第一話 令嬢と性悪魔法使い その四
あれから侍女のティアをまき、予定通りレッグスター邸までやってきていたエミリア。徒歩で行ける距離であるこの場所に、先の行程に問題はなく、エミリアはこうして目論見どおり一人ランバートを訪ねることに成功したのであった。
今はランバートが去り、客間に一人残されたという状態。そんなエミリアの胸には、何とか乗り越えるべき壁を乗り越えた安堵感が過っていた。何故結婚が嫌なのか問われた時は一瞬言葉に詰まってしまったが……まさか、陛下が嫌だからとはとても言えない……何とか上手く切り抜けられたようで、我ながら中々いい調子で事は運んでいるのではないかと、少々浮かれ気分ですらいた。
はあ、後はもうどうにでもなれよ。
とりあえず待つだけの身となって、エミリアは満足感と共に気を緩めてソファーの背もたれに身を預ける。だが、その気持ちも長くは続かなかった。十分二十分と時間がたつにつれ、勝利への陶酔感は段々と薄れてゆき、三十分後にはどこか憮然とした様子でそこにたたずむエミリアの姿があった。
おもてなしの紅茶はすっかり冷め、何もする事がなくひたすら待つだけの時間が悠然と横たわる。三十分、待たせるにしても少々遅すぎるのではないかとエミリアは思った。いつもならこんなことは無いと、中々現れぬ人に苛立ちながら、少々不可解な気持ちを抱いた。そして、今更ながら気になってくるのはエミリアと話している時のランバートの態度だった。エミリアが本題に入ると途端にランバートは顔を青ざめさせ、どこかあたふたとした様子になり、しどろもどろにしばらく待っていて欲しいと言って去ってしまったのだ。まるでエミリアの話をどこかに置いておきたいかのように……。
何かおかしい、と感じていた。
何がどうと、具体的なことは分からないのだが、嫌な予感がしていた。
もしかしたら自分は夢を見ていたのだろうか? 甘すぎる考えだったのかもしれない自分にエミリアは気付くと、渦巻く予感を胸に通された客間をこっそり抜け出した。
ランバートを問い詰めようと思って、その姿を探すべく部屋を抜け出したのである。仕事というのなら、ランバートは自分の部屋にいるのかもしれなかった。ランバートの部屋は二階にある、あくまでこっそり探したかったエミリアは、目立ってしまいそうな玄関ホールにあるメインの大階段を使うのは避け、屋敷の奥まったところにある小さな階段を使うことにした。そしてエミリアは周囲に人気がないことを確認すると、真っ直ぐに伸びる廊下を奥へ奥へと歩いていった。すると、
「でも、どうして今ごろエミリア様がお見えになられたのでしょうねえ。婚約破棄になったのに」
その場所に行く途中扉の開かれた部屋があり、そこでなにやらぼそぼそと話している声が聞こえてきたのである。それも自分の事を話題としているかのような。
「愛しい坊ちゃまに一目会いたくて! とか」
「そうそう、国王陛下との結婚が嫌だったんじゃないの? いい噂聞かないしね」
ここで見つかっては全て水の泡である。話の内容への興味も手伝って、エミリアは壁に体を貼り付けるとチラリ中をのぞき見た。するとそこはどうやら召使いの控えの間らしく、誰かの侍女らしき女性三人が労働の間の無駄話に花を咲かせていた。
「坊ちゃまが何とかしてくれるとでも思ったのかしら」
「愛」
不意に一人の侍女がそう言うと、三人は顔を見合わせクスクスという笑いを漏らした。
「家同士の取り決めに愛も何もないでしょうに」
「確かに」
「旦那様も坊ちゃまも、国王陛下って言葉を聞いただけでびびってたものね」
「そう、陛下の思い人の婚約者なんて、災厄以外の何物でもないというように」
「婚約破棄の話が来た時は、心底ほっとした様子だったわ」
そこで侍女達は「ほんと、ほんと」と頷くと、再びクスクス笑いながら一息つく。だがすぐに堪えきれぬよう一人の侍女が口を開き、
「で、どうするのかしら、今回の件」
「今エミリア様のお屋敷に人を出しているそうよ。家の人を連れてきて、彼女を連れ帰ってもらうらしいわ」
「元婚約者ってだけでも睨まれそうだって、ぼやいてたものね、こういう結果も当然なのかもしれないわね」
「でも、坊ちゃまには愛をみせてもらいたかったわあ。そうしたら素敵な話になるのに」
侍女の一人がそう言って夢見るような表情をする。だが、
「現実は厳しいのよ」
別の侍女があっさりとそれを退けた。
「ほんと、エミリア様がいらっしゃった時の二人の慌てようったら」
その時の様子を思い出してか、到頭我慢できないようきゃらきゃらと声を上げて三人は笑った。その嫌でも耳に入ってくる声を聞きながら、エミリアは心の中で細く輝いていた希望の灯が完全に消え去ったことを感じていた。
ここも駄目だわ。
エミリアは絶望的な気分になった。最後の砦まで失った今の自分に、何が出来るかなんて分からなかった。ただこの場にいれば、両親に引き渡される事は確実だろう。そうすれば監視は今以上に厳しくなり、逃げ出すことは不可能になってしまうのが目に見えていた。
逃げる。
この先どうなるかなんて分からないけど、とりあえず、逃げる!
エミリアはむくむくと湧きあがった闘志に拳を握ってそう決心すると、先へ行くことは諦め、来た道を引き返し始めた。
しんと静まり返った廊下に相変わらず人の気配はなかった。
とりあえずほっと胸を撫で下ろし、きょろきょろあたりを窺いながら、エミリアは歩を進めていった。
レッグスター伯爵邸は何度か訪れている。ここが屋敷のどこにあたるのか、大体分かっていた。ひたすらこの廊下を真っ直ぐ進み、最初の角を右へ曲がれば玄関に行き当たるのだ。後は人に見つからないようそこまでたどり着けるかどうかだった。
音を立てないよう、静かに、静かに、だが急ぎ足でエミリアは玄関目指して歩みを進めていった。勿論前だけでなく、後ろにも気をつけて。すると、
ドン。
「……」
早速背中が何かにぶつかった。後ろにばかり気を取られて、前への注意がおろそかになっていたのがいけなかったらしい。
更にいけないことに、このぶつかった柔らかな感触は、間違いなく人間のものだった。
もう見つかってしまいましたか……。
無念の思いを胸に、エミリアはその者を振り返った。
するとそこには、真っ黒なフードつきのローブを身にまとった男性が立っており、エミリアはその姿を見て思わず息を飲んだ。
何故息を飲んだかといえば……。
その男性は、えもいわれぬ程美しく顔の整った人物だったのである。
年齢は二十代後半ぐらいだろうか、赤みがかった茶色の髪はつややかに流れ、涼しげな切れ長の目には同色の瞳が収まっている。整った鼻梁、透き通った白い肌、どれをとっても女性を思わせてしまう繊細な顔の作りであるのだが、ぶつかったその体は、逞しく広い、明らかに男性のものであった。
ランバートも美形の部類にはいる青年であったが、彼がどこか甘さの残る坊ちゃん的な美形であるとすれば、目の前にいる彼は、研ぎ澄まされたナイフのような、冷たい鋭さを持った美形であった。
羽織るローブやその胸に縫い付けられている魔法協会のエンブレムから、彼が魔法使いということが窺えたが、どうしてここにそのような者がいるのだろうか? エミリアは考えた。彼女の知る限りでは、レッグスター家にお抱えの魔法使いはいない筈だった。では、彼は客か? ならば、事情を知らないだろう彼が、自分を伯爵達に突き出すようなことはないだろうとふんで、エミリアはほっとした。そしてにっこり微笑んで、ぶつかったことを謝ろうとしたその時、エミリアは魔法使いの表情に気が付いた。
何故か魔法使いは眉間にしわを寄せ、切れ長の目を細め、すさまじい勢いでエミリアを睨みつけているのであった。
な、何か私、悪いことしたかしら。
ぶつかった事がよっぽど腹が立ったのだろうか、他に何かあるのだろうか、訳がわからずエミリアは頭を悩ませていると、
「ふんでいる」
明らかにむっとしていると分かる、地の底から沸いてくる様な低い声で男はそう言ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
エミリアの足が、魔法使いの足を、思いっきり踏んでいた。それも後ろ向きでぶつかったので、靴のヒールの部分が足に乗っかっていたのだ。
恐らく痛かったであろう事を想像して、慌ててエミリアは足をどけると、申し訳ない気持ちにただひたすら謝った。だが魔法使いはそれにうんともすんとも言わず、一瞥をくれると無言で歩みを進め、エミリアの前から姿を消していった。
ああ、なんかやたら迫力のある人だったな。
エミリアは魔法使いの後ろ姿を見送ると、流れた冷や汗を拭い、とにかく切り抜けられたことにほっと胸を撫で下ろして再びその場から歩き始めた。