第三話 過去という名の鎖 その十
砂時計の砂が、じりじりと落ちてゆくような、もどかしい時間が過ぎていった。ただ沈黙の時、流れるままに流れ、一秒一秒をじっと見据えて待ち続ける時間が過ぎる。中々進まぬ時を嫌という程体に感じて、待つということはこんなにも緊張するものなのかと、いささか疲れを覚え始めた時、
「奴のこと、師匠といっていたが、おまえは弟子なのか?」
その沈黙を紛らわそうとでもいうように、不意に女性が話しかけてきた。
「そーですよ、それが何か?」
「いや、それにしては、随分と不甲斐ないと思ってな」
王立魔法研究所、その室長だった者の弟子がこれということに、いささか拍子抜けしているらしい。それはちょっと自尊心を傷つけられるものであったが、事実は事実であるだけに否定することもできず、
「まだ……習い始めたばかりですから」
膨れっ面を崩さないまま、そう言い訳する。
「なるほど。私の情報に誤りがなければ、確か伯爵令嬢と聞いているが」
「それは、本当です」
「それを捨てて、魔法の道か。信じられんな。大人しく伯爵家に収まっていればこんな目に遭わず、安穏と過ごしていられたものを。奇特というか……気の毒なことだ」
「こっちにはこっちの事情があるんですよ」
ここに至るまでには色々ないきさつがあったのだ、こんな状況に陥ったのだって何も好き好んでのことではない。それに第一、気の毒とか言いながらこの状況に陥らせたのはあなた達ではないかと、言葉いっぱいにそうまくし立ててやりたかったが、とりあえずエミリアはぐっと堪える。
「ふうん、事情ねぇ」
尋ねておきながら気はほとんど魔法使いの出現へと持っていかれているのか、興味があるのかないのか分からない表情で女性はそう言葉を漏らす。だが不意に、女性はピクリと体を動かし顔を上げた。そしてしばし耳を澄ますようにして身を固まらせると、やがてニヤリと笑い。
「どうやら私の勝ちのようだね、お嬢さん。結界が破られたよ。……ふふ、よっぽど急いでいるのかな、情報どおり荒っぽい開けかただ。いや、彼の傲慢を表しているのかな、別に隠れなくとも我々など片付けることはできる、と。さあ、お待ちかねのお客さんの登場だよ」
そう言うと同時くらいに、空間の切れ目から滲み出すよう影が現れ、それは次第に人の形を取って姿を露にしていった。それは勿論、来て欲しいようで来て欲しくなかったエミリアの師匠である魔法使いであり……。
「お師匠様!」
「やっぱりおまえらか。相変わらず姑息なまねを……拉致した私の弟子を返してもらおうか」
「お師匠様! 駄目です、罠です。来ちゃいけません!」
やはり彼は助けに来てくれた。態度は相変わらずであったが、その行為は本来ならば嬉しいはずのこと。だが今は……。
嫌な予感が先程からエミリアの胸に渦巻いていて、ここに来てはいけないことをその予感は必死で彼女に訴えていた。
「罠だろうがなんだろうが、私には関係ない。エミリアを返してもらって、さっさと家に帰るまでのことだ」
「ふふ、随分と勝気な御仁だ。だが、いつまでそれが続くかな? イヴァン、エゴール、相手をしておあげ」
それがその者達の名前なのだろう、女性の言葉にエミリアの脇で見張りをしていた男性二人が、前へ進みでる。
そして、
「ケエラ・ネ・モアド・ビタオホサ・ソリヅ・ケイグカ」
「シヲゲア・ヘネエ・ビタオホサ・ホリョス・ケイグカ」
二人が呪文を唱えると、中年男エゴールの手から炎が、若い男イヴァンの手から氷の刃が放たれた。それは凄まじい勢いで魔法使いへと向かってゆき、その体を引き裂こうと彼の身に襲い掛かる。だが、
「テラーウジ・ヒチイナ・ノザキ・サッリデユ・ベイギュ!」
「!」
それを迎え撃つよう魔法使いの口からも呪文が紡ぎ出され、魔法を発動すべく前に出した手によって弾き返されるよう、その攻撃は周囲に霧散していった。
その魔法の完成の早さにうろたえる二人。
だが気を取り直して再び攻撃を仕掛けるべく、イヴァンは右へ、エゴールは左へと、素早く横に移動しながら、
「ケエラ・ネ・モアド・ビタオホサ・ソリヅ・ケイグカ」
「シヲゲア・ヘネエ・ビタオホサ・ホリョス・ケイグカ」
二人は呪文を唱える。
炎が、氷が、魔法使いに襲いかかる。
だがいくら早く呪文を唱えても、術が完成されるのは魔法使いの方が早く、
「テラーウジ・ヒチイナ・ノザキ・サッリデユ・ベイギュ!」
どんな攻撃も彼の防御魔法で弾かれてしまうのだった。
何度やっても、どこから試してもそれは同じだった。
動揺にじっとりと汗が滲んでくるイヴァンとエゴール。
それに笑みを浮かべて魔法使いはにじり寄る。
どうやら魔法の力は魔法使いの方が勝っているようだった。彼らの攻撃を、破られることなくことごとく弾いていることからもそれは明らかだった。その上魔法を完成させる速さも魔法使いの方が勝っているのだから、これはいくら攻撃魔法を仕掛けても敵わないことを意味していた。
それを察して、二人に冷たい汗も流れてゆく。
次は魔法使いの攻撃かと、いつ発動されるか間合いを探り合って、緊迫した空気が流れる。そして、
「シリョゲア・サッリデ・オクショエイ・ベイギュ!」
到頭その緊張に耐えかねて、攻撃される前に身を守ろうと、二人の口からほぼ同時に防御魔法の呪文が唱えられる。だが、
「甘いな。トヲヅメ・カリョショイ・チュイーチリュキ・ネ・マジ・アカホリョスッ・ケイグカ!」
攻撃魔法の呪文が魔法使いの口から紡ぎ出された。それは普通の流水の約千倍もの圧力を持った水を放つ魔法で、音速の二倍以上というとてつもないスピードでその手から彼らに向かって発射されていった。その超圧力の水は何物をも切る鋭利な刃物と化して、彼らの身に襲い掛かってゆく。そしてそれは彼らの作ったシールドをも破壊すると、
「ううう……」
見事その体に命中していった。
まともに当たっていたら体はずたずたに切り刻まれ死んでいただろう。だが幸いなことにシールドがクッションとなり、二人は床に倒れると、苦しげにうめいて気を失った。
「噂どおりのパワーと早さだね。これは是非ともわが国の為に働いてもらわねば」
敵とはいえあっぱれと、感嘆の言葉が女性の口から零れる。だがそれに魔法使いは、
「は、冗談じゃない。後はあんた一人、その減らず口を塞いでやる。降参したけりゃ今のうちだぞ」
「降参? それこそ冗談じゃないよ。私を甘く見ないでもらおうか」
挑戦的な女性の言葉だった。それに魔法使いはニヤリと笑うと、
「随分とした自信だな。ならば、遠慮なくやらせてもらおうか」
そう言って更に前へとにじり寄る。
だが、女性は動かなかった。まるで魔法使いが自分の元へとやってくるのを、じっと待つかのように。本当に攻撃する気があるのだろうかと思う程、女性は挑発には乗らず、どこか歪んだ笑みを浮かべて魔法使いの動きを静観していた。
そして、魔法使いが何歩か進んだ時、
「!」
踏み出したその足が何かのスイッチを踏んづけたかのよう、不意に薄い膜が魔法使いの周りを覆ったのである。
「かかったね」
女性の笑みが更に歪んだものになる。
前へ進もうとしても、後戻りしても、固い見えない壁のようなものにぶつかり、その先に行けなくなる。どうやら四角い箱のような空間に閉じ込められたことを察すると、魔法使いは不敵な笑みを漏らした。
「結界? ふ、これが罠か? だが、これぐらいの結界、壊すことなど簡単だぞ」
「普通の結界ならね。だが、この結界は普通じゃない」
自信満々とそう言う女性に、魔法使いは眉をひそめた。
「どういう……」
こと、と言おうとして、その言葉は宙に浮いた。何かささやき声のようなものが、魔法使いの耳朶を打ったのだ。
何?
それは忘れようにも忘れられない、はっきりと聞き覚えのある声で、魔法使いは動揺を覚えながら、その方向へと目をやった。すると、
「たす……けて。痛い……の」
そこには黒い長い髪の、中々の美人ではあるが、どこか硬質で近寄りがたい雰囲気を持った一人の女性が立っていたのだ。その全身は血にまみれており、痛みに堪えるよう苦悶の表情を浮かべ、何かの救いを求めるかの如くじっと魔法使いを見つめていた。
「室長、たすけ……て」
「フィラーナ……」
魔法使いは動揺した。そう、そこに映っていたのは、かつて恋人だった部下の姿であったのだから。死ぬ間際の彼女を思い起こさせるその鮮烈な映像に、魔法使いの心は大きく乱れた。
※ ※ ※
「ど、どうしたんです?」
師匠の突然の態度の変化に、エミリアは訳がわからず呆然とする。
「力で争っても勝負は見えている。ならば敵の弱点をついていくのが、有効な戦い方ではない?」
「有効なって……」
「力で負けてしまうなら心にダメージを与える。彼の精神的な傷に攻撃を与えて、我々の前に屈服させてやるのよ」
その言葉にエミリアは不安になって、魔法使いの方を見た。そこには相変わらずあの幻影がある。血を流し、悲しげに魔法使いを見つめる女性の姿が……。
「精神的な打撃って……あの幻影、ですか?」
彼女は一体何者なのだろう、魔法使いの過去など何も知らないエミリアであったから、困惑して女性にそう尋ねる。するとそれに女性は意外というように、
「おや、知らないのかい? あの若さで王立魔法研究所の室長だった彼が、そこを去らなくてはならなくなった理由を」
「……し、知りません」
「ふふ、なら良く見ておくことだ。あの空間には彼の記憶が反映されている。私たちが見せた幻影は最初のほんの数分だけ、蘇った記憶が彼を苦しめるのだ。彼は自分で自分の首をしめているのだよ」
「蘇った、記憶……」
せ、戦闘シーンの描写、苦手です……。しょぼくてスミマセン!