第81話「俺」
★☆☆
――両手に包帯を施した緑髪。1枚の布を巻きほかには何も見に付けず僕の元へと賭け寄ってきた。シャンプーの華やかな香り、水滴が彼女の胸元に流れてゆく。僕は彼女の姿をすべて見てから目を逸らした。
「シオンさま、お目覚めになったのですね!」
彼女はいきなり僕に抱き着いた。何があったのか教えてほしいところだったけれど、唯一の布を気にせず飛び込む彼女に僕は彼女の布を押さえ彼女の体を隠すことしかできなかった。
柔らかく僕にはない胸の感触が伝わって来る。しっとりとしていて瑞々しい姿に僕の心は高揚を抑えられなかった。
☆★★
シオンさまの傷はそれなりにひどいものでしたが、彼の体を清めないことには治るものも治りません。わたくしはシオンさまを半ば強引にお風呂へとお連れし、彼を洗うことにいたしました。
恋人同士でお風呂に入れるなんてこんなにうれしいことはございません。今日はミカロもおそらく起きないでしょうし、もしかしなくとも本日のことは覚えていない。わたくしの口にすべきことばではありませんわね。
「シオンさま、痛いところがあったら言ってくださいませ。わたくしも慎重を期しますが、万が一のこともありますので」
わたくしが泡を彼に付けようとした瞬間、わたくしの背中から刃が突き付けられました。そしてそれは忘れることもできない、シオンさまのものでした。案の定、というべきでしょうか。彼の姿は消えていらっしゃいました。
「ここはどこだ? どうして俺はここにいる?」
いつものシオンさまよりも低く暗く冷静な背中からの声。わたくしはそれを無視しいつものように明るく楽しい会話を続けてまいります。今度のシオンさまは本物でいらっしゃる。わたくしの直感がそう言っていました。
「憶えていらっしゃらないのですか? シオンさまはわたくしの恋人ではありませんか。本日はさまざまなことに悩まされました。シオンさまにわかるよう1つ1つ説明させていただきますので、お待ちいただけますか?」
「わかった。けれど変なことはこれきりだ」
「かしこまりました」
シオンさまは泡をお流しになり着替えを終えると、わたくしもバスローブに着替え彼と共に青月を飲むことにいたしました。
彼はどうやら記憶喪失であることすらもお忘れになっているようでしたので、わたくしはそのころのシオンさまをミカロから聞いた話を元に説明し、今に至るまでの出来事をお話いたしました。
その間にシオンさまはうなずいたり質問をなさったりする程度で、そこには大人な男性としての印象をお受けいたしました。そして何よりわたくしにとっては彼に感謝を述べたいほど、今回の出来事に感激していました。
そして今回の出来事に至るまでを説明し終えると、彼は紅茶を飲み終えわたくしの顔を見て首を傾げました。
「おかわりですか?」
「いや、俺の記憶に間違いがなければ、君は前にお皿を割っていたはずだろう?」
わたくしは恥ずかしくも感激がわたくしの限界値を超えてしまい、シオンさまの前で涙が止められませんでした、目の前は美しい光に覆われわたくしは彼から顔を隠すことしかできませんでした。
「お久しゅうございます。あの時の恩をわたくしは感謝してもしきれません......」
「ちょちょっ、泣くな! これ貸すからなんとかして止めてくれ」
彼はわたくしにハンカチを貸してくださり、わたくしは体中の水を流し切ったような気分になってしまいました。彼はその間、困惑顔でわたくしを見つめてくださいました。
そしてその瞬間、わたくしは確信いたしました。ここにいるのは本当の、本来わたくしの目の前にいるべき、わたくしの大恩人シオン・ユズキさまであるのだと。
「シオンさまぁ~!」
「だから泣くなっていってんだろ! もう俺は寝るからな」
彼は怒ったように寝台の中に隠れてしまいました。けれどわたくしはそうは思いませんでした。わたくしのこの止まらぬ感動を押さえるために席を外してくださったのだとわたくしは知っていますよ。
これで心置きなくわたくしはシオンさまの隣にいることを誓うことができます。例えどんな障害があろうともわたくしはやり遂げて見せます。目の感謝感激を取り払いわたくしはそう思いました。
☆☆☆
――髪や顔を整え終わった緑髪の女性が俺に抱き着く。毎度毎度これをやらされていると思うと気分が落ち着かない。そしておまけに上からの目線では彼女の上胸がはっきりと見える。目を逸らさずにはいられない。
「おはようございますシオンさま。よくお眠りになられましたか?」
「あ、ああ。悪くない眠りだった」
ボサボサの髪を触り彼女にどいてもらうよう流れを促す。彼女はそれを理解したようだが、その道を銀髪の女性が邪魔をした。
「エイビス! シオンに抱き着くなっていつも言ってんでしょうが!」
「構いませんもの。わたくしはシオンさまの彼女ですわよ? お付き合いしている者同士が肩身寄せ合い、抱きしめあっていることに何か問題があるのですか?」
「それは確かに、おかしくはないけど」
彼女が食い下がった瞬間俺は洗面所へと歩き出した。正直なんの話かさっぱりだが、俺には疑問が消えていなかった。
それ以前に緑髪の女性、エイビスには後ろめたい気持ちがあった。彼女と知り合ったのは5歳のころだったから、かれこれ10年以上俺がその出来事を思い出すのを待っていたことになる。そしてそれを発言した途端にあの号泣。
とてもじゃないがこちらの気が引けてしまう。俺の罪の大きさは嫌でも理解できる。彼女とは距離を考えるべきだと思いたいが、残念ながら今の彼女にはそうさせてくれる気はないらしい。仕方がないからできるだけ削げるよう動くとしよう。
柔らかな布の感触。久しぶりだな。ここまで平和に隠された場所を見るのは。
「気分はどうシオン? もし悪いんだったら何か用意しようか?」
俺は彼女を自分の胸に引き入れた。できることならこうしていたい。今のこの状況なくして俺はここにはいない。
「こんな言葉でよいとは思っていないが、とりあえず言わせてくれ。ありがとう。お前がいなければ事態はもっと最悪だった。記憶のない俺を引き留めてくれてありがとう」
「ちょっ、バカ。そんなこと言う必要なんてないよ。私もシオンにはいっぱい助けられたもん。今のシオンは覚えていないかもしれないけどさ」
彼女を救った感触を俺は知らない。けれど彼女の目から冷たさを感じたとき、俺は彼女から離れるわけにはいかなくなった。
背中に2つの柔らかい感触。背中をエイビスに取られた。そんな状況の中、紫髪の女の子が口を開いた。
「イチャついておる暇などないぞよ! 今日はクエストじゃ! 当然みなが参加のな」
「え~……」
彼女たちはまだ休みたい表情を取ったが、今日ばかりは仕方がない。俺たちは準備を再開し、着替えを済ませ4人と合流した。
4人? おかしいな。エイビスに聞いたはずだと行方不明のファイスと現在活動中のフォメアとナクルスしかいないはず。誰か新たに加入したのか?
けれどもそんなことは気にしなかった。仲間が多いのは悪いことではない。8人でクエストに挑み、そして夜には俺のための宴が始まった。
数々の食べきれないほどの料理に飲み物。時間はあっという間に過ぎた。
「シオンは飲まないのか?」
「まだ飲めない、というのが正解だな。何度か飲んだことはあるが、判断が鈍るんだ。せっかくまともになれたんだ。わざわざそれを壊すなんて失礼だろ?」
ナクルスは杯をたたきつけるがのごとく机に勢いを乗せて降ろし、新たな酒を注ぎながら、口を開いた。
「一理ある。だがいつまでも簡単に飲めるわけではない。後悔はするなよ」
「ああ。もう勘弁したいところだ」
ナクルスと拳を合わせ、友人の証を確かめると、彼はまた酒を一気飲みした。その力はいつもより強く、加減を知らなかった。
「そうだよー、シオンも飲もうよー。百薬の長なんだよー?」
「そ、そうですわぁ! さすがミカロぉ! シオンさま、さ、飲んでくださいまし!」
シオンは酒を飲んでいたわけでもないのに、目が安定せず、頬が紅に染まったミカロとエイビスを目前に、酔いが醒めたような感覚にさせられた。
右を見ると、ナクルスも同じような感覚に浸っているように、目を点にしていた。
まさか、二人とも......
その答えを考えるまでもなく、彼女たちはシオンに赤い杯を差し出した。
「シオンさまー」
「シ・オ・ン?」
二人は自分たちがどう見られているのか、気にすることもなく、服をはだけさせ、シオンにたっぷり入った溢れだすほどの酒を差しだしていた。
シオンは両手で拒みを見せるが、彼女たちはふてくされた顔を見せつつも、自らの服を広げた。
「ここからなら飲んでくれるかな?」
「きっとお飲みになってくれますわ!」
「何をやっとる馬鹿者!」
彼女が胸元を広げるのと同時に、紫髪の彼女はミカロとエイビスの首筋を容赦なくたたき、机にたたきつけた。彼女たちは持っていた杯をぶちまけ、スイッチが切れたロボットのように動きを見せなかった。
そして、一番安堵したのは、ヒラユギの顔が赤くなかったという事実だった。
「まさかとは思うが、シオンが飲ませたのでは?」
「いや、それは違う。シオンは俺と話をしていた。そんな器用なことができたとは考えずらい」
うんうん、と隣の男も頷き、俺もひとつうなずくと、彼女は僕らに背を向け、金を置いて外へと出た。安堵と同時に自分の名を呼ぶミカロとエイビスに、僕は背筋に寒気を感じた。
「仕方あるまい、シオン、二人を部屋まで運んでくれ。勘定の残りは俺とアンティリウスが引き受ける」
「げっ、足りるかな......」
「ファイス、シオンを手伝ってもらえるか? さすがに二人を持ち上げるのは厳しいところがあるだろう」
カウンター席でフォメアと話をしていたファイスはこちらを見て、不機嫌そうな顔を浮かべると、俺は二人を腹から持ち上げ、入り口まで真っすぐ歩いていった。
ナクルスの言葉も聞かず、俺はヒラユギと共に店を出た。病み上がりに近いものとはいえ、俺を甘んじているところが納得いかなかった。本当なら口論の一つでもするところだったが、それで二人が起きてしまっては、何が起こるかわかったものではなかった。
とはいえ、二人は思っていたよりも俺にとって重荷であり、できることなら起こしてしまいたかった。けれど恩人としてうれしくない目覚めをする気にはなれなかった。
「シオン~......」
全員を寝かせ1人でエイビスの紅茶を堪能し始めた瞬間、またミカロの声が俺の背筋を這い回った。彼女が寝ていることを目視すると、俺は夜空を背景に酒を含んだ。
本当なら誰かと話をしながら、といいたいところだったが、二人はベッドに寝かせたとたん、寝入ってしまった。ヒラユギにそんな重荷を着せるわけにもいかず、一人寂しく静かに紅茶を口にする。
記憶は元に戻った。親の名も今では金髪の女性が誰なのかも理解している。けれどこの状況に今更の後悔を感じていた。彼女たちが俺の正体を知ったとき果たして怒るだろうか。それとも賛成してくれるだろうか。ふと不安が思い浮かぶ。
俺はひとしきり紅茶を飲み終え、自分の布団を開いた瞬間、緑髪の彼女がほほ笑んだのを見逃せなかった。彼女はどんなときでも俺の一歩先を歩いていた。
彼女はそそくさと立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありませんシオンさま。ミカロが謝ってお酒を飲んでしまったようで......」
「気にしてはいないさ。それより、体調は万全か?」
「ええ。問題ありませんわ。とはいえお酒を飲まされてからはあまり覚えていないのですが......」
エイビスは申し訳なさそうに、ぎこちなくすらりとした両肩をぎゅっと寄せ合わせ、シオンの返事を待った。シオンはそんな彼女を見る気になれず、そっぽを向いた。
「シオンさまはもうお飲みになられているのですか?」
「今日はパスした。何が正しいのか、わからなくなりそうだからな」
「そうですか。シオンさま、昔の話に付きあっていただいても、よろしいでしょうか?」
エイビスは上目遣いでシオンの袖をきゅっと優しく握り、シオンの頷きを懇願した。シオンはさっきの酒場での出来事を思い出し、そっぽを向いたままではあったが、こくりとイエスの返事をした。
「だが、まずエイビスは先に風呂に入ることを勧める。まだ酒気が残っているかもしれないからな」
「そうですわね。わかりました。それではシオンさまは紅茶を飲んでお待ちくださいませ。確かここに......」
エイビスはいつになってもシオンに面倒をかけたくないのか、自分でポットを沸かし、お菓子の類を用意しようと動き始めた。けれどシオンは彼女の手を掴み、彼女の行動を優先させた。
エイビスは少し申し訳なさそうに礼をすると、とぼとぼ風呂へと歩いていったが、シオンは後悔していなかった。けれど紅茶の苦みを得た瞬間、自分の行いに少しだけ反省した。無理はするものじゃないと。
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