中編
昨日撮った広瀬くんのマンションの写真を彩華に見せた。彩華はぽかんとした顔をしたあと「愛菜ちゃん、すごいね」と感心したように言った。
「彼女いるかどうかも、わかったら教えるから」
「あ、ありがとう」
彩華がちょっと苦笑いする。
あ、もしかして引いた? こんな私のこと。
「あ、あのっ、私、彩華が彼と上手くいったらいいなぁって思って……彩華が嫌だったらやめるけど」
彩華はじっと私の顔を見つめる。私は女で、そんな趣味はないけれど、彩華に見つめられると、なんだかすごくドキドキしてしまう。
それほど彩華は可愛いんだ。
「愛菜ちゃん……」
「は、はい」
彩華がぎゅっと私の両手を握りしめる。
「愛菜ちゃん優しい。ありがとう」
ふんわりと彩華が笑顔を見せる。私は少しだけ胸が痛くなる。
彩華のことは好きだ。ずっと小さい頃からの友達だし、いい子だし。
だけどどうしてだろう。中二の時、彩華が引っ越しをする日。
愛菜ちゃんと離れるのが寂しいと泣いた彩華の前で、私は泣けなかった。
私は彩華と離れられることに、少しほっとしていたんだ。
これでもう、彩華の引き立て役にならなくて済むって思ったから。
だけどそんなことを思った自分が恥ずかしくて、情けなくて、嫌いになった。ずっとずっとそのことが胸の奥に引っかかっていた。
放課後。四組の前の廊下で、さりげなく広瀬くんを待った。少しすると、男子四人でふざけ合うようにしながら、広瀬くんが教室の中から出てきた。
私はそのあとを追いかける。今日は男子と一緒に帰るみたいだ。
「昨日田中が、後輩に告られたって話聞いた?」
「えっ、マジで? 誰よ」
「テニス部の一年。ユミちゃんって子」
「あっ、知ってる! あのポニーテールの子だろ!」
「で、田中何て答えたの?」
「それが断ったらしい」
「は? あいつ何様のつもり?」
「俺だったら絶対付き合う」
「お前、女なら誰でもいいんだろー」
あははと声を上げて笑う男子たちは、どうやら田中って子の恋愛話に夢中のようだ。声がデカいから、少し離れていてもその内容まで聞こえてしまう。
そんな中、広瀬くんは特に会話に入ることもなく、でもうんうんと頷きながら、にこにこと笑っていた。
リレーの時はグイグイ攻めてたけど、普段は控え目な人なのかもしれない。
「あ、でもさ。広瀬もこの前告られてたじゃん? 三年の先輩に」
私はドキッとしてさらに聞き耳を立てる。広瀬くんの後ろを歩く男子の横幅が広くて、肝心な彼の姿がよく見えない。
「おい、マジかよー?」
「体育祭で広瀬のこと見て、いいなぁって思ったんだってさ」
うそ、マジで? 私たちより速攻で告白した女がいたっていうの? これは、こんなことしている場合ではないんじゃ……。
「で、広瀬、どうなったの?」
「うん?」
広瀬くんが周りのみんなを見る。みんなも広瀬くんに注目する。そして私も大注目する。
「付き合わないよ。だって知らない人だし」
「はー? 付き合えよ。付き合っちゃえばいいんだよ!」
「お前、彼女いないんだしさぁ」
いないんだ。彼女。それに断ったんだ。その告白。
「んー、だって好きでもない人と付き合ったってしょうがないじゃん」
「あー、もったいねー」
「お前そういうこと言ってるから、彼女できねーんだよ」
友達の言葉に広瀬くんが笑う。そして急に立ち止まったかと思ったら、突然振り向いた。
えっ、なんで!
興奮していた私は、広瀬くんたちのすぐ後ろにいた。振り返った広瀬くんとばっちり目が合う。
「…………」
長いような短いような不思議な沈黙のあと、私は何事もなかったように通り過ぎた。ただの通りすがりの女子高生のふりをして。
ああ、危なかった。これじゃ、ストーカー失格。接近しすぎだよ、私。
でも広瀬くん……彼女いないんだ。
コンビニの前で立ち止まり、小さく息を吐く。
よかった。
「だからね。彼とはゆっくり友達になっていったらいいと思うの」
次の日、私は彩華にそう伝えた。知らない人とは付き合わない広瀬くんだから、まずは友達になったほうがいい。
「うん……そうだね」
彩華はちょっと恥ずかしそうにそう言った。
「できそう? 彩華」
「うーん……」
彩華と仲良くなりたくない男子なんているわけがない。その上、彩華に想われてて、告白なんてされちゃったら、断る男子なんているわけがない。そうきっと、広瀬くんだって。
「今度一緒に話しかけてみる?」
私が言うと、彩華は少し考えてから、にこっと笑って言った。
「大丈夫。ひとりで話しかけられる」
けっこう勇気あるんだな、彩華。私は無理。こっそりあとをつけるだけで、精一杯だ。
彩華の笑顔を見ながら、私は広瀬くんに話しかける彩華の姿を想像した。そうしたら、ちょっと胸がもやもやした。
それからテスト期間に入って、しばらく私はそれどころじゃなくなっていた。
でもテストが終わったら、また広瀬くんのことを考え始めた。
広瀬くんの姿は一週間見ていない。会いたいなって思った。
だからその日も彩華と別れて、こっそり四組の教室をのぞきに行った。これは彩華のため、彩華のためだと、誰にでもなく言い訳しながら。
だけどそこに広瀬くんの姿はなくて……私はひとり寂しく校舎を出た。
――明日の放課後、アイス屋さん行かない?
歩きながら彩華からのメッセージを確認する。だけどそれに返事をせず、私はスマホをしまった。
なんとなく家に帰る気になれなかった。私は駅を通り過ぎ、踏切を渡って真っ直ぐ歩く。
この道は、広瀬くんのマンションへと続く道。私はぼんやりと考える。
彩華が広瀬くんに話しかけたら。彩華が広瀬くんの友達になったら。彩華が広瀬くんの彼女になったら。
それでも私はいつもみたいに、彩華の隣で笑っていられるんだろうか。
なんだかわからないけど、涙が出た。へんなの。何泣いてるんだろう、私。意味がわからない。
ミャー
小さな鳴き声が聞こえて立ち止まる。ここはこの前、広瀬くんがしゃがみこんでいた場所。そして私は生垣の下に、あの時の茶トラにゃんこを見つけた。
「ああっ、カワイイ!」
広瀬くんと同じようにしゃがみ込む。胸に通学バッグを抱えて、のぞきこむように生垣の下を見る。猫はもう一回、小さい声でミャーっと鳴いた。
やだもう、カワイイ! 連れて帰りたいよぉ。そんなことを思った私の背中に声がかかる。
「そいつ、なかなかそこから出てきてくれないんだ」
「うん、そうみたいだね」
思わず答えてしまってから、ハッとした。顔を向けると、隣にしゃがみ込む人の姿が目に飛び込んだ。
「おいで。ほら。こっち、こっち」
その声に私は大きく体を動かし、バランスが崩れ、アスファルトの上にしりもちをついた。
「あ、わ、あのっ……ひ、広瀬くんっ」
隣にしゃがみこんでいる広瀬くんが、私のことを見る。
「俺の名前、知ってるの?」
「あ、いや、あの……」
落ち着け、落ち着け、私。
立ち上がろうとしているのに、体が固まって動けない。だって不意打ちだ。いつの間にかこんなところに、広瀬くんがいるなんて。
「どうしたの?」
広瀬くんの声が耳に聞こえる。
「泣いてたの?」
私は慌てて目をこする。
「ね、猫アレルギーなんです」
そう言った私の顔を、広瀬くんがじっと見ている。心臓がバクバク鳴って、耳まで赤くなっていくのがわかる。
「林、愛菜さん……でしょ?」
「えっ」
突然名前を言われて声も出ない。どうして広瀬くんが私の名前を知ってるの?
広瀬くんは照れたように笑って、私から視線をそらす。
私はしばらくぼうっとしていた。広瀬くんも私の隣にしゃがみこんだまま、黙っていた。
猫が小さく鳴いて、生垣の中に入ってしまった。
「最近……俺のあとつけてるよね?」
心臓がドキンとする。逃げ出したいのに、体が動かない。
「なんで?」
「それは、あのっ……私の友達が、広瀬くんのこと、いいなって言ってて、それで……」
広瀬くんが私を見た。近い。もう耐えられない。早くこの場所から逃げ出したい。
「ひ、広瀬くんは……好きな人とか、いるんですか!」
じっと私のことを見つめていた広瀬くんが、静かにつぶやいた。
「うん。いる」