第二話 人と人との狭間で その十一
不意に衝撃がなくなる。その後を追うよう吹きすさぶ風もぱったりと息を潜め、時化から凪に移ったような感じになった。心もとなかった足元にもしっかりとした大地の感覚が蘇ってきて、安定した体にほっとしたような気持ちになる。そう、どうやら地面のある場所へ、亜空間ではなく元の世界へと戻ってきたらしい。
エミリアは恐る恐る魔法使いから離れ、辺りを見回した。するとそこは見慣れてしまったあの、素朴な木造の魔法使いの家の居間が広がっており……。
「よ、良かった……」
王の手から逃れられたこと、無事戻って来られたことに安堵してエミリアは肩の力を抜く。そして不意に気がついた。今の魔法は転移魔法、空間から空間へ瞬時に移動する……。となると、
「お……お師匠様、転移魔法……」
「そうだ、転移魔法だ。それがどうした」
「それがどうしたって……転移魔法が使えれば、何も馬車で移動しなくったって……」
そうだ、こんなにあっという間に戻ってこられる魔法が使えるのなら、何もあんな長い時間馬車に揺られる必要はなかったではないか。だがそれに魔法使いは忌々しいことでも聞かれたかのように不機嫌になると、
「私は、魔法は嫌いだ」
魔法使いなのに魔法が嫌い? そんな理屈の通らないことを言われて、疑問は更に疑問を呼び、エミリアの頭は余計訳のわからないことになっていた。だが、そんな悠長に考えに浸っている場合ではなかった。目の前の魔法使いは、不機嫌な顔を更に怒りで染めさせて、エミリアを睨みつけている。それを見て思い出すのは先程の衝撃的な告白場面。そして、
「それよりもきさま、どうやら妊娠しているらしいな。誰の子だって、言った?」
「……お師匠様……」
睨みつけられ、きさま呼ばわりされ、あまりの恐ろしさにエミリアは消え入りそうな声でそうボソリと言うと、恐縮することしきりに身を縮こまらせた。それを見て魔法使いは一層睨みをきかせる。
「ほう、いつ私はおまえに手を出したかな?」
「……すみません」
「おまえが望むなら、いつでもそういう体にしてやってもいいんだぞ」
「……遠慮しておきます」
「ったく、きっと今は天地がひっくり返ったような騒ぎだぞ。国王の思い人である伯爵令嬢が一介の魔法使いと駆け落ち、それも孕んでな」
吐き捨てるようにそう言う魔法使いだった。だがすぐに、その表情は何か企みごとでも思いついたかのような意味ありげな微笑みに変わり、
「覚悟は出来ているだろうな」
「か、覚悟って、なんのです!」
本当に妊娠でもさせられてしまうのだろうか、自分が放ったあの不用意な一言のせいで。怒りに火をつけた挙句、その気にさせてしまったのだろうか、と。
不敵な笑みを浮かべて一歩前に出た魔法使いに、エミリアはおののいて一歩下がると、緊張に体を強張らせた。すると魔法使いは両手を前に出し、印を結びながらなにやら呪文のような言葉をブツブツと唱え始めた。そして、
「かえる!」
かえる?
何? 何? どういう意味? とエミリアは頭の中を疑問符だらけにしていると、段々視界が変化していくのを感じていった。周りの景色がどんどん大きくなってゆく……いや、自分自身が小さくなっていっていると言った方がいいのか。
どういうこと?
魔法使いにそう尋ねようと、声を出してみると、
「ゲコッ!」
あまりにも美しくない潰れたような音がエミリアの口から漏れる。信じられないその音に驚いて、エミリアは何度か確かめるよう声を出してみた。だが、やはり出てくるのは「ゲコッ、ゲコッ」というひしゃげた音で、泣きそうな気持ちでエミリアは魔法使いを見上げた。
はるか遠い彼方に見える魔法使いの顔、何が起こったのかさっぱりわからないが、どうやら小さくされてしまったことだけは確実だった。すると、
「ほれ」
そう言って魔法使いは手鏡をエミリアへと近づけていった。そしてその姿を映すよう持ってこられた鏡の面を見つめてみれば、
「ゲッ、ゲコ、ゲコ!(か、かえる!)」
かえる姿の自分がそこにはあったのであった。
「しばらくこの姿で頭を冷やすことだな」
覚悟とはこのこと、つまりお仕置きということだったらしい。ショックに打ちひしがれて、かえる姿のエミリアはない首を下げてうなだれた。
それを見て、更に嫣然とした悪魔のような微笑みが魔法使いの口元に浮かぶ。そしてその微笑みのまま、棚から一つの小瓶を取り出してくると、
「色々忙しくって腹が空いてるだろう。夜も更けたし、そろそろ夜食の時間だ」
ピンセットを使ってその中から何かを取り出してきたのだ。そしてつまんだそれを段々とエミリアの方へ近づけてゆくのだが、それは……、
「ゲコッ、ゲコッ!(いやーそんなもの食べたくないですー!)」
羽虫だった。確かに、かえるの大好物ではある。だが、体はかえるでも心は人間であるエミリアにとって、その物体は怖気を催すもの以外の何物でもなかった。
「ゲコ、ゲコ(嫌です、嫌です~!)」
食べたくないと、ゲコゲコ鳴き喚くエミリア。だが、魔法使いは、
「ほれ、ほれ」
そんなエミリアの言葉など聞こえてないかのよう、ピンセットでつまんだそれを彼女の口に運んでこようとするのであった。食べる事はない、そう分かっている筈なのに、ピンセットを近づけてくるその姿は……。
楽しんでる、絶対楽しんでる!
そんな羽虫がまるで用意してあったかのように小瓶に保存されていたことも不思議であったが、それより何より目の前の現実であった。いつまでこの姿を強いられるのか、泣きたい気持ちになりながら、また体が小さくなったせいであまりにも巨大に迫ってくる羽虫攻めに耐えながら、「ゲコッ、ゲコッ」とエミリアは泣き続けた。
これで第二話は終わりです。次から第三話に入ります。
相変わらずのつたない文章ですが、どうぞよろしくお願いします!