第三話 過去という名の鎖 その八
ゆ~らゆら揺れる、みぃ~なも~の月ぃ~。
幼い頃、エミリアにとって夜の暗闇とは、魍魎達の跋扈する恐ろしい空間であった。そんな夜、怖さで一人眠ることができなくなると、エミリアは部屋を抜け出し、母親の元へと行ったものだった。ぐずるエミリアをシェリルはいつも優しく迎え入れてくれ、安らかに眠れるよう抱き上げて体を揺らしながら、そんな歌を歌ってくれたのだ。
正直言って、シェリルの揺らし方は加減というものを知らず、揺らすというより振り回すというのに近かった。実は少々気持ちが悪くなる時もあったのだが、母のぬくもりはいつも心地よく、怯えた心を癒してくれていった。
ゆ~らゆら揺れる……。
ゆらゆらと揺れて……そう、この振動のように……。
振動?
「ん……」
何かが体を揺らすような動きを感じて、エミリアは意識の底から目を覚ました。この揺れが、あまりにも懐かしい夢を見させたのかと、少し感傷的な気持ちになりながら。そして身じろぎをして起きた感覚を確かめようとすると、
「ん?」
何か様子がおかしかった。そう、動かそうとしても体の自由が利かないのだ。
「お目覚めかい、お嬢さん」
不意に声が脇から降ってきて、疑問と共にそちらの方へと顔を向けてみると、そこには屋敷に賊が忍び込んだ時にいたあの女性の姿があった。それに裏庭での出来事が蘇り、エミリアは自分がただならぬ事態に巻き込まれたことを察する。
「あなた達……」
そう言って起き上がろうとするが、やはり体が動かない。その感覚から、どうやら腕を後ろ手に縛られているらしいことが分かった。
「本当は転移魔法で一気に目的地まで行きたいところだが、魔法の筋を追われた時のことを考えてね、面倒だが途中から馬車だ。しばし辛抱してもらおうか」
そう、この揺れは馬車のものだったのだ、幌のついた荷馬車の……。
「私を一体どうするつもりです」
「人質だ。王都に残した仲間がレヴィル氏と交渉に当たることになっている。お嬢さんと引き換えに我が国へこないか、とね。勿論二人いっしょでも構わないよ。今まで以上の待遇を約束してやろう」
その言葉に、以前魔法使いがエミリアに話したことが脳裏に蘇った。
「第一線を退いた魔法使いの失踪事件……」
「そう、全部我々の仕業だ」
「無理やり研究に協力させるつもりなんですね」
それに女性は意外というような表情をして、
「よくご存知だ」
「でも、私を捕まえても、無駄ですよ」
「何故?」
意味が分からないと、女性はエミリアの言葉に疑問を投げかける。
「おししょ……いえ、彼は交渉には乗りませんから」
「ふん、自分の奥さんを捕らえられて、ほっとくほどの人非人でもあるまい」
女性はエミリアの言葉を鼻で笑った。だが……と、エミリアは思った。
期待させておいて申し訳ないが、人非人な所を兼ね備えているのだ、あの人は、と。それに第一、
「私……奥さんじゃ、ありませんから……」
「どういうことだ? 私の情報では、彼にはお腹に子がいる妻がいるという事だったが……。確かな筋からの最新情報だ」
元々の嘘は恋人、それが妻に変わっている時点であまり確かとは言えなさそうだが、相変わらず広まっているらしきその噂にエミリアは少々頭痛を覚えながら、
「そ……それは、嘘、です」
「うそぉー!?」
「私、単なるで……いえ、居候ですから」
下手に弟子、つまり魔法を習っている者ということは警戒心を抱かせない為にも言わない方がいいような気がして、曖昧にそう濁らせる。
「まあ、つ……妻じゃなくとも、当たり前の人間なら、親しい者を助けようと動くだろう……」
受けた衝撃に必死で心落ち着かせるべく、女性はまるで自分にそう言い聞かせているかのようだった。だが、その希望を打ち砕くように、
「さぁ、あの性格ですから、どうでしょうかねえ……」
そんなことを、思わず本心から言ってしまうエミリアであった。
それにどうやら女性は更に打ちのめされているようで……もしかしたらその「確かな筋」からの情報に、彼の性格に関するデータもあったのかもしれない、悲しいかなそれ以上否定はしてこなかった。
だが魔法使いは、一体どんな決断をしてくるのだろうか。
自分を助ける為に、交換条件にのってくれるのだろうか、否か。
いやいや、そんな交換条件に魔法使いを乗せてはいけないのだ。師匠を彼らの魔の手から救う為にも、何か手を打って自力で抜け出さなくては。
だが、身動きすらできぬ今のエミリアに為す術はなかった。せっかく魔法を習ったのだから、それを使って何か彼らにダメージを与えることは出来ないだろうかとも思ったが、
ああん、私、植物に花を咲かせることぐらいしか出来ないのよ~。
いや、それすらも不確実であったことを思い出し、エミリアはがっくりとうなだれる。
今更ながら、もっとこういった危機に対応できるような魔法を習っておくべきだったと後悔する。例えば攻撃魔法のような……。
攻撃……。
その時エミリアはふと思った。花を咲かせる力を攻撃に転換できないかと。そして、
うふふ、そうだわ。
とある妙案が思い浮かび、エミリアは小悪魔的に心の中でほくそ笑む。それは何もかもが初めてのことで、成功するかも分からない黒い考えであった。だが、今は方法を選んでいるような場合ではなかった。心を支配するその考えに少々後ろめたさを感じながらも、エミリアは自分に言い聞かせた。
とりあえず今は待つのだ。待って機会を窺うのだ、と。