第三話 過去という名の鎖 その十五
悲しすぎる、悲しすぎます、お師匠様!
そうだ、思い出した、二年前のこの事故を。当時新聞をにぎわせていたではないか。一面を飾るその記事と共に、魔法使いを嘲るよう事故の有様について描かれたカリカチュアが載っていたではないか。
そんな出来事があって、この悲しい現実から逃れるよう彼は森に引きこもるようになったのだ。そして、叶わぬ夢を胸に、無謀ともいえる再生魔法の研究を始めたのに違いない。生き返らせる、確かにそれが最終目的だったのかもしれないが、それだけでない、その過程で生み出されるだろう傷を癒す力の進歩も願って研究をしていたに違いない。それはきっと、助けてやれなかった彼女への償いの意味も込められており……。転移魔法を封印して馬車を使うようになったのも、居場所を突き止められるのが嫌だったからだけではない、彼女を思い出すのが辛かったからなのだ。乱れに乱れ、本や殴り書きのメモ紙や枯れた植物などが散乱していたあの屋敷だって、もしかしたら彼の心の乱れを現していたのかもしれないではないか!
「この事故の後、彼は業務上過失致死の罪に問われた。事故を起こした直接の原因はハーヴェイの操作ミスだったが、上司という立場から、彼にも監督責任があったのではないかということでね。元々がワンマンな彼であったから、それが取り上げられて、彼の無謀さが今回の事故につながったのではないかと叩かれた。だが、彼は無罪。魔法の実験には予測不可能な危険が常に付きまとっているものであり、細心の注意を払っていてもそれを回避するのには限界があること、また魔法使いという突出した力を持つ者であれば、よほどの新人でない限り自分の身は自分で守る能力が備わっていると考えるもの、という過去の判例が彼を救った。ハーヴェイは熟練した魔法使いであり、普段ではありえないようなそんなミスを犯すのを予測することはレヴィル氏でなくとも難しかった。また新人ではないということはフィラーナも同様。そして極めつけは彼女以外皆シールドを張って無事だったこと。何度も室長である彼がシールドを張るよう指示したのに、彼女がそれに従わなかったこと、それをその場にいた誰もが目撃していたことが彼の無罪を決定づけた。だが、無罪にはなっても、事故を起こし研究所に甚大なる損害を与えたことには変わらず、歳若い彼が室長の座にいることを快く思わない者達が、流石にこのままではいけないのではないかと、彼に研究所を辞めるよう迫った。だが、彼は首を縦には振らず、三ヶ月だけ待って欲しいと言った。それに上層部は喧喧囂囂としたが、彼の直属の上司が周りを抑え、とりあえず三ヶ月待ってみることにした。すると彼は、魔方陣と魔法使い五人だけで大量輸送が出来る魔法を完成させたのだよ。魔具は必須であったこれまでと比べると、飛躍的な進歩だ。そしてその後、彼は周りの要求を呑んで研究所を辞めていった。だが、そんな彼の後を継ぐというのは大変なことだ。特に転移物の遠隔操作というものは魔法使い個人の技能が問われるものだからね。それから残念なことに、大量輸送の転移魔法は進展を見せなくなってしまった……」
事故や裁判の話だけでなく、その後の話もエミリアは知っていた。何故なら、この件を追ったゴシップ紙が記事として報じていたから。あのような惨事を引き起こした実験に、再び挑戦しようとは狂気の沙汰かという文と共に。だが実験は見事成功し、魔法使いは自らの力をもって周囲を黙らせたのだった。
その時エミリアは、話題のタネとして興味本位に記事の字面を追っていた。だが魔法使いを知り、あの場面をこの目で見た今なら理解することができる。叩かれることを覚悟してまでその実験を行おうとした理由を。彼にとって、彼女が見つけた実験の失敗の原因は、彼女から託された遺言のようなものだったのだろうから。彼女が死と引き換えに残していった言葉を手掛かりに、実験を成功させることが、この研究所でやらなければならない最後の仕事と彼は思ったのだろう、彼女の死を無駄にしない為にも。
だが、そのどれもこれもが魔法使いにとってはつら過ぎる記憶であるに違いない。忘れてはならないが忘れたい、だが忘れられない残酷な記憶。
それなのに……。
「こんなことをして、どうしようっていうんですか! お師匠さまを苦しめて、あなたに何の利益があるって言うんですか!」
「苦しめてるって……ただ理由もなく苦しめている訳じゃない。目的があってやっていることだ」
「目的……?」
「契約書にサインをしてもらおうと思ってね」
「契約書……?」
「わが国のために尽力をつくすという契約書よ」
それにエミリアは鼻で笑い飛ばした。
「そんな契約書、お師匠様が正気に戻ったら、すぐに破棄ですよ! 紙切れに縛られるような人じゃありません!」
「破棄出来ない契約もあるということを、知らないのかね、お嬢さん」
「破棄出来ない契約……まさか」
一度結んでしまったら、どんな抵抗を試みても自分からは破棄出来ない契約が確かにあった。それはこの国に流れる黒い噂とも連結していて……。
「血の契約……」
「ご名答」
エミリアの正解を祝して、女性が場違いともいえる悠然とした微笑を浮かべる。
血の契約、それは自分の血をもって悪魔と契約すること。悪魔の力によって、契約者は一生その契約内容に縛られることになる。
一生……。
契約を交わしてしまったら、取り返しのつかないことになる。今まさに行われようとしている事の重大さに、エミリアの背に冷たい汗が流れた。
「お師匠様はサインなんかしません! たとえ心が弱くなっていたとしても、それがしていいことなのか悪いことなのか判断する能力ぐらいはあります!」
「普段の彼ならば……な。だが、あの結界の中には動揺を誘発する精神魔法もかけられている、心弱くなっている時に、更に魔法で心を揺さぶられたら、いくら彼でも抵抗できないだろう」
女性の言葉に不安になって、エミリアは慌てて魔法使いの今の様子を見遣った。するとそこには、かつての恋人を目の前に、明らかに打ちひしがれていると分かる魔法使いの姿があった。
「お師匠様……」
お師匠様に限って、そう思いつつも不安は拭い去れず、エミリアの口からつい心細げな言葉が零れる。
このままでは心が負けて、契約書にサインしてしまうかもしれない、そう思わせるような魔法使いの様子であったから。
今ここでお師匠様を助けられるのは自分しかいないのだ。自分が何とかしなければ、この状況を変えることはできないのだ!
だが手は縛られ、横にはぴったりと女性が付き添い、エミリアの挙動を逐次監視していた。そんな状態で出来ることなど限られており、エミリアは自分の非力に腹が立つと、せめてあの腕輪だけでもあればと、女性が先程それを置いた傍らの卓の上を気づかれないようチラリ横目で見てみた。だが、
ない!
つい先程まではあったはずなのに、腕輪の姿がそこから消えていた。女性がどこかへ移動させた気配もなく、エミリアは訝しく思いながらその行方を探すべく視線を他に移そうとすると……。
??
不意に、後ろ手の手の平にひやりと冷たい何かが乗せられた。それは固くて細い輪のようになったもので……。
腕輪?
確かめるべくその輪を掴み、表面を撫でるように指を這わせていく。すると何かを刻んだ様な無数の凹凸が指先に伝わり……この感触はやはり魔法使いがエミリアに渡したあの腕輪に間違いなかった。一体誰が……振り返りたい気持ちにとらわれるが、だがそんなことをしては女性に不信がられてしまうと、努めて平静を装って思考をめぐらせた。すると、再びまた別の何かがエミリアの手の上に乗っかった。それはいくつかの尖った切っ先を持っていて、それ程ではない重さが、軽くエミリアの肌を刺す感覚と共にかかる。そして、
つんつん
エミリアの手をついばむように、また違った感触の固い何かが押し付けられたのだった。それは……。
スズメさん!
ついばむそれはくちばしと、手の上に乗るその切っ先は足先と察して、エミリアはそう判断する。
どうやって……。
そう思っていると、スズメは腕輪をエミリアに渡して手の上から離れ、彼女の穿くズボンのポケットの中へと入っていった。
なるほど、自分か魔法使いかのポケットに潜り込んでここまでやってきたのか、エミリアはそう悟って納得すると、こっそり隣の女性を探り見た。
すぐ隣にいる女性は、この異変に気付く様子も無く魔法使いの姿に釘付けになっている。どうやら自分の仕掛けた罠に酔っているようであり、幻影を前に動揺する魔法使いの姿を微笑みすら浮かべて見つめていた。
もしかしたら、今がチャンスなのかもしれない。この腕輪が結界をも破って魔法使いに届くか確証は無かったが、何もやらないよりずっといい。エミリアは腕輪の力を信じて念を込め始めた。
届いて! お師匠様に!