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Border Violators  作者: 月見里 翔
プロローグ
1/14

逃亡

挿絵(By みてみん)

 デイル・ワーグマンはその日、仕事で山道を歩いていた。それも、そのあたりにあるような歩道が整備された小奇麗な山ではない。本物の、樹海である。


 樹海に入ってまだ三時間ほどだったが、すでに全身、水をかぶったかと思うほど汗で濡れていた。こんな状態があと三日も続くかと思うと、足から力が抜けてしまいそうだ。だから今は、何も考えず、とにかく前を目指してひた歩くしかない。


 五メートルほど前方には、一緒に仕事に来たチームメイトらが、彼と同様、ゆっくり這うように前進しているのが見える。普段から体を鍛えている者たちでさえこの有様なのだから、自分はついていけているだけでも賞賛に値する、と彼は思った。あるいは、この不甲斐ないチームリーダーの速度に、皆が合わせてくれているだけなのかもしれないが。


 本当はもっと急ぎたいところだったが、これ以上速度を上げることは難しい。

 なにしろ足元は落ちた枯れ枝が幾重にも折り重なっていて、一歩踏み出すたびに足が捕らわれる。それに加えて、背の高い陰樹の群れのおかげで日の光が足元まで届かない。薄暗いために雑草があまり生えていないのだけが不幸中の幸いだったが、どうにも湿気が多くて汗だくになる。

 



 樹海とはこういうものか、と、今になって逃走ルートを選んだ時の自分の甘さに腹が立った。けれど、人目につかず、行方をくらましやすいルートと言ったら、ここしかなかったのだ。



 おぉい、デイル――――



 急に後ろから声がかかって、彼は飛び上がった。一瞬のちに、追手ではないと分かってほっと息を吐く。よく知っている声だ。自分が最後尾だとばかり思っていたのに、まだ後ろにいたのか。



 デイル、ストップだ、もう限界だ――――



 声は太く低く、まるでチューバを吹いているかのごとく森中に響き渡った。彼は慌てて、無線で前の方にいるメンバーに連絡を入れ、今来た道を下り始めた。自分たちの位置が露呈するから大声を出さない、というのは鉄則なのに、奴は忘れているらしい。


 転びそうになりながらようよう降りていくと、ひときわ太い木の幹に、見慣れた大男がもたれかかっているのが見えた。いつも目の下にあるくまがこの薄暗い中で一段と濃く見える。だがその薄暗さを差し引いても、彼はずいぶんと疲れた顔をしていた。足元には、彼に任せておいた大きな荷物が、無造作に転がされている。


「ルロイ、大丈夫か」


 声をかけてやると、大男は右手をあげて、ああ、と短く返事をした。その声は返事と言うよりため息に近く、まったく大丈夫そうには聞こえない。


「なんで無線を使わなかったんだ。おれたちの居場所がばれたらどうする」

「ああ、無線があったか。忘れていた。悪い」


 ルロイは顔をしかめて謝った。だが、もともとの恐ろしげな顔がさらに恐ろしくなって、ちっとも謝られた気がしない。


「あまりにも距離がひらいてきたんで、慌ててしまって」

「まさかお前がおれより後ろにいるなんて、思ってなかった。らしくないな」


 デイルは大男をしげしげと眺めた。その屈強な体躯や大人びた顔つきは、とても自分と同じ十七歳とは思えない。現にルロイは、彼が知っている中で誰よりも力が強く、一緒に仕事をするときには大いに頼りにしている。それがこんなに早く音を上げてしまったものだから、デイルは少なからず驚いていた。


「えらく重かったんだよ、これが」


 ルロイは、地面に転がっている大きな荷物を、怪訝そうに見下ろした。そして、首をひねる。



「ミイラがこんなに重いものとは、知らなかったな」



 白い布にくるまれているそれは、中身を見なくとも、周囲に異様な気配を漂わせていた。

 デイルは軽く計算してみる。


「ええと、人間の成人だと体の六十パーセントは水分だろ。もともと六十キロだとすると、二十四キロか。でも他にもいろいろ腐ってなくなってんだろうから、もっと軽いだろ、重くて十五キロとか……」

「十五キロ? 全然、そんなもんじゃない!持ってみろよ」


 言われてデイルは、それを持ち上げようと手をかけた。少し力を入れた程度では持ち上がらない。ぐっと両足に力を入れて渾身の力で持ち上げてみる。それでやっと、端の方だけ持ち上がった。


「重いな」

「だろう。六、七十キロはあるんじゃないか」

「おかしいな。最初からこんなに重かったか」


 最初は彼にも持ち上げられる程度の重さだったと記憶している。なにしろ、これを発見して取り出したのは彼だったから。それがほんの数時間前。その時は時間がなかったので、どれくらいの重さかしっかり見積もる余裕などなかった。


「そう言われれば、だんだん重くなっていったような気がする。傾斜がきつくなったせいかと思っていたんだが」


 ルロイは暑そうに服の襟口を引っ張った。ただでさえきつい山道を、こんなに重いものを背負って登っていたのだから、さぞ暑いことだろう。が、見れば、彼は大して汗をかいているようでもなかった。




 やがて、先に行っていたメンバーが戻ってきた。まだ十歳にも満たないような、可愛らしい巻き毛の少女が一人と、金髪長身の美女が一人。先に行っているのが女子供ばかりというのも、情けない話だ。


「もうばてたの? あんたにしては早いじゃない、ルロイ」


 金髪の美女が、顔に似合わない男勝りの口調で言った。


「アンナ、おれの責任です。ルロイに持たせた荷物が予想以上に重かったようで。……あれ、リンは」


 もう一人のメンバーが見当たらないので、デイルは彼女にたずねた。


「あの子はだいぶん先まで行っちゃってたから。もう少ししたら来るんじゃないかな」


 アンナが言うと、彼女の後ろにくっついていた少女、ランも、黙ってこっくりうなずいた。

 デイルはため息をついて首を振った。リンは、ランの双子の姉にあたる。本部が選んだメンバーなのだから文句は言えないけれども、なんだってこんな子供を二人もチームに入れたのか。ここにいるランはまだ大人しいが、その、先へ行ってしまったというリンの方が大問題で、女の子なのだが、男の子でも敵わないくらいやんちゃである。おかげでこの仕事中、何度冷や汗をかいたか知れない。




 デイルは、チームリーダーとしてこの仕事を受ける前に『無理だ』と上司の前で断言していた。理由は三つある。一つ、メンバーの編成に無理がありすぎて、自分一人ではフォローしきれないこと。二つ、チームリーダーとしての初任務にしては、仕事の難易度が高すぎること。三つ、そもそも自分がチームリーダーをするには若すぎて、メンバーの批判を買うであろうということ。

 結局一つ目の文句については、ベテランのアンナをチームに入れることで譲歩させられた。また二つ目と三つ目については、上司の「大丈夫、君ならできるさ。私は君を信用しているんだよ」という言葉で片付けられてしまった。


 案の定、仕事は困難を極め、計画を立てた時点で既に寝不足で死にそうになっていた。また心配していた通り、チームリーダーになった途端、先輩リーダー達から陰湿な嫌がらせが始まった。せっかく書き上げた計画書のデータを消されたり、チームリーダーの素質を疑われるようなひどい噂が流されたりと散々である。それを考えると、ここまで仕事を達成できたのは奇跡に近いかもしれない。




 とにかく、やることはやった。あとは本部に帰り着くだけ。よほどのことが無ければ、もうそれほど冷や汗をかく必要はなかろう。と、彼は思っていた。これが終わったら長い休暇をとろう、友人を誘ってどこかでぱーっと金を使おう、などということばかりが頭に浮かぶ。彼の中ではすでに仕事は終わったも同然だった。


 五分くらい休憩して、また出発することにした。リンはまだ戻ってこない。こんな道なき樹海の中を、いったいどこまで行ってしまったのだろう。


「まあ、無線も方位磁針も持っているし、大丈夫じゃないか。あいつはああ見えて、割としっかりしているから」


 ルロイが再び、あの忌まわしい荷物を担ぎながら言った。少しよろめく。


「おい、大丈夫?」

「大丈夫に見えるか」


 ルロイはまた顔をしかめた。再び恐ろしい形相になる。今度はこちらが非難されているのだから、彼の表情はしっくりくる。


「ラスティを呼んでくれよ。こいつを背中に乗っけて運ばせればいいじゃないか」

「ダメだよ。あいつはそれの匂いが嫌いらしい。呼んでも出てきやしない」


 デイルは肩をすくめた。

 ルロイはしばらく不満そうにしていたが、その表情がふとゆるみ、眉根を下げて不思議そうな顔になった。「変だな」と言う。


「どうかした?」アンナが尋ね、ルロイに目をやった。


 すると瞬間、はた目から見てもわかるくらいに顔色が変わった。そしてあまりにも急すぎる動作で、デイルの腕をぐいと引く。おかげでデイルは危うく転びそうになった。彼女は時折こうした軽率な行動をとることがあるので、デイルは彼女があまり好きではなかった。少なくとも、先輩として尊敬できるとは言い難い。


「何」

「あれ!」


 彼女は懸命にルロイを指差していた。目が驚きに見開かれ、鮮やかなブルーの光彩がぎゅっと収縮して小さくなっている。


 よく見れば、指はルロイのやや右上あたりを向いていた。当のルロイは何事かわからず、ぽかんとしている。「見えるだろ!」アンナが叫んだ。


「あれだよ!ほら、動いてる!」


 デイルは最初、それを見て、ルロイの肩に木の枝がくっついている、と思った。良く見ると木の枝はもぞもぞと動いていたので、デイルは次に、ナナフシか何かがくっついている、と思った。だが、そのナナフシは、ルロイの背中から全貌を現すうち、あり得ないほど太く巨大になった。


 その事実に気付いた瞬間、デイルは頭の上にクラッシュアイスをぶちまけられたようなショックを受けた。それは、ルロイの背中の荷物から突き出していた。




 茶色く、しなびて、細長い―――




 それが首筋に触れ、骨と皮しかない、針のような細い指が食い込んできたところで、ルロイの口からようやく、声にならない悲鳴が漏れだした。


 勢いよく荷物が放り出され、鈍い音を放って木に衝突する。


 白い布がめくれ、中から茶色く干からびたそれが、露わになった。



「何なんだ! 一体、これは、何なんだ、生きてるじゃないか!」



 今しがた引っ掻かれた首筋を手でかばいながら、ルロイが半ばパニックになって叫んでいる。横ではアンナが、デイルの腕をつかんだまま凍り付いており、その下にはランがアンナにくっついて、こちらも微動だにせずそれを凝視していた。


 それは、ゆっくり、ゆっくり、腕と思われる部位を動かして、周囲をまさぐった。


 頭にあたるしわくちゃの突起は、向こうを向いているらしく、顔らしいものは見えない。

 白い布の下から胴体が少しずつ現れ、やがてくっきり骨の形が浮き出た背中がはいずり出てきた。背骨は、人体模型で見るよりもかなり鋭くとがっていて、皮膚を突き破っていないのが不思議なくらいだった。



 デイルの頭は先ほどからずっと、この事態を理論で固めようとフル回転を続けていた。

 しかし彼はほどなく頭を振り、無駄な努力をしていた自分に腹を立てた。


 この事態を論理で説明しようとは、ばかなことを。起こってしまったのだから、それを柔軟に受け入れ、対処方法をとっさに考えられればこそのリーダーだ。おれはリーダー失格だ!




 デイルはまず、チームメイトらに「落ち着け」と声をかけた。自分でも、予想以上に低く落ち着いた、大人びた声が出た、と思った。それから深呼吸して、メンバーをゆっくり見回した。

 みんなまだ、放心したままそれを眺めている。今動けるのは、どうやら自分だけらしい。

 デイルはもう一度、大きく深呼吸した。からっと乾いた、冷たい空気が流れ込み、頭が冴えわたる。気持ちを切り替える時、こうして一度深呼吸するのがデイルのくせだった。これで幾度となく、深刻な事態を乗り越えてきた。


 だがこの時は、深呼吸すべきでなかった、と後で死ぬほど後悔した。


 冷たい空気と同時に、まったく異質なものまで頭に流れ込んでくるのが感じられた。

 しまった、と思ったが、もう遅い。



 急に身体中の水分が蒸発したかのような乾きに見舞われ、砂漠の中を歩いているかような熱さとめまいに襲われる。


 息が、できない。


「ああ……」


 さっきのしっかりした声とは打って変わって、自分のものとは思えないような干からびた声が、口から漏れだした。


「水を……水……たすけ……」


 無意識に喉から声が絞り出され、デイルは激しく咳き込んだ。


「デイル! どうしたの!」

 近くでアンナの慌てた声が聞こえた。どうやら我に返ったらしい。

 デイルは答えなかった。答える余裕はなかった。こういう時、一瞬でも気を散らせば命取りになることを、彼はよく知っていた。


 彼は目の前の茶色い異物を、彼が感じている苦痛の根源を、思い切り睨みつけた。



 今彼は、間違いなく、その干からびた物体が感じたものを、そのまま感じていた。



 彼にとって、これは別に不思議なことでも何でもない。日常、気を許せばいつでも、誰とでも、起こりうることだった。それは、相手が人間ではなく、ちっぽけな小動物や、虫の時でさえ起こる。


 生物という生物が感じたことを、そのまま自分も体感してしまうのだ。


 幼いころ、この特殊な体質によって何度命の危険にさらされたか知れない。今でも、思い出しただけでぞっとする。なにせ、蚊の一匹を叩いて潰しただけで、(あるいはすぐ近くで他の誰かが潰しただけで、)あまりのショックに失神してしまうのだ。

 死ぬ思いをして、ようやく自分で制御できるようになったのは、だいたい十歳くらいの時だったか。それでもこうして、ひどく強い感情の波に不運にも遭遇してしまうと、それが勝手に流れ込んできて支配しようとする。




 デイルは必死で、このひどい苦痛の波を、頭から追い出そうとした。

 近くにある木にしがみつき、そこが湿気の多い森の中であることを思い出させる。手に湿った苔がぬるりと触れ、そこに頬を押しつけると少し楽になった。

 さらに、ばしゃっという心地よい音とともに、頭から命の水が降り注いだ。良いタイミングだ。横を見ると、アンナが手にアルミ製の水入れを持って立っていた。


 それを起点として、一気に苦痛を頭から追い出す。デイルはそれが出て行った瞬間、すかさず、『乾き』と『熱さ』という感覚にふたをした。

 デイルはしばらく目を閉じて、ふたがしっかりかぶさったことを確認していたが、やがて目を開けた。わずかに出どころの分からない気持ちの悪さが残っているものの、もうあの化け物を直視しても大丈夫だった。


 「ありがとう」アンナに向って言うと、すでにアンナは彼の横にいない。


 見回せば、彼女は斜め後ろにいて、地面にかがんでいた。「しっかり! 熱があるの? あんたまで、なんだってこんな時に!」地面には誰か倒れている。彼女はその人物に呼びかけているのだった。



 ルロイだ。なぜ、あいつまで倒れたんだ?



 デイルは、その蠢く茶色い物体をを眺めながら、考え始めた。しかし、彼の直感がすぐに答えを一つに定めてしまった。他の可能性を考える間もなかった。冷静で、理由をつけないと気が済まない頭の中のもう一人の彼が、今一度考えてみるようにとたしなめる。



―――あの苦痛に襲われる前、吸い込んだ空気がなぜかひどく乾燥していて



―――あのミイラは水を求めている、異様なまでに水分を欲して、まるで砂漠にいるかのように



―――ルロイはさっきほとんど汗をかいていなかった、熱がある = 脱水症状。



 冷静な彼は、もっと証拠を集めよ、と言った。彼はその異物に近づいた。後ろからアンナが何か言っていたが、彼の耳には言葉として認識されなかった。


 近づくと、湿った落ち葉のような、土臭い匂いが鼻をついた。それはもう、かなり這い進んでいて、一メートルほども這った跡がついている。そこの土を手でかいてみれば、思った通り、まったく湿っていない。まるで砂のようにぱらぱらと指の間を抜けていった。


 ああ、あれは本物の怪物だ。まったく、あり得ない。


 彼は思った。だが、事実だった。




 ―――どうやら奴は、周りの水という水を吸いつくす気らしい―――




 背負っていたルロイは相当量の水分を吸い取られたに違いない。重量が増えたのもそのためか。だから、ひどい脱水症状に陥った。気を失っているようだし、早くこの場から彼を離さなければ。いや、おれたちだって、早く離れないと彼の二の舞になりかねない。

 あれを置いて逃げるか? ダメだ。あれは貴重な証拠品。サンプルなのだから。生きているともなればなおさら。なんとかして持ち帰らなければ。


「川だ!」


 デイルは振り返って叫んだ。「川を探すんだ!」




あっちにあるよ…!


 ふいに下の方から、子供らしいきんきんした声が聞こえた。いつの間にやってきていたのか、リンが少し下の方で叫んでいた。「川でしょ! 向こうにあるよ!」


「どうする気?」


 アンナが恐る恐る近づいてきた。


「おれの言うとおりにして。お願いします。こいつを川に放り込むんだ。早くしないと、おれたちまでミイラになっちまう」


 てっきり理由を問いただされるか、さもなくば置いていけば良いと言われるかと思いきや、アンナはあっさりうなずいた。なぜか、彼女は何も考えていないように思われた。それとも、考えられないのだろうか。

 デイルもうなずく。そして、「ラスティ!」と大声で呼んだ。次に、三度、強く手を叩く。三度叩く時は、どんな場合であろうとも絶対にデイルのもとへやって来なければならない。そう、決まっている。




 ほどなく木々の間から僅かに差し込む光が、金色の立派な毛並みを照らし出した。人の頭ほどもある大きな前脚でばきばきと枝を踏みしだき、木々の陰からぬっと顔を出す。馬ほどの大きさもある筋肉質な身体が、しなやかに木々をすり抜けた。顔を見ればネコ科の動物であることは分かるが、三十センチはある異様なまでに長い牙が二本、口から突き出している。

 ラスティは頭を低く保ち、いったい何用か、とでも言わんばかりに、主人を少し反抗的な金色の眼で見つめた。



 いつもに比べれば、かなり気が立っている。デイルは思った。あの化け物のせいだ。


「大丈夫だ。あれはおれたちがなんとかする。お前はあっちの、ルロイを頼むよ」


 デイルが指差した方を見、今は大分遠くまで這いずった例の異物を一瞥すると、ラスティは安心したように長い尻尾をひるがえしてルロイの元へ向かった。


 気を失っているルロイは、相当重かった。アンナと二人でなんとか持ち上げて、ラスティの大きな背中へうつ伏せに乗せる。


「落とすなよ」


デイルはラスティの鼻面をぽんと叩き、言った。


「いいか、おれたちの周囲二十メートル以内から出るな。呼んだら戻ってくるように。ルロイの身に危険が迫ったら、お前がなんとかするんだ」


 ラスティは、まるでその言葉を理解したかのように短く唸り声を出して返事をした。そして、ルロイを落とさぬようゆっくりと、デイルたちに背を向けて歩き出した。




デイルは、あの化け物をゆっくりと振り返る。五メートルほど前方に、それは蠢いている。


「あたしがやる」


アンナは一言、無造作にそれに近づいた。手をかける。


 最初は恐る恐る力を入れていたようだったが、だんだん動作が大胆になった。重いのだ。傍目から見ても、渾身の力を入れているようだったが、それでも上半身がやっと持ち上がった程度。


 リンが駆け寄って、アンナを手伝う。ランは手伝おうとしない。怖いようだ。アンナが行ってしまったので、今度はデイルの腰にしがみついている。


 デイルは、それに触りたくなかった。怖いわけではない。ただ本能が、あれに触れてはいけないと警告を出していたのだ。だが、そうも言っていられない。


 ランの手を払い、二人に駆け寄る。三人がかりで、やっと全身が持ち上がった。




 三人は川へ向かって走り出した。川の方向を知っているリンが、率先して走ってくれる。




 化け物は、重かった。さっき持った時より、ずっと重い。これは果たして、吸い取った水分だけの重さだろうか。


 指に触れる感触は、もはやミイラのそれではない。


 温かく、柔らかい。


 乾燥した皮膚の下に、確かに命が脈打っていた。




 デイルはずっと、息を止めて走っていた。息をする余裕を持てない。




 ふたが、ずれかかっていた。がたがたと揺れて、今にもはじけ飛びそうになっている。


 デイルはそれを元へ戻そうと奮闘していたが、この苦痛の根源に触れている以上、もはや止められなかった。強く強く吹き上げる欲求は、化け物が腕の中でゆっくりと蠢くたび、デイルの心をむち打った。




 耐えきれず、息を思い切り吸い込む。


 同時にふたが、音を立てて砕け散った。




 足がもつれる。目が、口が、みるみる乾いて、前が見えなくなっていく。


 耳鳴り。吐き気。


 さっきまで気になっていた腕のだるさが、頭がしびれていくにつれてぼやけていった。同時に他の色々な感覚まで、奪われていく。




 隣でアンナの声が聞こえた様な気がしたが、内部から発せられる雑音にかき消されて何を言っているのかわからない。

 そちらを見ようにも、痛みで首が回らない。


 彼は今、走っているのか止まっているのかも、よくわからなくなっていた。ただ、行く手に何か、きらりと光るものがあり、それがだんだんと視界を覆っていくのだけはかろうじて感じた。




 自分の苦しげな息遣いだけが聞こえる。


 息をするたび、喉を内側からえぐるような痛みが走る。他の感覚はぼやけているのに、痛みだけは一層強く感じた。



 あれから、どれくらい走ったのだろう。いつまで、走るのだろう。



 ふいに身体がふわりと浮き、平衡感覚を失う。

 よくわからない騒音が耳元で聞こえ、音が突然くぐもった。




 アンナの金色の髪が視界を横切ったような気がした。


 ただ、それはなぜかゆらゆらと揺れていた。

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