第82話「俺の希望」
エイビスはいつもより半分、いやそれ以上の時間でシオンの元に戻ってきた。けれどここだけは譲れなかったのか、彼女の髪に滴りやクセのついた様子はなかった。
「申し訳ありませんシオンさま。ご不便はございませんでしたか?」
まるで俺がエイビスを雇っているかのような彼女の話しぶり。否定を試みようと考えたが、何度も彼女に丸め込まれていることを思い出し、あえて否定の口を開かなかった。
「あ、ああ。でも、エイビスの淹れた紅茶の方がやっぱり美味いな」
彼女はその言葉を聞くと、今回の紅茶:マリーオレンジのような橙色に頬を染め、静かに俺の淹れた紅茶を含んだ。彼女の眉に力が入ることなく、彼女は飲んで見せた。さすが俺の一歩先を進んでいるだけある、と負けを感じたような気がした。
「そうですか。それでは今度お教えいたしますわ。紅茶は心を映すともいいますから」
彼女はにこっと笑顔を浮かべ、俺の並べたクッキーを口にした。心を映す、か。きっと俺の心はよほど濁っているのだろう。それくらい苦く、葛藤を繰り返し、答えを見つけられていないような味だった。
彼女は最後のクッキーを手に取り、俺の手が動いていないことに気が付くと、彼女はそれを差し出した。俺は手を振り断りたかったが、彼女の上目遣いにやられ、気が付けば彼女の手から受け取ってしまっていた。
彼女は空を仰ぐように周囲を見上げ、口を開いた。
「それにしても懐かしいですわね。まるで13年前のあのときのようですわ」
「……すまん、それなんだが......」
俺が彼女を救った。にわかには信じがたいが、歩みを共にしているだけあり、納得せずにはいられなかった。けれどいくら思い返しても、はっきりと信じられるものは何もなかった。あったのは“エイビス”ただ1つ。
彼女に伝えるべきか迷ったが、自分をうやむやにするのはもう終いにしたかった。
「あまり覚えていないんだ。キミを救ったのかどうか。だから、あまり気にしないでくれ。無理に取り繕う必要もない。エイビスはエイビスであるべきなんだ。わざわざ俺に......」
止めどなく出てくることためらいもしない彼女への苦言を、左手の妙な暖かさが遮断した。そこには彼女がまるで卵を温めるように両手で包む彼女の姿があった。
「例え本当のシオンさまに記憶がなくとも、わたくしはそのおかげで、今こうしてシオンさまをお救いすることができたのです。確かに周りから見れば、わたくしのしていることは仲間とは言えないでしょう。けれど......」
エイビスは胸元に手を当て、暖かみの感触を再度確認し、口を開いた。
「わたくしはそれで満足なのです。こうしてシオンさまのお傍にいられるだけで」
彼女は椅子を飛び出し、もたれかかるように僕の足に倒れかかった。とっさに彼女を支えると、彼女は僕を一心に見つめていた。
「シオンさま……」
喉を通る唾の勢いと共に、シオンは自分を取り戻した。彼女の肩を強く握り、彼女の顔が迫るのを拒んだ。彼女は困ったといわんばかりに首を傾げた。
そうだ。俺たちは付き合っているんだ。まぎれもなく、自分の言葉で彼女に頼んだ。けれど言葉は進軍を諦めなかった。
「想い人がいるんだ。こんなことになって、すまない」
「……」
彼女からの返事はない。当然だ。自分で頼んでおきながら、それを断るなど正気ではない。俺は彼女の剣ですら受け入れる覚悟だった。彼女の気が晴れるのなら、なんでもよかった。
けれど俺の予想を越え、彼女は静寂を貫いた。そして、ふっと彼女はするりと俺の手を話した。そして空間を切り裂く寝息の音。シオンは椅子にもたれかからずにはいられなかった。
やはり彼女は素晴らしい、の一言だった。あらゆる点で俺を超えている。やれやれとため息をつき、シオンはエイビスを自分のベッドへと連れて行き、テーブルの椅子を向かい合わせにし、ヒラユギ用の小さな毛布に包まり、暗黒を迎えた。
★★☆
目を覚ましたとき、俺は白い天井を見ていた。じりりりりとけたたましく鳴り響く電話に飛び起こされ、最悪の朝を迎えていた。
「申し訳ありませんシオンさま。いつの間にか眠ってしまっていたようで......」
エイビスは俺が起きるなり、紅茶を差し出し、体調を確認しに来た。ミカロは少し時代を感じさせる黒電話を手に、誰かと話をしている。彼女の知り合いだったのか。
この部屋に直接来なかっただけ、まだましか。もし報告でもされたらリラーシアがやってきそうだ。……悪い冗談がまた出てしまった。
「わかりました。それじゃあ30分後にまた」
ミカロは受話器を優しく元の位置に降ろすと、いつになく珍しい桃色のミニスカートの腰に手を置き、自信ありげのピンと張り詰めた目でシオンを指さした。
「ロビーにお客さんだって。早く言ってあげなよ」
「俺の、か?」
「ほかに誰がいるっていうの? エイビスのせいで疲れてるかもしれないけど、早く済ませてきてね」
「あ、ああ......」
シオンは考えがまとまらず、その場で呆然としていた。が、エイビスが服を持ってくるのと同時に我に返り、急いで支度を済ませると、3人は手を振ってシオンを見送った。
シオンは頭の中に一抹の不安があった。エイビスが今の電話にまるで無頓着だったことだ。よっぽど自分に自信があるのか、それとも安全な人物だとわかりきっているのか。
どちらなのか考えがまとまることなく、彼は誰かを待っているように見えた、コーヒーを片手に空を眺める女性を見つけた。
衝撃的だった。今さっきまで忘れていたものを思い出したときの感覚に似ている。さっきまで届かなかったはずなのに、今は確かに分かる。一歩踏み出せば、手に入れられると。
シオンはクセ1つない、丁寧に整えられ、衰えの見えないすらりと長い金髪の女性の背中にたどり着いた。鼓動は高鳴り、手足にぎこちなさを感じた。花でも買ってくるべきか。いやいらないか、などと無駄な考えが頭を支配した。
「セイン、なのか?」
「その様子だと、本当に記憶が戻ったみたいだね。シオン君」
セインは振り向かなかった。けれど小刻みに体を震わせ、ぽとりと雨粒が彼女の机に姿を現した瞬間、シオンは彼女への手を止めた。
彼女は白いハンカチを取り出し、顔を拭く仕草をすると、僕に顔を見せた。ふっくらとしたゆで卵のような顔。白く透き通った美しい今も変わらない肌。風の波にもまれる腰まで届く、長くすらりとした金髪。昔遊んだ森を思わせるようなすっきりと気分を落ち着かせるようなライトグリーンの目。小さくまとまった鼻。そして赤の彩りを見せるこれまた小さい口。唯一変わっていたのは、彼女の耳に引っかき傷がついていたことだけだった。
「シオン君!」
セインはシオンの感想を聞くよりも早く、彼の胸に飛び込んだ。シオンは彼女に両手を差し出し、時を越えた彼女との再会を受け入れた。彼女の勢いは彼の防御を貫き、彼は地面に背中から倒れた。
けれどシオンには彼女から受けた衝撃よりも、彼女が今目の前にいることの感動が身体を貫いていた。彼女の目に宿る光の結晶に、シオンも光の結晶を輝かせていた。
そしてホテルの天井を見上げたとき、シオンの目には大理石ではなく、桃色の不思議な模様があるカーテンが現れた。首を傾げると、グラグラと壁が揺れ、体が持ちあがり、さっきとは比べものにならない衝撃が顔を襲った。
「このヘンタイーっ!」
シオンは白い洋風の机に吹き飛ばされ、悲鳴が舞った。僕の顔にコーヒーが飛びかかり、周囲の視線を釘づけにした。鮮明になった視線の先にいたのは、スカートの先を必要以上に手で強く抑える顔を真っ赤にしたミカロと俺を庇護してくれるように、駆け寄って来るエイビスの姿だった。
何を怒っているんだ? セインと公衆の面前で抱きあったことか? それとも彼女を傷つける......カーテンが1つの事実へと結びついた。あれは彼女の......考えた瞬間、俺は彼女から目を逸らした。
ミカロは彼が事実を得たことを確認してか、彼女は周囲から辱めを受けているような気分にさせられていた。
やれやれ、といった表情でセインはミカロの空いている右手を握り、彼女を護るように肩を寄せた。そして不安で小刻みに震えを見せる彼女の頭を優しく撫でる。
「よしよし~。もうシオン君ダメだよ! 女性の心はガラスみたいに繊細なんだから」
「ぬぐぅ......」
セインは理不尽な言葉をシオンに浴びせ、気持ちの収まらないミカロは素直に彼女の厚意に甘え、まるで子供のように彼女の袖を必死に掴んでいた。
俺は内容を正したいところだったが、大衆を見てそれを拒絶した。この人数なら確実に負ける。女性はいつでも被害者として優遇され過ぎだ、と思いつく文句を必死に押し殺した。
「大丈夫ですかシオンさま?」
「心配いらない。星を使っていたわけでもないしな」
エイビスが背中に手を回すと同時に、シオンはその場に立ち上がり、彼女たちに場所を移すよう合図を送った。セインはミカロと顔を合わせ、彼女からの頷きの返事を受け取ると、彼らはロビーから姿を消した。
集中を促す青色のカーペットが敷かれた壁。モコモコと優しい肌触りな綿の集団に似た床を足場に、桃色の少し座っているには硬いソファーに、汚れ一つ見当たらない真っ白で肘置きにぴったりな机。壁に取り付けられたシオンたちよりも大きなホワイトボード。セインは詳しい話を3人とするためにも、彼らが考えるより早く個室を借りていた。
部屋に入るとすぐ、さっきの事故の究明が始まった。セインは両手をついて謝り、ミカロは顔を赤らめてシオンに謝罪した。シオンとしては忘れるべきだったのだろうが、残念ながら今でも模様が思い浮かんでしまい、彼女と目を合わせられなくなっていた。
エイビスはミカロを責めようと考えたが、セインのこほん、という柔らかい咳払いと共に、部屋は静寂に包まれる。それが気持ち良かったのか、彼女は半目を開き、にこりと笑顔を見せた。
「それじゃあ私のことを紹介してくれるかな、シオン君?」
「俺が言うのか?」
客人でありながら堂々と自らが招き入れたかのように振るまう彼女の姿に、シオンはやれやれと思いつつも、彼女について紹介した。
ミカロとエイビスにあった疑問は名前だった。
「彼女はセイン・カルトレット。俺の小さい頃の幼馴染だ。とはいえ、10年以上会えていなかったがな」
「アレ?」
ミカロは頭を傾け、何か腑に落ちない顔をしていた。エイビスはそんな彼女とは違い、疑問を口にした。
「伝言の際には、Shineさんとなっていたのですが、あれは一体?」
「ハンドルネームだよ。残念ながら、シオン君が付けてくれたものじゃないけどね」
「あだ名がほしかったのか?」
「んーどうかな」
ハンドルネーム。シオンが使ったことはないが、命が狙われることのないように、わざと名前とは関係ないものを呼称とすることで、自分の居場所を特定されないように使われているものだ。
けれどそれが腑に落ちない。追われているのなら、正星議院が対策してくれる。もしそれと関わりを持ちたくないのだとすれば......野暮なことは考えても無駄か。セインがどんな人物なのかは、自分が一番わかっているはずだ。
セインは口元に人差し指を当て、何かを思い浮かべるような表情を取ると、やっぱりいいや、とシオンの好意をあえてぐさりとたたき斬った。
注文していた各々の飲み物を口に交わし、ミカロが口を開く。
「そういえば、シオンの探していた人って確か金髪、だよね?」
「ああ。そしてセインこそが、例え記憶をなくしたとしても、俺を照らし続けてくれていた希望だ」
自分の胸に手を当て、鼓動を捉えた。今も俺は生きている。セインはまたしても俺に抱き着き、ミカロとエイビスはそれを呆然と見ていることしかできなかった。
「私のおかげじゃないよ。きっとシオン君が私と世界を結び付けてくれたんだと思う。だから君にはとっても素敵な仲間がいるんだよ」
彼女の暖かみを得ながら、ミカロとエイビスの顔を見た。素直でない恥ずかし気にこちらから目を逸らすミカロ。目が合うなりとびきりの笑顔をこちらに向けるエイビス。ふっと体から力が抜けたような気がした。
そのとき、何かが思い浮かんだようにエイビスは人差し指を空に向けた。
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