覚醒
ラスティの背で、そいつは揺られていた。
もう普通の人間にしか見えない。それほど、やつれてもいない。何も食べさせていないのに、自然と肉がついていった。たったの一日で髪も五,六センチは伸びている。デイルの服を着せると、本当にただの少年だった。
不思議なことに、肉がついても重さはさして変わらなかった。むしろ、あの川に放り込んだ時よりも軽くなっているようだった。(アンナが一人でも持ち上げられると言っていた。)おかげでなんとかラスティに運んでもらうことができている。物理法則を無視していると最初は思ったものだが、何のことはない。きっと身体の成分がより比重の小さいものに置き変わったのだ。まあそれはそれで、今度は生物としての法則に反しているような気もするが。
一行は、再び樹海を進んでいた。途中までは川沿いを進んでいたが、道を外れそうになったため結局樹海の中に戻った。
方位磁針は途中から狂い始めていた。針の刺す向きが九十度近くずれているようだ。それにも関わらず一行が迷わず歩を進めていられるのには、理由があった。
デイルは空を見上げる。木々に覆われたその向こうに、ラスティと共に連れてきた、もう一羽の仲間がいるはずだった。
上空へ向かって、強く指笛を吹く。ラスティと違って一度だけ、高い音で鋭く吹くと、『必ず来い』の合図になる。
ほどなく近くの木の枝が揺れて、彼が舞い降りてきたのがわかった。「アルタイル!」と彼の名を呼び、腰に下げたポーチをぱんぱんとはたく。すると、一羽のワシがそこへ向かって急降下してきた。
デイルはポーチを使ってそのワシを受け止めた後、慣れた動作で左腕へと誘導した。上空からそのまま腕へとめると、鋭い鉤爪が刺さって大変なことになる。能あるタカは爪を隠す、というが、ワシはそうではないらしい。それとも、アルタイルが特別にバカなのだろうか?
ちなみに以前それをやったら、思い切り爪が突き刺さったばかりか、止まることができずにそのまま前方へスライドし、デイルの腕は引き裂かれてずたずたになってしまった。あわや大惨事である。思い出すのも恐ろしい。
現在、その爆発的なダメージは代わりにポーチへ蓄積している。ポーチは高価な皮製のを買ったとしても、たいてい半年くらいでお釈迦となる。今使っているのも、もうあちこち穴があきかけているから、あと余命一、二か月といったところだろう。
アルタイルはそろそろと腕を移動してデイルの首元までやって来ると、彼の顎の下に頭を押し当ててぐいぐいと持ち上げるような仕草をした。餌をねだっているのだ。
「おい、やめろ。今やるから……」
ポーチから干し肉を一切れ取り出して与える。
昔はこういう時大きな声で鳴き出していたものだが、あまりにうるさいので鳴かないようにしつけていたら、こんなことをするようになった。だからやっぱり、なかなか利口なやつだと思っているのだが、爪だけはどうしてもしまえないらしい。
喜び勇んで食べている間に、デイルは精神に被せてある保護用のふたをゆっくり外し、彼の思考を読み取る準備をした。
彼は方角を正確に把握している。また周辺の様子を写真のように覚えていて、よくよく注意して読み取れば簡単な地図が作れるほどである。けれど、そのためには彼の協力が必要不可欠となる。なぜかというと、彼がその場面をきちんと思い出してくれなければ、こちらは読み取れないからだ。
デイルとアルタイルの関係は、ガラス張りの部屋の外で指示を与える者と、部屋の中で実際に作業する者、と例えるとしっくりくる。アルタイルにデイルの声は届くが、デイルには彼の頭の中を自由にいじくり回すことはできない。心を塞がれることは、ガラスに暗幕を降ろされることに等しい。だから、この作業には信頼関係がとても重要だ。幸いデイルとアルタイルの息はぴったりだった。
二、三分やり取りをして、方角の微妙な修正と次の休憩地点の確認を終えた。方位磁針が効かないことがわかってからは、一時間おきくらいにこうして確認を取っている。
再び上空へ向かってアルタイルを放つ。彼はうまく枝の間をすり抜けて飛んでいった。
「気持ち東北に角度を修正。あと、三十分くらいしたら開けた場所に出るから、そこで休憩しよう。一応通信ももう一回試してみるよ」
出発前、川に出て通信を試みたが、結局つながらなかったのだ。川はそれなりに幅があり、上空に遮るものは無かった。天候も、曇ってはいたが、それほど厚い雲でもない。通信機自体は起動時のエラーチェックでエラーが検出されないので、正常なはずだった。なぜつながらないのか全くわからない。
「三十分と言わず、そろそろ休憩した方がいいんじゃない?」
アンナが言った。横でルロイもうなずいている。どうやら二人とも、こちらの身体のことを心配してくれているらしかった。
二日も倒れていたから確かにしんどかった。が、やはりリーダーとしての責任が重くのしかかって、なかなか弱音を吐けない。
「いや、大丈夫。まだ、いける」
「肩、貸そうか」
「いいよ、余計に歩きにくいだろう」
ルロイの申し出を断ると、アンナが不機嫌そうな顔になった。
「リーダーは無理してはいかんって、言ってるでしょうが。あんたがラスティに乗ればいいのよ。(ラスティの背に乗っている少年を指差し、)あれを誰かが担いでさ」
今まで見てきたチームリーダーたちはとてもしっかりしていて、こんな風に気を遣われるようなことは絶対になかった。だからデイルは、こうして声をかけられることが悔しくて仕方がなかった。大人しく従っておけ、と冷静な方の彼は言うのだが、プライドがそうはさせない。
「逆じゃないですか。だってあっちの方が重そうだ」
デイルのネガティブ思考を良いタイミングで遮って、ルロイが言った。
確かに、ラスティの背中の荷物の方が重そうだ。あれを背負おうと思ったら、なかなか大変だろう。
が、ルロイの心からは微かに恐怖が感じとれた。そう言えば、昨日からしょっちゅう、首筋を手で押さえている。ミイラに引っかかれた場所である。つまり、あれが怖くて背負いたくないのだ。
「そんなこと言って、本当はあれが怖いんじゃないか?」
と言って茶化すと、ルロイは、
「え!? いや、そんなことはない」
と急いで否定した。
言っていることと表情がまるで合っていない。やはり図星だったようだ。彼は思っていることが顔に出やすいタイプなのである。アンナもそれに気がついて、「かっわいい!」と一言、笑い転げた。
ルロイはまたも大急ぎで、「だから、怖いんじゃない!また脱水で倒れたくないからだ!」と負け惜しみを言って、先に歩き出した。が、右手はしっかり、首筋を押さえていた。
ラスティの唸り声が聞こえたのは、ちょうどその時だった。
いつも威嚇する時とは違って、何かに驚いたように一声大きく鳴いた後、低い唸り声が続いた。慌ててそちらを見た時には、彼女は既に背中の荷物を放り出して、その場から飛びのいた後だった。
ランの小さな手が腰あたりをぎゅっとつかむのを感じた。
そいつは仰向けに転がっていた。
やがて、ぎこちなく身じろぎして、手を持ち上げた。