第二話 人と人との狭間で その五
一方、モントアーク家に戻ったエミリアは、今までたまったすすでも落とすかのように、頭の天辺から足の先まで磨きを入れられていた。風呂に入れられ、まずはオイルマッサージに全身パック、ぱさついた髪は念入りにトリートメントし、丁寧に乾かして艶を蘇らせたら、最後の仕上げにこれでもかという程香水を振り掛けられる。爪を整え、眉も整え、そして取りあえずひと段落して、漸くエミリアは部屋に戻りぐったりと椅子に腰掛けると、
「お嬢様、こんなに手が荒れてしまって……。苦労なされたんですね」
エミリアのささくれ立った手を取って、気遣わしげにさすりながらティアがそう言ってくる。そしてクリームを手に取り、エミリアのその手に優しく塗りこんでゆくのだった。そこにはいたわり、気遣いというものが感じられ、エミリアの心までも癒そうとするかの如くだった。だがかつて、エミリアは結婚から逃れる為、このティアを利用したことがあったのだった。きっと、あの後ヴェルノやシェリルから大目玉をくらったに違いない、何か罰のようなものだって受けたかもしれない。それなのに、ティアは全く責める様子もなく、寛大にエミリアを迎え入れようとしていたのだ。
それにエミリアは申し訳ないような気持ちでいっぱいになって、
「ティア……ごめんね。公園から突然いなくなっちゃって。私……」
「いいんですよ。こうして無事に戻ってきてくれたんですから」
そう言って微笑むティアの目は、赤く潤んでいた。
そうだ、これでいいのだ。結婚の心配がなくなったのだから、家に戻るのが普通なのだ。なのに、何故こんなにも心が痛むのだろう。やはり魔法使いに黙ってこっちにきてしまったからだろうか。魔法使いとの約束の時間はとうに過ぎていた。きっと待ちぼうけを食らって怒っているだろうことを思うと辛くなるが、あの魔法使いのこと、もしかしたら厄介者がいなくなって喜んでいたりするのかもしれない。
それも少し寂しいような気もするが、だからといってどっちに寄ることもできず、思わずエミリアはため息をついていると、
トントントン
不意に部屋の窓ガラスが叩かれる音がした。驚いて二人はそちらを見遣るが、ここは二階、出入り口の扉ならともかく、窓から誰かが来るなんてことは普通考えられないのだった。ならば何の音かとおののいて、エミリアとティアは顔を見合わせる。そして恐る恐る窓に近づいていってみると、
トントントン
再び窓を叩く音がする。見えないが、やはり何かがそこにいるようだった。気味が悪いようにエミリアは、音の主を探してその視線を窓の下方部へと向けてゆくと、そこには……。
「スズメ?」
「まあ、スズメですね、お嬢様」
トントントン
何か意志を持って知らせるように真ん丸く肥えたスズメが、くちばしで窓を叩いていたのであった。その珍しさにエミリアは更に近づいて窓を開けると、小さい足をチョコチョコと弾ませながら、スズメが中に入ってきた。小首を傾げて様子を窺う姿はまことに愛らしく、エミリアは思わず顔をほころばせた。
「何か食べるものは無かったかしら、スズメさんが食べられるような」
「菓子鉢に確かビスケットが。スズメが食べるかは、わかりませんが」
その言葉にエミリアは菓子鉢の蓋を開けてビスケットを取り出すと、それを細かく砕き、スズメに与えてみた。すると、スズメは少し躊躇いを見せながらも、それをついばんで美味しそうに食べていったのだった。その仕草があまりにも可愛らしくて、エミリアは恐る恐る手を伸ばして、スズメの背を撫でてみた。もしかしたら逃げてしまうかもしれないと思ったが、そうせずにはいられなかったのである。すると、逃げもせずスズメは気持ち良さそうにして、エミリアの指先を受け入れていた。
「人懐っこいスズメなんて、めずらしいわね」
「ええ、そうですね、お嬢様」
スズメの背を撫でながら、エミリアは愛おしいものでも見つめるように、暫しその仕草を眺めていった。そして、
「一体おまえはどこから来たの?」
通じるはずはないと分かっていながら、エミリアはスズメにそう問いかけてみる。するとそれにスズメは、
「ピピッ、ピピッ、ピーチク」
「まあ、なんだか返事をしているみたい」
「ええ、本当に」
何をいっているのかは分からないが、その響きだけで雰囲気を和ませるようなスズメの鳴き声に、自然二人の表情もほころんだものになる。
「名前はあるの?」
「ピーチク、パーチク、ピー」
「ピーチク? ピーチクなの? それともパーチクかしら?」
そう言ってエミリアは、スズメの鳴き声の解釈を聞こうとティアを見た。
それにティアは困ったような表情をして、
「さあ……どちらでしょう……」
流石にどちらでもないのではないかとそう思うが、はっきり口に出すこともできず、曖昧に濁らせて首を傾げる。
一方のスズメは、答えるだけ答えるとすぐさまくちばしを下に向け、再びビスケットの欠片をついばんでいった。恐らく食いしん坊なのだろう、無心についばむその姿や、まん丸な体型からもからもそれはうかがい知れ、もっと食べてもらおうと、エミリアは更にビスケットを砕いていった。そしてその姿をほほえましげに見つめながら、ポツリ、
「きっと、おまえは自由なのでしょうね。うらやましい、私も縛られるものから解放されたいわ」
中々吹っ切れぬ悩みの為、つい零れてしまった言葉だった。それにスズメはついばんでいたビスケットから顔を上げると、まるでその言葉に聞き入るようエミリアの顔を覗き込んでいった。すると、
「お嬢様、夕食の支度が出来ました。よろしかったら食堂の方までおいでくださいませ」
不意にノック音が響き、一礼して中に入ってきた侍女がエミリアにそう伝える。
「わかったわ、すぐ行くと伝えて」
エミリアがそう返事をすると、それに納得したよう侍女は頷き、再び一礼して部屋から出て行った。それを見送ってエミリアは、お別れの挨拶をしようとまたスズメの方へ目を向けてみる、が……。
「あら?」
だが、そこにもうスズメの姿は無く、残されたビスケットの欠片だけが、開かれた窓の前で寂しげに風に揺れていた。
※ ※ ※
真ん丸く肥えたあのスズメ、ビスケットを貰ってご満悦になっていたあのスズメ、あれからエミリアの部屋を飛び立つと、真っ直ぐに主人の元へと急いでいった。その主人とは勿論、
「ピピピーチク、パーチクチク」
魔法使いであった。スズメは指示通りエミリアの様子を窺ってその元へ戻ると、魔法使いの指に宿り、少し急いたようにして早速報告をした。
「なるほど、家に戻ったか。ふん、そこが本来の居場所なのだから、丸く収まったということなのかな。ばかばかしい、帰るぞ」
そう言って魔法使いは背を向け、馬車の駅へと再び向かおうとする。だがそれを、
「ピピ、ピーチク!」
遮るようにスズメが鳴いた。
「待てって? 他に何の用があるっていうんだ」
不機嫌丸出しで魔法使いは言う。
「ピーチク、パーチク、ピピッピピー」
「寂しそうだったって? だが、戻ったのは自分の意志だったのだろう、私がすることはこれ以上何もない」
つれなくそう言って、魔法使いは再びスズメに背を向ける。そして歩き出そうとしたその時、ふと気づいたように手に持っていた荷物を見つめた。それは角ばった白い箱であり、その側面には「クロンヌドール」という文字が躍っていた。そう、魔法使いの買い物とはこれだったのだ、長蛇の列に並んでわざわざ彼が買ってきたのであった。当然のことながらエミリアの分もある、が……。
くそ、全部私が食ってやる。
そう心の中ではき捨てて、出発が間近に迫った馬車の駅へと向かった。