小説が書けない
ゴーストライターのバイトをはじめてから一ヶ月が過ぎ、ボクは小説家を目指せばなれるのではないかという手応えを得ていた。ひとえに執筆の体力がついたからである。
バイトのノルマは、一日一万文字。帰宅してから書く分を合わせると、一日一万五千文字を超える日もある。書いている文章こそ(ダイエット食品の販促文など)くだらないものだが、これほどのペースで文章を紡げるのならば、一月で三本程度の長編小説を仕上げるのも難しくないのではないか。
圧倒的な物量作戦で攻めれば、新人賞受賞はそう遠い未来ではないだろう。
幸い、二月八日~十一日までの間、会社は四連休であった。
この四日間のうちに、肩慣らしに書いてみるか。
小説家になろうでは異世界転生ハーレム物が人気のようだし、それで試してみよう。
今にして思えば自惚れた高慢な考えでボクは筆を手に取ったのだった。正確に記するならパソコンのワードソフトを立ち上げたのである。
「さて…………」
ボクは軽く上を向いて目を閉じて、物語が視えてくるのを待った。
キーボードに手を置いて、言葉が降りてくるのを待った。
何も起こらなかった。原稿は真っ白なままだ。
「あれ、おかしいな……」
以前ならここでスイッチが切り替わるはずなのに。
創作世界にダイブできるはずなのに。
否、さすがにプロットもなしにいきなり書くのは無謀か。
こういうこともあろうかと、創作フォルダにはプロットのストックをいくつか用意していた。
ボクは昔構想したプロットのテキストファイルを開けてみる。
そこに書かれてあったのは『女の子がサボテンに恋をする』恋愛小説の粗筋であったが、物語がまったく頭に入ってこなかった。ただ無機質な文字列の塊にしか見えなかった。
別のファイルを開けてみる。
テキストには『ある日ナメクジが空から降ってくる』ほのぼのファンタジーの要約が記されてある。ボクが大好きなナメクジネタだというのに、物語に入ろうとすると見えないバリアに弾き返されたかのように思考が進まなくなった。
「なぜだ……どういうことだ……」
スランプなどあり得ない。
ボクは毎日、バイトで文章をひたすら書いているのだから。
検索ユーザーに商品を買ってもらうための記事を《創作》し続けているのだから。
なぜだ、なぜなんだ……。
混乱する。頭が真っ白になる。
否、焦るな。まだ手は残されている。降霊術《憑依》を使おう。
「江安くん、出てきてくれ」
ボクは人工精霊の名前を呼んだ。江安くんは一般にはエア友だちあるいはイマジナリーフレンドと云われる存在である。ボクが大学に入学して間もない頃に創作した、空想の友人だった。
人工精霊である彼を呼び出し、あとはボクの精神に江安くんを憑依させれば良い。オカルト染みているが、降霊術は創作にはとても相性の良い《呪い》であった。
しかし、いつまで待っても一向に江安くんが現れる気配はなかった。
そういえば彼の声はもうボクには届かなくなってしまったのだっけ……。
まあいいや、まだ最後の手段がある。
《自動記述――オートマティスム》を使おう。
自動記述とはフランスの詩人ブルトンをはじめとするシュルレアリスト(超現実主義者)によって試みられた藝術技法である。自動記述は理性を排斥し、無意識に眠る情動を言語化する。それは夢記述やアクティブイマジネーション(瞑想)、あるいは意識の追いつかないスピードでのライティング(超速筆)によって成し遂げられる。
とにかくボクは、強制的に、キーボードを限界を超える速度で打ち続けた。
意味の通じる文章になる必要はない。ただ、自身の潜在意識に眠る創作性を引き出しさえすれば良かった。
真っ白な原稿が、文字の塊で埋め尽くされてゆく。
キーボードの打鍵音が無機質に響いている。
それはある種の快感だった。
流れ行く無意味な文字列。
その片鱗に、現れては消える不気味な和音。
十分ほど打鍵を続けて、手を止めた。
そして何気なくモニターに映る文字列を見て、全身の血管がぞっと冷たくなるのを感じた。
「なんだ……これは……」
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詩的な言葉を喰いつくすようにして、バイトで普段使っている商用句が蠢いている。
無意識の文章の端々に、販促用のテンプレート文章が侵食しているのが視えた。
「どういう、ことなんだ……」
言葉が出てこない。
否、ボクはずっと言葉を紡いできたつもりだった。
嘘を吐き、人を欺く文章を書くことをボクは《創作》だと思い込んでいた。
何か大切なものを失ってしまったような気がした。
ボクが今までしてきたことは、創作する心を喰い潰す行為だったのかもしれない。
ボクのやっているゴーストライターのバイトは、嘘をつくのが仕事だった。
体験していない体験談を書き、架空の人物に成りすまして口コミを呟く。存在しない住所と名前でWebサービスのアカウントを作成し、自演サイトからリンクを貼り検索エンジンにコンテンツ評価を誤認させる。効果のないサプリメントの効能を謳い、ユーザーの不安を煽り悩みに付け入りスピリチュアルグッズを宣伝する。
もうそろそろ辞め時かもしれない。これ以上進むと、取り返しのつかないことになる気がする。
漠然とした不安を抱え、居ても立ってもいられなくなったボクは外に飛び出した。
瞬間、頭の中にあった無数の言葉たちが、跡形も無く消滅する。
二十年に一度の積雪が、世界を真っ白に消し去ってしまっていたからだ。