」
大音響の一声からの静寂と共に、眉から涙が流れていたことに気づいた。彼女も涙を浮かべ、上から僕を臨んだ。
「シオンは一人じゃないよ。頼りないかもしれないけど、私もいるよ......」
僕たちは静寂の中、人のいないたった二人の世界で涙を流した。彼女はまるで自分の出来事のように、僕を力強く抱きしめ、かすれた声を上げた......
急に力が抜け、僕は彼女の膝に頭を乗せていた。彼女は何も言わず、頭を優しく撫でる。悪くない感触だった。彼女の頬に残った涙跡を指でふき取り、彼女に笑顔を送った。
「もう寝れそう?」
「……うん。ミカロのおかげだ。ありがとう」
その言葉を最後に、僕は暗礁の世界に身を置いた。その日は外にしてはほっこりと暖かい気がした。ありがとう、ミカロ。
「最後にこの書類にサインをお願いします」
「はい」
僕はミカロとエイビスとともに、正星議院へとやってきていた。目的は最後の修正だ。住所や貯金の移行。クエスターの正式な登録など、各書類は100を超えていた。僕はやっとのことで昼ごろ解放されると、エイビスは水を持ってきてくれた。それを一気飲みしても、右手の疲れは治らなかった。
ジークたちを倒してから、僕たちの人気にさらに拍車がかかった。中にはファンのようなものがいて、エイビスやミカロには食事の誘いがわんさか来ていたそうだ。そしてなぜか僕宛てにも届いていたとヒラユギが言っていた。けれどそれらしき伝達物は一つもなかった。きっとホテル側が荷物の多さに拒否してくれたのだろう。
二人はその誘いをすべて断り、今では念のため、ミカロはファイスという、エイビスには僕という相手がいることになっている。
そして、一番の問題は個人・ツーマンセルへの依頼が多発していることだった。おかげで僕たちが揃うことは少なく、見た目ではちぐはぐしているような状況だった。けれどそんなとき、僕たちはセレサリアさんからの招集を受けていた。
正星議院の議会室。ベージュ色の大理石が敷き詰められ、左右に配置された3人分の椅子、そして石で作られた黒色の大机。奥にある7つの金に縁どられた潔白の白色の席。その一席に彼は腰掛けていた。
「よく来たね諸君。最近は人気に拍車がかかっているようだね」
「はい、けれどチームとして動きにくくなってしまいましたわ」
エイビスは愛想よく、セレサリアに賛成の言葉を返した。けれど今回の件は彼にも非があった。彼のおかげで本来書くはずであった書類の十分の一程度で済んだが、その恩返しのため、彼はよくクエストに僕たちを推薦していた。確かに貯金は増えたが、寝る暇もなくクエストに追われていたのも事実だった。
よくあるブラッククエスターというやつだ。リラーシアのいたときは彼女が警戒線を強化して見張っていた。それがない今、クエスターにも闇が深まりつつある。とシェトランテは告げていた。確かに彼女の言う通りだった。
セレサリアは僕たちの元へと降り立ち、エイビスに封筒を託した。彼女はそれを開くと、そこには7枚のチケットがあった。
「君たちは、前に正星議院の崩壊、そして創造の一族を守ってくれたことがあっただろう? さすがにそれに対して何の礼もないのは野暮だと思ってね。君たちのためにリゾートを用意させてもらったよ」
サルデウス・パール。チケットの内容を見た瞬間、エイビスやミカロ、ヒラユギは目を輝かせ、驚きと共に感謝を告げた。その名前を聞けば、振り向かないものはいない。最上級のサービスに娯楽、そして何より長年永遠と続いている暖かい気候。誰もが住みたいと思うものの、懐のチャックを寂しく閉じるのが常だった。
「本当によろしいのですか?」
「ああ。これは彼女たちからの礼でもある。今度シェトランテさんたちにも感謝を述べておくといい。それでは、僕はこれで」
「ありがとうございます!」
セレサリアは去り際ににこりと笑顔を見せ、廊下の道へと歩いていった。その瞬間、エイビスはいつもと違い、落ち着きなく僕の腕に飛び込んできた。
「シオンさま! 水着を買いに参りましょう! 出発は明日ですので!」
「明日!? 急ぐしかないですね!」
ファイスたちも状況がうまくのみこめなかったが、準備をしないわけにもいかず、僕たちは明日への投資に駆け出した。けれど、ひとつだけ浮かんだ疑問を見逃すことはできなかった。
辺り構わず世界を照らす太陽。透き通りライトグリーンに輝く海。パラソルを立て、優雅にジュースを口にする。僕たちはバカンスに来ていた。
「行くよー! それっ!」
「負けませんわ! いきますわよヒラユギさん!」
「うむ!」
本来なら同性に見せるのが限界なはずの、へそ周りや肩をさらけ出し、泳ぐための恰好になった彼女たちは、ビーチバレーで休日を満喫していた。一回だけ参加したけれど、あれが意外にも相手の陣地に飛ばすのが難しい。僕は近辺のニュースを読み漁り、生意気にも休暇を無視していた。
けれどそれは僕だけではなかった。ファイスやナクルスは肉体強化の鍛錬をしているし、フォメアも同様に冷静な判断力を得るため、カジノに赴いている。僕も修行を、と思ったのだが、彼女たちへの恩返しにガードマンを引き受けた。
けれど素直に笑顔の彼女たちを見ることができたのはうれしかった。後でシェトランテさんたちにお土産を買っておこう。
ひとしきり、といってもワンセットが終わると彼女たちは僕の元を訪れ、各々ドリンクを手に取った。僕は彼女たちの水着姿に視線をそらした。が、エイビスはどうぞみてくださいまし、といわんばかりに逸らした目線に入ってきた。平和をかみしめる一方だ。
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