ボクとSTAP細胞とナメクジ
古びた事務所を出ると雨がふっていた。
100均で買ったビニール傘越しに黒々とした雲を見上げる。
「これは、きついな……」
重い足取りで駅へと向かう。
帰路につくスーツの男たちが次々とボクを追い越していった。
「きつい……」
同じ言葉を繰り返す。
壊れたレコードのような毎日を送っていた。
《14卒無い内定の学生が起業して新たな一歩を踏み出す》
これが、物語の大きな構想であった。
だが現実は甘くなかった。
起業するのは簡単でも、収益を上げるまでが難しい。
当面の生活を凌ぐためには、カネがいる。
カネを稼ぐためには、雇われる必要がある。
だからボクは、結局以前のゴーストライターのバイトを辞めることができずにいた。
経済的にやむなく……。
そしてフルタイムのバイトが終わったあと、さらに池田と起業した事業のために働くという『二足のわらじを履く』生活を続けていた。
執筆文字数で言えば、一日に二万文字を超えることもあった。
自分のなかの言葉が尽きていくのを感じた。
ゴーストライターとして書き、アフィリエイターとして書く。
目が覚めてから眠りにつくまで、ひたすらキーボードを打ち続け、言葉を紡ぐ。
たしかに文字を書いてお金を稼ぐ『物書き』に憧れてはいたが、現にそれは叶ったが、本当にこれで良かったのだろうか。
バイトを辞めることのできない理由のひとつには、同居している母の容態が悪化したこともあった。
さらに(ある程度の資金があるとアテにしていた)池田が、株式投資で大失敗したこともあった。
勘の良い方ならお気づきだろうか、池田が信用取引で手を出していたバイオ株とは、今話題のSTAP細胞関連銘柄である。
iPSを超える発見などと話題になり、株式市場でもバイオセクターの株式が大きく買われた。彼はそのビッグウェーブに乗っかるつもりだったらしい。
しかしその後、STAP細胞論文の偽装?が発覚し、STAP期待で買われたバイオ銘柄の株価は軒並み暴落。(そうでなくとも元々バイオ企業は赤字のところが多い)
さらに追い討ちをかけるかのように、日経平均株価は一週間で1,000円近く下げるという投資家阿鼻驚嘆の事態と陥っている。
ボクもこんなところで伏線を回収することになるとは予想だにしていなかったが、バイオ株でハイリスクな取引をしていた池田は、致命傷を超える損失を被ることとなった。
今となっては池田のことなどまったくアテにできず、ボクは自分ひとりで事業を進めていかなくてはならなくなった。
だがさすがに、身体的な……精神的な……限界が来ていた。
ふらつく足取りで、雨の街の路地裏に入ってしまっていた。
息を切らしてしゃがみこむと、地面をナメクジが這っているのを見つけた。
いや、まだ三月だ。この時期にナメクジはいない。
これはナメクジの幻影なのだ。
ナメクジはゆっくりと、ポイ捨てされた空き缶の方へ向かって這っていった。
Who goes slowly goes far. (ゆっくり歩むものが遠くに行く)
ボクの、好きな言葉だ。
このナメクジのように、自分も生きてゆかねばと思った。
今はまだ、耐えるときなのだろう。
バイトで当面の生活費が貯まれば、今度こそゴーストライターの仕事を辞めて、ボクは自分のために書き始める。
小説家になろう――、そう、心に誓った。