第五話 この上なき秘宝 その七
そして、いく時かの後。
長いす横の卓の上に置かれた燭台の蝋燭だけがともる、薄暗い部屋の中。エミリアはハート型のクッションを抱きしめ、魔法使いの眠るベッドの傍らに立っていた。
それはそれはじとっとした、恨めしい眼差しで、
ほんとに眠ってる……。
宣言どおり、安らかな寝顔を浮かべて眠る魔法使いを前に、エミリアは手に持つクッションで口と鼻をふさいでやりたい気持ちになった。
一緒に不眠の世界へ引きずり込んでやろうと思ったのに!
エミリアの前に横たわるのは、長々と続くだろう夜の暗闇。そして、おいでおいでと手招きする眠りへのいざない。正直、睡眠不足と疲労でエミリアの眠気はピークに達していたが、今にもその誘いに乗ってしまいそうな気持ちにもなっていたが、絶対絶対、眠ってはいけないのだ。そう、その先に待つものは悪夢……なのだから。
エミリアは時々遠くなりそうになる意識を何とか繋ぎ止めながら、指にはまる指輪を見て現実を思い出し、どうにかして目を覚まさせようとした。
だがやはり、押し寄せる睡魔には勝てない。とうとうエミリアは誘惑に負けるようにして長いすに身を預けると、眠りの波へと飲み込まれていった。そしてつかの間の安眠の後、やがて聞こえてきたのは、
ギ、ギ、ギ、ギ、ギ……
いつもの如く耳障りな声。と同時に胸の上に何かがのしかかる感触がし、瞼を開けてみれば、あの小竜が鋭い目をぎらつかせてエミリアへと迫ってきていた。そして段々とその顔を近づけてくると、鋭い爪を持つ手で、エミリアの顔を……
「いっ!」
頬に感じた痛みでエミリアは起き上がる。そう、小竜はエミリアの頬を引っかいたのだ。エミリアは卓の上の燭台を手に取ると、鏡の方へと向かった。そして痛みの走った所を見てみると……
ごく軽くだが、やはりそこには引っかき傷のようなものが出来ており、薄く血がにじんでいたのだ。
眠りを重ねるうち、少しずつ行動がエスカレートしているようにも感じる小竜。次の眠りでは何が待つのだろうかと、エミリアは不安に胸が締め付けられた。
そしてその不安を紛らわせるよう、エミリアはベッドの上の魔法使いに眼をやる。
変わらず静かな寝息を立てて眠る魔法使い。
できれば彼を起こしたかった。この闇の中、一人置いてけぼりは、なんとも心細かったから。だが、例えハート型の枕でも、ここまで安らかに眠れている魔法使いを起こすのはどうにも忍びないものがあった。いや本当は、起こした後が怖かったのだが。
さらに、眠れないことで体が緊張してしまっているのだろうか、エミリアはさっきからトイレにいきたくって仕方がなかったのだ。全くこんなときに限ってとため息つきたくなるが、生理現象ゆえ仕方がない。だが、待っているのは不気味な雰囲気をかもし出すこの古い屋敷の、夜の暗闇。そしてトイレの場所は全く分からず……そんな中でそれを探すのはとても怖くて、出来ればずっと我慢していたいエミリアだった。だが、流石にもう限界だと、エミリアは燭台を手に物音を立てないよう扉を開けると、部屋から廊下へと出た。縦にまっすぐ伸びる廊下。もう灯りは消してあり、エミリアの手に持つ燭台と、窓からの月明かりだけが、その場所を照らしていた。勿論人は誰もいない。静けさに怯えながら、かといってこの空間に物音が響くことにも恐れながら、エミリアは歩を進めていった。だが、広大なこの屋敷、扉が居並ぶその空間は、一体どれが目的の扉なのかさっぱり見当をつけることができなかった。下手に歩き回ったら逆に自分の部屋の扉が分からなくなりそうで、あまり先に進むことも出来ず、エミリアは戸惑って立ち止まってしまう。すると、
「何かお探しかしら?」
不意に声が背後から響いてきて、エミリアは驚いて後ろを振り返る。
するとそこには、真っ直ぐな長い髪をたらした、エミリアより二、三歳ほど年下のように見える一人の少女が、微笑を浮かべながら立っていたのだ。この時間にまだ起きていた人がいることに驚きながら、だが助けが入ったことにホッとしてエミリアは、
「いえ、トイレの場所が分からなくって……」
少し照れたようにそう言う。すると少女は更に人懐っこいような笑顔で、
「あなた、見かけない顔ね、お客さん?」
「はい、ここのご主人から仕事の依頼を受けた、魔法使いの助手です」
「ふーん、お部屋はどこ?」
「えー……男爵が確か、我が家のスイートルームと……」
「ああ、あの趣味の悪い部屋」
まあ、確かにそうなのだが、あまりにはっきりものを言うその口調や、気さく過ぎるともいえる態度に、もしかして使用人ではない人物なのだろうかと、エミリアの胸にそんな思いが過る。だが、今はそれを深く考えている場合ではなかった。
「ところで、あの……トイレなのですが……」
取り敢えずの優先事項はこれと、我慢しきれずにエミリアは少女に尋ねる。すると、
「ふふ、わざわざ探す必要はないわよ。部屋に備え付けてあるから。もう一度よく探してみるといいわ」
そう言って、もう用事は済んだとでもいうように、その少女はエミリアの前を通り過ぎてゆくのだった。だがふと思い出したように振り返ると、
「そうそう、ここの者達には用心よ。忠告しておくわ」
それだけ言って再びエミリアに背を向け、ここから去るべく長く続く廊下を少女は駆けていった。それはどんどん、どんどん真っ直ぐ進み、そして段々姿を小さくし、
ふっ
廊下の途中で消えたのだった。
え?
エミリアは目をぱちぱちしてみた。ついでにこすってもみた。だが、そこには誰の姿もない。本当に不意にかき消えるよう少女の姿は見えなくなったのであった。
幻ではない出来事。
「で、で、で、で、」
言葉も出なかった。言葉も出ないまま、恐怖で縮み上がりそうになりながら、エミリアはズリズリと廊下を後退ってゆくと、やがて自分の部屋の前まで戻ってきた。そして、素早く開けた扉に身を滑らし、
「出ました~!!」
魔法使いに向かって大声で叫ぶ。そう、こんな状態で相手の迷惑など顧みてなんぞいられないのだ。するとそれに驚かされたよう魔法使いは飛び起きて、
「な、なんだ?!」
「で、で、出ましたよ、出ました、これが……」
エミリアは魔法使いの枕元へ寄ると、燭台を持ってない方の手を鎌のように曲げてお化けを示す仕草をする。するとそれに魔法使いは不機嫌な様子で目を細めると、
「なんだ、そんなことで起こしたのか。熟睡を邪魔して」
「なんだじゃありませんよ! 私よりちょっと年下くらいの女の子が話しかけてきて、そして、たたたっーって、走り去っていったら、突然ふって姿が消えて……」
「階段でも下りたんじゃないのか?」
「違いますよ~! ほんとに突然消えたんですから!」
「まあ、これぐらい古いやしきなら、お化けの一つや二ついてもおかしくないだろう」
そう言って魔法使いは再び眠りにつこうと布団に潜り込む。
それはやけに落ち着いた態度であったが、発せられた言葉はエミリアにとって聞き捨てならないもので、
「そ、そういうものなんですか?」
なにせ超自然を扱う魔法使い、そういったことの知識や経験は色々あるのだろう、だからこその、このやけに落ち着いた態度、そうに違いないとエミリアは思わずといった感じで一歩後ずさる。するとそれに魔法使いは、
「寝る前にも、何か視線を感じた。もしかしたら、それかもしれないな」
その言葉に、不意に何かに気づいたよう言葉を止めて辺りを見回した、寝る少し前の魔法使いの姿がエミリアの脳裏に蘇る。何事かと不安にエミリアは思ったものだが、やはり、あれは……。
「ひぇ~! やっぱり、この屋敷はお化け屋敷なんですね。帰ります、帰ります~!」
「ああ、うるさいな、眠れないじゃないか」
喚くエミリアから逃れるよう、魔法使いはそう言って寝返りを打つ。
そう、この怯える自分に気にも留めないかのよう、一人安穏とした眠りの世界につこうと……。
そしてエミリアに待つのは闇。ただ一人の、果てしなく長い……。
それにエミリア冗談じゃないと、ガシッと魔法使いの肩をつかんだ。そして、
「こうなったら一蓮托生、今夜は眠らせませんよ……」
寝不足の目に剣呑の色をにじませて、おどろおどろしい気を発散させながらエミリアはそう言う。そう、相手は可愛い女の子、言葉だけをとらえれば、男としてそれはそれは非常に嬉しい筈のおねだりで……。だが、こんな状況で言われてもちっとも嬉しくないおねだりに、魔法使いは思わず顔を引きつらせると、
「絶対寝てやる!」
「わ~た~し~を一人にはさ~せ~ませ~んよ~」
燭台を手に不気味に迫るエミリア。その灯りに照らされたエミリアの顔は鬼気迫るものがあり……。
「!!!」