傘
バケツをひっくり返したような、槍が降ってくるような、雨。
篠突く雨は少女の肩を濡らす。そこに掛かるセミロングの髪も半袖のシャツから伸びる腕も地に着いた脚も、その無防備な全身に痛いくらいに水を浴びている。
それが彼女の心をも抉ることを予感していながら、俺はなす術なくただ遠目に見ているだけ。
***
「っていう夢を最近見たんだ」
ザラリと砕けた氷の音を響かせながら、中身が少なくなった紙コップを揺らす。向かいの席に座る幼馴染みは別段興味を惹かれたわけでもないようで、ふうんと気のない返事をした。
「その女のコは雨の中立ってるだけなの?」
「そ。後ろ姿だから顔も見えない」
「傘持ってなかったのかな」
どこか的外れな感想を口にする。きっとこいつは、彼女の物憂げな姿を見ていないからこんなことを言えるのだ。
「そんなこと忘れてたんだと思う」
そう言うと目の前の少女は肩に掛かる髪の先を指で弄くった。どうして分かるのとでも言いたげな瞳がこちらを向く。どうやら話に付き合ってくれる気になったらしい。
「それって、また予知夢か何か?」
「……さあどうだろう。そうかもな」
幼いときから時折不思議な夢を見ることがあった。それは近い将来実際に起こる出来事だったり、それを示唆したりする内容だったり。
幼馴染みである目の前の少女だけに俺はこの不可思議な体験について話している。というか、そんな馬鹿げた話をしたって信じる奴など初っ端からいやしないのだから。実際俺だって半信半疑だ。新聞の片隅の占いを見るのと同じような感覚だったりする。
見る夢の内容は楽しいものから不快なものまで多種多様だが、全てが全て実現するわけではない。だからこそ、気楽に構えていられるのかもしれないが。
「もしそれが予知夢なら、あんた女のコ泣かすんだ」
生意気なヤツ、と付け加えられてむっとした。ストローに吸い付くと、ほとんど飲み尽くしてしまったコーラの名残と細かくなった氷が喉を叩いてくる。
「泣かしたのは俺じゃないかもしれないだろ。つーか何で泣いてたって分かるんだよ」
「分かるって」
ぴっと右手の人差し指を向けられた。ファストフードの油が少しだけ拭いきれていない。
「雨の中傘もささずに立ってるだけ。これってよっぽど嫌なことがあったんだよ。あんたは傘のことなんて失念してたんだって言ってたけど、もしかしたら濡れたい気分だったのかも」
「濡れたいって……雨にィ?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。呆れたような思春期女子の視線にかち合ってたじろいた。ぼそりと呟いた逃げの一手。
「……女って分かんねー」
「高校生にもなって情けない。そんなんじゃ当分彼女なんてできそうにないね」
「お前はお袋かよ」
「気分はお姉ちゃんってとこかな」
「同い年だろうが。余計なお世話だっつの」
だって、彼女なんていらないのだから。そう言えばつまんないって顔をされることが容易く想像できたので口には出さないでおく。
「だいたいお前の方はどーなんだよ」
「そっちこそ、余計なお世話!」
眉間に寄った皺と微かに血が昇った頬はどこかアンバランスで、何故だか目を離す気が失せている。知っているはずの表情であるにも関わらず何度見ても飽きないのだから、不思議でならない。こいつはおかしな魔法でも使ってるんじゃないかってときどき疑いたくなるくらいには、不思議だ。
そのとき、ふと視線がファストフード店の窓ガラスの外へ吸い寄せられた。見覚えのある短い黒髪がまばらにいる通行人の隙間をすり抜ける。
「噂をすれば影ってね」
「ん?」
やめろと引き止める一部の感情の叫びを無視して窓の外を指差した。
「ホラ、愛しのテニス部の君がいるぞ」
「あ……っ! ──ってふざけたからかい方しないでよ!」
本来なら、彼女は他のものに気をとられることなく真っ先に俺に文句を言うであろうことを俺は分かっている。ただし前提条件として、別の話題であることが必要になってしまうのだ。
二つ隣のクラスの男はテニスラケットのケースを背中に引っ提げて駅へと続く道を一人歩いていた。彼女の眼がそれを追う。
どうして気付かせてしまったのか他人事のように自問自答しながら、恋する少女に向ける表情を好奇のそれへと変えてみた。
「追いかけなくていいのかぁ?」
「えっ? でも……」
何を躊躇っているのか、そわそわと動く指先とは裏腹に椅子から立ち上がろうとはしない。
俺はひとつだけため息を吐く。
並んだ二つのトレイのうち、彼女のものからまだ中身の入ったフライドポテトの容器をひょいと取り上げた。
「あっ」
「これ俺が貰うから、お前はさっさと帰ってろよ。サービスで片付けまでしといてやる」
ここまでしてもらって断れる奴じゃない。迷っている時間は短かった。
ようやく腰を上げて鞄を掴む。持ち手につけられた小さなくまのぬいぐるみが振り子のように揺れた。
「ありがと……!」
ポテトを摘まんでいるのとは反対の手を追い払うように振った。心持ち偉そうな態度。
「いーから早く行けっ」
「いちいち癪に障るように言ってくれるよねっ」
翻したスカートの裾が店の扉の先に消えるまで見届ける。今からなら、まだ追い付けるはずだ。
背中を椅子の背凭れに押し付ける。もう一度、今度は長く長く息を吐いた。自問の答えはまだ出そうにない。
***
雨粒が地面を叩く度、悲鳴のように音が響く。前回と同じように悲鳴の中立ち尽くす見知らぬ少女が一人。身動ぎひとつしない彼女は人形だと錯覚してしまいそうな程だ。何も変わっていない同じ風景に焦れる。
走った焦燥に右手を握り締めると冷たいプラスチックの感触に辿り着いた。傘の柄だ。顔を上げるといつの間にか少しだけ人影に近づいていた。
もう少し歩み寄れば、彼女に傘をさしてあげられる。冷たい雨を遮れる。
しかし、ほっと吐いた息はすぐ雨に霧散してしまった。
手も足も動かないのだ。傘を掴む手が、独りぼっちの少女にそれを差し出そうとしない。地面にへばりついた足があと少しの距離を縮めようとしない。
こうして戸惑っている間にも水に打たれる彼女から苦しげな声が聞こえてくるのではないかと気が気じゃないというのに。
まるで俺をおいて時間が進んでいくみたいに、無慈悲に雨は流れていく。
***
目を開けると、学校ではお馴染みである木の机が目に入った。
また、あの夢だ。
これは前進したのか、或いは後退したのか。夢を見せる夢魔というものが本当にいるのなら問いただしたいくらいだ。いずれにせよ謎の答えが知りたければ、これらが予知夢であることとその出来事が早く起こることを願うのみということになる。
髪の毛に手を突っ込んでかき回しながら机から頭を上げたちょうどそのとき、廊下を歩くあいつを見つけた。プリントの束を持っている。その隣には、接点などないのにすっかり顔を覚えてしまった他クラスの男子が数十冊のノートを抱えていた。
職員室帰りと思われる二人は親しげに談笑中。彼女の横顔は幼馴染みの知る中でも最高に幸せそうな部類に入るものだ。そんなことまで分かってしまうのだから、この立ち位置は時折とてつもなく嫌になってしまう。
逃げるように再び机に突っ伏して額を擦り付けた。前髪も一緒にざらりと擦れてなんだかもどかしい。
入り乱れるさまざまな感情が煩わしくなり、一先ず思考を停止する。再び緩い眠気が押し寄せてきた。
それに身を任せようと瞼を閉じたとき、頭を細い指で小突かれる。顔を上げる前に上から聞き慣れた声が降ってきた。
「なに寝てるの、帰りのホーム始まっちゃうよ」
いつも通りの世話焼きモード。そういえば昨日、姉弟みたいな気分だって言われたっけ。
──はいはいそうですか。キョーダイキョーダイ。
すっかり不貞腐れた口は余計なことを口走る。
「プリント運び終わった? ──うまくいってるみたいじゃん」
かあっと頬が朱に染まった。
「ちょっとっ!」
「姉貴だって言うならそれくらい許してくれるよなー?」
「そんな性格悪い弟を持った覚えはありませんー」
冗談に乗っかるような返事で許されたことを悟る。
ああ、さっきの失言をお前はやっぱり許してくれた。でも、俺自身が許せないのだから結局は免罪符になどなり得ない。俺が一番分かっていることじゃないか。
そのとき腕を強く掴まれた。彼女はそのまま力の抜けきった俺を引き寄せ、自分の口元と近づける。他意などないはずの行動に心臓がもの凄い勢いでギュッと縮んだ。
囁いたその声には、緊張の色が滲んでいた。
「それで……う、うまくいってるみたいって、本当?」
ほら、思った通り、無意識だ。こいつにとっては何の意味もない行動であることは間違いなかった。長年の慣れた距離が忌々しい。
「──少なくとも、彼に嫌われてるようにはとても見えなかったけど」
質問に答えるには慎重に言葉を選ぶ必要があった。下手をして私情が混ざったらまずいだろ?
だから俺は、必死で自分の感情を排除してあくまで客観的な意見になるように頭を回しては口を開く。
「そ、そうかな。……大丈夫かな。大丈夫……だよね」
他人の意見を聞いて安堵しているはずの彼女の、少しだけ硬い口調がやけに耳に残った。
***
空は曇天。
圧迫するように重苦しい天は、きっと落っこちてこないように神が支えているのだろう。
空の表情は違えど、いつものように見知らぬ少女は立っていた。乾いた姿を見るのは初めてのことだ。前回までと印象が違うせいか、ふと胸に覚えた感覚があった。恐らくそれは、既視感と呼ばれるもの。
しかし、それが確信に変わる前に思考は破壊されることになった。彼女は独りではなかったのだ。
身体中に響いた鈍い音は、走り抜けた衝撃か。或いは跳び跳ねて振動を辺りに撒き散らした心臓か。
背を向けた少女の前に立つ男の顔はよく見えなかったが、確かに見覚えがある。回路は停止したはずなのに既視感の変貌が加速した。
僅かに揺れたセミロングの髪の先で少女が口を開いたことが分かる。強張った肩は緊張が滲んでいた。似たような硬さを最近目の当たりにした気がするが、それがいつのことだか分からない。
彼女の吸った息が、それがこの世界から音を奪う。
「 」
俺からは見えない唇から吐き出されたのは紛う方なく愛の言葉。男の身体に電撃に似たものが走っていく。この男ときたら、あんなにもそばにいておいて彼女の想いに欠片も気づいていなかったらしい。
瞠目していた瞳が落ち着いたと思いきや、途端に泳ぎだした。
事の顛末を見たくて、彼女に駆け寄りたくて、俺は身を乗り出す。この間のような事態にはなっていない。ちゃんと身体は動いた。
足の裏が地面を思い切り蹴ったときには、中に居座る既視感は既に確信へと成り変わっている。
とうとう、空が泣き出した。
***
一瞬、まだ夢の中にいるのかと思ってしまう。しかし聴覚が捕えた雨音は、建物の中からだとフィルターがかかったようにしか聞こえない。夢の中のいやに鮮明なそれとは全くの別物だ。
外は夕立。悪質な程力強い雨だけがあの夢と同じだった。
放課後の教室には人の気配はない。雨足が強まる前にとみんな帰ってしまったのだろう。
窓の外の黒雲を眺めていると少しずつ頭がはっきりしてくる。徐々にフラッシュバックする今しがた見た夢。
堪らず廊下に飛び出した。ロッカーの上には通学鞄がひとつ。持ち手につけられた小さなくまのぬいぐるみ。
スタートダッシュをきめた途端湿った廊下と上履きが甲高い叫び声を上げた。
二つ隣の教室──いない。窓の外、テニスコート──いない。下駄箱──いない。
彼の靴も彼女の靴もないことを確認すると俺はどしゃ降りに飛び込んでいく。大きく三歩前進したところですぐ引き返した。
再び走り出したとき、手には誰かが置き去りにした安っぽいビニール傘が一本。
打ち付ける雨粒が視界を遮る。服も靴もすぐに重くなり、もどかしさに叫びそうになりながら地面に溜まった水を土足で撒き散らしていく。
髪から滴り落ちる水滴がうっとおしくなった頃、ようやく求めていた人影を見つけた。
自転車置き場の脇に、見慣れた後ろ姿。セミロングの髪のかかる肩を幾度も叩かれるがまま立ち尽くす。濡れそぼった全身は頽れてしまいそうだった。
コンクリートを踏んで彼女に歩み寄る。誰かが近づいてきているのは分かっているはずなのに、項垂れた頭は振り返ろうとはしなかった。顔を見られたくなかったのかもしれない。
ビニール傘を開くと中に入り込んでしまっていた雨水がぼたぼた零れ落ちる。スマートにきめる気など起きずそのまま幼馴染みを覆ってやった。開いた下で雫が彼女を濡らすけれど、抉るような勢いはない。
「フラれちゃった」
どこか湿っぽい声音は、この天気のせい。
情けないことに俺が返せる言葉など浮かびはせず、ただ黙って静かに雫を彼女の頭へと降らせていた。
どちらかが吐いた長いため息は、篠突く雨に掻き消される。
初投稿です。
これを書いたときは執筆期間が短く、文章が乱雑になってしまった箇所もあることが心残りですが、書きたかった話が書けたように思うので自分ではなかなか気に入っている作品であります。
これから少しずつですがこちらに投稿していこうと思うので、どうかよろしくお願いいたします。