手がかり
その日の夕方、デイルはテントから少し離れた場所で、盗んできた資料に没頭していた。ラスティがどこかへ行ってしまっていたので様子を見に来たついでに、スキンシップを兼ねてしばらくその場にとどまることにしたのだ。
―――というのは建前で、彼女の腹をソファ代わりにすると最高に心地よいので、つい居座ってしまったというのが本音である。
盗んできた資料の内容は、実はたいして把握しなくても良かった。そこは専門家の範中だからだ。だが、トワを見てしまった以上、否が応でも興味がわいた。
実はそもそも研究所に忍び込んだ目的は、RIB社が発売したある薬の調査であり、決してトワのためではない。研究所に忍び込むまでトワのことなど全く知らなかった。が、潜入してみれば、この研究所が裏で色々と怪しいことをしているのはすぐにわかった。特に、人間のミイラが何かの液に浸されて冷凍庫で保管されているのを見た時は、本当に肝を冷やした。
そこで第一のハプニングが起こった。
リンがそのミイラが入っている水槽を壊してしまったのである。どうやって壊したのかは見ていなかったので知らないが、ガラスが割れて中の液体がダダ漏れになっていた。(故意にやったとしか思えないが、本人は今に至ってもしらばっくれている。)液体は漏れだしたそばから揮発していたから、おそらく液体窒素か何かだ。
興味本位でそのミイラを引っ張り出し、ルロイを呼んで一緒に調べている時に、第二のハプニングが起こった。
なんと警報が鳴りだしたのだ。
それをやらかしたのはランである。彼女は何を思ったか、非常ベルのスイッチを押してしまったのだった。落ちた資料だったかサンプルだったかを拾おうとしてスイッチに当たってしまった、とのことだったが、本当だろうか。(デイルは密かに、秘密のスイッチか何かと思って好奇心で押したのではないか、と思っている。)ともかくそこで全員パニックになり、気が付いたらルロイがミイラを連れてきてしまっていた、というわけである。
資料の多くは、侵入後すぐの余裕がある時に、研究所のネットワーク内に潜入して電子データとして盗ってきたものである。だがこちらは電源のないここでは開けないし、おそらく薬に関することしか書かれていない。
今見ているのは、パニックに陥った時に慌ててごっそり盗ってきてしまった、紙の資料である。内容はいま一つよくわからないものが多かった。仕事前にそれなりに専門知識は詰め込んできたつもりだったので、結論の部分はまあまあ理解できるのだが、それを導き出すまでの過程がさっぱり理解できない。
そんな中、一冊だけ、気になるタイトルのファイルがあった。
赤いプラスチック製のファイルで、『検体Aに関する報告書 まとめ』とある。
どうやら、『検体A』なるものの定期的な報告書をまとめたものらしかった。報告書なので、冒頭で検体Aの特徴や、なぜ調査することにしたのかという理由などが逐一触れられている。
検体Aには次のような特徴がある、とあった。
・細胞の生存、増殖能が通常より非常に高く、様々な薬剤耐性を持つと考えられる。
・新規遺伝子を多数保有している。
・細胞内に新規のオルガネラが確認できる。
・体内に未知の臓器を多数持ち、通常と異なる代謝を行っている。自己完結型のエネルギー体系を持つ。
デイルはこれを何度か読み返した後、急に嬉しくなった。直観的に、検体Aはあのトワのことだと確信したからである。
実を言うと、これらの文の意味は、ちんぷんかんぷん、全然よくわかっていない。けれども要するに、
『検体Aは普通の生物と全然違う!だから調べる価値がある!』
と言っているのだ。それで、トワのことに違いない、という結論に達したのだと思う。
が、理由をつけないと気が済まない方の彼は、薬剤耐性ってなんだ?オルガネラって一体何のことだ! もう、意味がわからん! とぶうぶう文句を言っている。読み進めたところでよけいわからなくなるだけだ、と思いつつも、仕方なく先を読み進めることにする。
ところが、次に行こうとページをめくったところで、突然、周りの音が耳に入って集中力が途切れた。そして、頭に衝撃があった。
見上げると、ルロイが恐ろしい形相で見下ろしていた。片手にフライパン、もう一方の手に、先程までデイルがかけていたはずの眼鏡を持っている。
「どうして眼鏡をかけただけで、そんなに集中できるんだ!今、何回呼んだと思う?」
ルロイが相当怒った様子で言った。そして、「飯だ、バカ!」と言いながら、フライパンでもう一発、デイルの頭を殴った。
「いてぇな!!」デイルは頭をさすりながら立ちあがった。
眼鏡をかけているといっても、別に目が悪いというわけではない。かといって、伊達メガネというわけでもない。単に昔から、少し遠視の傾向があったのだ。だから、普段は眼鏡なんてかけていないが、活字を読む時や近くでものを見る時には疲れるので、遠視を矯正する眼鏡を使うことにしていた。
が、どうも眼鏡をかけると集中力が上がってしまい、周りの音が聞こえなくなるらしかった。聞けば、今は三度大声で名前を呼んだ上に、フライパンを枝でガンガン叩いたのだそうである。
それで気がつかなかったとなると本当に末期だ。なんとかしないと。でも、殴るなんてひどい。
「そんなもので叩くこたぁないだろ。頭はおれの商売道具なんだぞ!」とデイルはちょっとすねて言った。
「だって、そうでもしないと気づかないかと思って。」
「眼鏡取ったら気づくって!今ので脳細胞が何千個も死んじゃったかもしれないんだぞ……」
「じゃ、取らなかったら気づかなかったか?もしかして」
「それは……」
実を言えば、自信はなかった。前に図書室で読書をしていたら、友人たちがからかって、耳にクリップを挟んできたことがある。事務室とかで大量の書類をはさむ時に使っている、強力なやつだ。後で同じことをしてみたら相当痛かったのだが、その時はまったく気づかずに読書を続け、読み終わる頃には耳は紫色になっていた。おかげで「Mr.unconscious(気づかない男)」などという不名誉なあだ名がついてしまった。
フライパンだったら気づくだろうか?
「お前、後ろから刺されたって、気がつかないんじゃないか?」
気付いたら死んでました、なんてことにならないでくれよ、とルロイが大真面目に言うものだから、デイルは思わず笑ってしまった。
「ははは! ま、そうならないように、祈っててくれよ」