第三話 過去という名の鎖 その五
それからエミリアは食事をしながら、お風呂にはいりながら、家事の合間にと、ひたすら勉強をし、練習する日々を送った。いつの日か必ず枯れた花を蘇らせてみせると、闘志を抱いて。だが、咲いた花は虫食いだらけだったり、すぐに枯れてしまったり、訳の分からないおかしなものが咲いたりして、中々成功に結びつかないのであった。そしていくつの鉢植え、庭の草花を犠牲にしただろうか、到頭煮詰まって燃えた闘志の炎も消えかけそうになっていた時のこと。
この日の夜は暑い訳でも寒い訳でもないのに何故か寝苦しく、エミリアは中々寝付くことが出来なかった。どんな環境下でも大概はぐっすり眠ることの出来るエミリアにとって、それは珍しいことであり、この異常事態に本人も首を傾げながら何度も寝返りを打っていた。魔法が中々マスターできないせいなのか、それで到頭眠れなくなる程自分は追い詰められてしまったのだろうかとも考えたが、それは結局、この先起こった出来事の予兆だったのかもしれない。
そう、その出来事とは、まず木造の屋敷が軋むような物音からはじまった。誰かが廊下を一歩一歩歩きながら、エミリアの部屋に近づいてくる音である。
眠っていたら気がつかなかっただろう、それはかすかな物音だった。やがてその軋みはエミリアの部屋の前で止まり、ドアのノブが回される。
冴えてしまった頭に夜の物音は明瞭に響き渡る。ノックもせずに開けられた扉の音に、エミリアは敏感に反応して耳を澄ますと、何者かが部屋の中に侵入してくる足音が聞こえてきた。それは相手に気付かれないよう細心の注意を払った、忍び足のもので、下手にここで目覚めていることを悟られるのは良くないことをエミリアに伝えていた。だが、相手は一体何者なのだろうか、何の目的でこの部屋に入ってきたのだろうか。エミリアは気になって、気付かれないよう薄く目を開けてみた。この暗闇なら薄く目を開けていても相手にばれないだろうと思ったのである。するとその目に入ってきたものは、
お師匠様?
エミリアの師匠である魔法使いであった。魔法使いは静かにだが迷いもせず真っ直ぐにエミリアの眠るベッドへと近づいてくると、傍らに立ち、その顔を覗き込むように屈み込んできた。そしてしばしその顔を見つめていた魔法使いだったが、不意に手を彼女の方に向かって伸ばしてくると……。
な、なんなの?
その行為に、何をされるのかと薄目のエミリアは思わず焦る。すると、
コツン。
人差し指で強く額を弾かれた。
「眠った振りをするな」
「……ばれましたか」
ジンジンと痛む額を抑えながら、むくりとエミリアは起き上がった。
「賊が入った、私が片をつけるまで大人しくしてるんだ」
「ぞ、賊!」
「しっ! 大きな声でしゃべるな」
「す、すみませんっ! ……それで、私はどうすればいいんでしょう? どこかに隠れていた方がいいでしょうか?」
すると、それに魔法使いは少し考え込むような素振りを見せ、
「そうだな、確かに身を隠した方がいいかもしれない」
そう言って何を指示するでもなく、やにわに呪文を唱え始めたのだ。
身を隠すのに呪文? そうエミリアは疑問に思っていると、いつぞやの時と同じように、周りの風景が大きくなり、体が小さくなっていく感覚がし始める。
ま……またかえる?
嫌な予感に泣きそうな思いになるエミリア。すると不意に、魔法使いがエミリアを指先でちょいっと摘み上げたのだ。その途端体はふわり風に乗って軽く浮かび上がり、宙を舞うような感覚をエミリアは覚える。
そしてその心地よい感覚を味わうと間もなく、エミリアはくしゃりと握られ、まだ寝間着に着替えていない普段着の、魔法使いの上着の胸ポケットに入れられた。それはどこか不思議を感じるもので、疑問を胸に湧き上がらせていると、おもむろに魔法使いは鏡に身を向け、身だしなみを整えるよう、胸ポケットに入ったエミリアを整えていった。そこに映るエミリアとは、
そう、エミリアはハンカチーフになっていた。胸ポケットからちょこんと顔を出して、魔法使いの装いのアクセントになっている。
なるほど、ここで大人しくして見物してろって訳ね。
それから魔法使いはエミリアを胸ポケットに納めたまま、部屋を出て廊下を歩き始めた。
そして迷わず自分の部屋の方へと向かってゆくと、
「何をお探しかな、お客様」
「!」
「上手く忍び込んだつもりかもしれないが、そう甘くはないんだよ」
魔法使いの部屋の扉の前で、中の様子を窺っている者を見つけて、その背にそう声をかけた。これが賊なのであろう。恐らく魔法使いの所在をここと検討つけて窺っていたのであろうが、残念ながらこちらは早々に察知して背後に回っていたのだ。なので、賊たちにとっては予想外ともいえる場所からの問いかけに、驚いたよう彼らは慌てて後ろを振り返る。
人数は三人だった。一人は栗色の髪を後ろに縛った二十代前半ぐらいの年齢の女性で、動きやすい男性用の衣服を身にまとっていた。残りの二人は男性で、一人は細身の三十代後半ぐらいの中年、もう一人は筋肉隆々とした二十代半ばぐらいの若者だった。
「くそっ! 気づいていたのか」
「当然。私の結界を破ったことは褒めてやるが、あまりにもばればれだったな」
そう言って魔法使いは、周囲を威圧するような凄味を帯びた笑みを浮かべる。
するとそれに賊達は、笑みの裏にあるその恐ろしさを知っているかのよう、思わずといった様子で後退りをした。
「さあ、用事はなんだ。セールスにしちゃ時間が時間だ、誤魔化しなく喋ってもらおうか」
魔法使いの問いかけに、その中にいた女性が一歩前に進み出る。
「我々は、別におまえを害そうと思ってやってきた訳ではない、交渉すべくやってきたのだ。これはおまえにとってまたとない話。我々との交渉に応じる気があるのなら、その話をしてやろう。どうだ、交渉に応じるか?」
「ほう、こんな忍び込むような真似をしておいて、交渉と抜かすか。ふてぶてしいもはなはだしいな」
「こちらにも色々事情があるのだ、さあ、交渉に応じるか、否か」
それに魔法使いはニヤリと笑い、
「否」
「やはり……そう答えると思っていた。時期尚早、また出直しだな」
そう言って、恐らくこの者がリーダーなのだろう、中心にいた女性が回りの二人に向かって目配せをした。するとそれはどうやら退散の合図だったらしく、三人は呪文を唱え始め、途端にそこから姿をかき消していった。
「な……なんだったんでしょう、今の人達は」
胸ポケットから、エミリアは魔法使いに声をかける。それに漸く気がついたように、魔法使いは胸元に目をやる。
「ああ、そういえばここにいたんだな、忘れるところだった」
「忘れていたって……こんな姿のまま置き去りにしないでくださいよ!」
ハンカチ姿のまま放置された自分に怖気の走るような思いをして、またそれがありえそうで、エミリアは抗議の声を上げる。
「ああ、分かった分かった」
それに鬱陶しげに魔法使いはそう言うと、ハンカチーフのエミリアを取り出して床に置き、呪文を唱えた。
途端に姿を変え、むくむくと大きくなって再び元に戻るエミリア。せまっ苦しい場所からの開放感に、エミリアは漸く人心地ついて思いっきり伸びをする。
「それで、何か心当たりあるんですか、あの人達に」
それに魔法使いはうーんとうなりながら、
「流暢なノーランド語だったが、少し訛りがあった。あの発音は恐らくルシェフの者だろう。ルシェフの特殊工作員だと思われる。軍所属の魔法使いだ」
「ルシェフ……あの、何かと黒い噂の絶えない……」
ルシェフ、それはここ十数年の間に頭角を現してきた、軍国主義国家であった。全く国交が無い訳ではないが、その存在は謎めいており、突然の国の勢いに悪魔と契約を交わしたのではないかとも噂され、周囲の国々から警戒されていた。
「でも、何故特殊工作員だと?」
「引退した魔法使いが、次々に謎の失踪を遂げているのを知っているか?」
突然の魔法使いの問いに、エミリアは首を横に振る。
「だろうな。大概が事件性のない失踪として片付けられているから、記事の扱いが小さい。だが、そのそれぞれの失踪が、実は何かの意図によって一つに結びついていたとしたら?」
「それは……どういう意味です?」
「実力がありながらも隠居を余儀なくされる魔法使いがいる。組織の権力争いに敗れた者、不祥事を起こした者、年齢を感じ自ら身を引いた者、第一線にいることに疲れた者、別の生きがいを見つけてしまった者と、色々だ。表舞台から姿を消したそんな彼らが、人々の記憶から忘れ去られた頃、忽然と姿を消す。何か事情があって姿を消したのだと言う者もいるが、一方でルシェフが関係しているのではないかと噂する者もいる。元々技術や知識面で他国と劣っている分、優秀な人材を無理やり引き抜いて国に貢献させていると」
それにエミリアは信じられないというように顔を歪ませた。
「そんな……無理やりになんて、絶対誰も協力しないですよ」
「そこが、謎なんだ。弱みをにぎられているのか、洗脳でもされているのか……その辺りは分からないが、今回のこの件で噂の信憑性は高まったと思われるから、恐らく何かの方法で引き入れているのだろう。今は特に軍事目的の魔法に力を入れているという噂も聞くし……」
「お師匠様をそこに引き入れて、魔法の研究に携わってもらおうとしたんですね?」
「恐らく。だが、どんなに金を積まれたとしても私は行かないぞ。他の国のための、軍事目的の研究など真っ平だ。ただ……心配なのはあれしきのことで彼らが諦めるかどうかということだが……」
そう言って魔法使いは、懸念に表情を曇らせて考え込むよう顔をうつむけた。
だが時は既に真夜中を回っていた。気がかりを山ほど抱えながらも、今はあまり深く考え込むべき時では無いようであった。そしてそれぞれの胸に様々な思いを過らせたまま、とりあえず今は眠りへと向かうべく、二人は自分の部屋へと戻っていった。