第十一話 心の旅路 その十五
そして舞踏会の翌日、王都の北の森のあの屋敷の中では……。
書斎で魔法使いは机の前に陣取り、いつもの如く本を開き、ペンを走らせ、研究に没頭していた。そんなこの屋敷、エミリアがいなくなって既に三週間程の時が経っている。それは、火が消えたかのような静けさで、どこかよそよそしさすら漂っていたが、そんなこと気にする様子もないよう、いや、わざと気にしないようにしてか、魔法使いは一心不乱に紙にペンを走らせていて……。
するとその時、
「!」
かすかに、ほんとにかすかにであるが、魔法使いの体にあの感覚、そう、誰かが結界に触れたかのような感覚を感じた。これは余程の結界破りの使い手。ならばこの主は……、
不意に、書斎の中央にぼんやりと影が浮かび上がってくる。それは次第に濃くなってゆき、人の形をとり、やがて現れたのは、
「レヴィン……」
そう、レヴィンだった。いつもの穏やかな様子はなく、どこかムッとしたような表情を浮かべて。そして、
「昨日、王宮の舞踏会でエミリアに会ったよ。事情もモントアーク伯から聞いた。一体どういうこと?」
詰め寄るように歩みながら、レヴィンはそう問う。すると、
「どういうことって、伯爵から聞いているんならその通りだ」
偽りか素か、何とも、緊張感もへったくれもない感じで、魔法使いはそう返事をしてゆくのであって……。なので、それにレヴィンは脱力して、やれやれと肩を竦めると、
「まぁ確かに、彼女が古代魔法使いの可能性があるなら、記憶を消さねば、って思う君の気持ちも分かるよ。でも、ほんとにそれでいいの? そんなにも短くない期間一緒に暮していたんだ。彼女の記憶が君を救ったことだってある。その全てがなくなってしまうんだよ。初めから、彼女にとって君はいなかったも同然になってしまうんだよ!」
すると、それに魔法使いは心から面白くないとでもいうようムッとした顔をし、
「仕方がないだろうが! 万が一を考えたら、そうするしかなかった。私も苦渋の決断だ!」
全くもって、非常に非常に荒々しい口調でそう言い返してゆくのであって……。
そう、当事者でもない者が、軽々しく口を挟むなとでも言いたげに。全く、実際の苦悩も知らないくせに、軽々しく口を……と。だが、そんな魔法使いの態度に、レヴィンは全く納得なんていっておらず……。なので、
「なら、彼女に言い聞かせればよかったんじゃないの? 君は古代魔法使いだから、もしやの為これから魔法は使うなって、そう言い聞かせれば」
だが、それに魔法使いは否定するよう首を横に振った。そして、
「今までは自分が古代魔法使いということを知らなかったから、この程度の力で済んだんだ。運が良かったんだ。だが、知ってしまったら、もう今までのようにはいかない。魔法の知識が残っていれば、そのもしやがふとした瞬間に発動されてしまう可能性がある。そう、古代魔法は感情に左右されやすい魔法でもあるしな。だったら、それを避けるにはやはり魔法に関する記憶を消す、それ以外に方法はなかった」
きっぱりと、自分の判断に間違いはないとでもいうよう言い放つ魔法使い。そう、それは、もう揺るぎない意志とでもいうかのように。するとそれを見て、レヴィンは仕方がないような、諦めたような、どちらとも取れぬため息を一つ吐く。そして、気持ちを切り替えるように、表情を真剣なものにして話の矛先を、
「ところで、迎賓館のルシェフ皇太子一行を襲撃したのは君?」
昨日のあのキース中将が言っていた件に持ってゆく。すると、それに魔法使いは、
「まぁ、襲撃をせざるを得ない状況になったというか……」
その言葉に「やっぱり……」と呟いて暗い表情をするレヴィン。そして、
「なんてことやってくれたんだ。昨日の舞踏会に来ていた者で、その現場に居合わせた者がいたんだよ」
「あの現場に?」
「そう、あの状況を見ていたし、エミリアの顔も覚えていた。彼は疑っている。魔法を習っていた訳でもないエミリアが何故あんな高度な魔法を使えたのかって。行方不明の間魔法を習っていたにしても、あれはありえない、もしかして古代魔法使いか、って」
その言葉に、嫌なものでも聞いたよう、魔法使いの眉間に深い皺が寄る。
「疑っている者が、いるのか?」
「ああ、それもなお悪いことに、魔法軍の将校だ」
「……」
言葉を無くす魔法使い。そしてその言葉を何とか振り払うよう、
「だが、エミリアがやったという証拠は……」
確かに、あの時部屋の扉が開き、ノーランド側にも幾人もの目撃者を作ってしまった。だが、あれはエミリアが魔法を発動した後であり、ノーランド側でその決定的瞬間を見た者はいない筈。なので、確信に至るまでにはならない筈で……なのにどうしてと、それに疑問に思う魔法使い。疑問に思って、ならばとその疑問を問うてゆくと、
「ルシェフの人達が、あの小娘が、あの小娘が……って呟いていたんだって。それで中将は確信して……。彼の心の中であれはエミリアだって気持ち、かなり強いものがあるし、実際彼女をあの現場で見てるし……ちょっとまずいよね。とりあえずその場は上手く誤魔化したけど、それだけで済んでくれるかどうか……。このまま収まってくれればいいんだけど」
全く、困ったもんだと思わずため息を吐くレヴィン。すると、その言葉に尚も厳しい表情を浮かべ続ける魔法使いで……。そして、
「……あの時は、まさか彼女が古代魔法使いだなんて思いもしなかった。あんな魔法を使うことも予想だにしなかった。仕方がない状況だったんだ……だが……」
憂いを覚えるこの状況に、魔法使いは苦しげに顔をうつむける。そう、まさかこんなことになるなんて、と。すると、
「とにかく、僕は何とか状況を悪いものにしないよう、動向を窺ってゆくつもりだよ。何か起こりそうなら、火消しに走る。君は……君はやっぱり、彼女の記憶から消えたままでいるつもりなの?」
レヴィンの言葉に、今度は少し考え込むような表情をしてゆく魔法使い。だが、それも本当に少しのことで、すぐにきっぱりと、
「ああ、彼女の前に私という存在が大きく出てきてしまったら、彼女の記憶が戻ってしまう恐れがある。私は……彼女の前から消えたままでいるつもりだ」
相変わらずな魔法使いに、思わずといったようため息を吐くレヴィン。全く、しょうがない奴だとでも言いたげに。そして、
「本当にそれでいいんだね。僕は、どんどん行くからね。これは僕にとってチャンスだ。もし彼女が僕を求めてくれば、僕はその心を捕まえにいくからね」
魔法使いがライバルなのかどうなのか、正直よく分からないレヴィンだった。だが、エミリアのことが好きなレヴィンであり、またエミリアのことを愛しく思うレヴィン。なので、怪しい男はみんな敵と、一応彼をけん制してゆくのであって……。そして、何度もいいんだねを繰り返し念を押してゆくと、それにとうとう魔法使いは鬱陶しいような顔をして、
「おまえが何をしようと勝手だ。好きにするがいい。だが、彼女の記憶を取り戻させるようなことはするなよ。これは絶対だ」
これは絶対だ、その言葉に強く力を込め、脅すよう彼はレヴィンにそう言ってくる。
すると、それにレヴィンはコクリと頷き、
「当然だよ。それには僕も細心の注意を払う。絶対思い出させないし、彼女に辛い思いもさせない。だけど……それは君も同じだからね。さっき言ったことだって、後でやっぱしこれは……はなしだよ」
そう言って、彼も真剣な眼差しで魔法使いを見つめてゆく。
そう、それは再びの念押し。なので、またかと魔法使いは面倒臭げにパタパタと手を振ると、
「ああ、分かった、分かった」
軽い魔法使いだった。本当に本当に軽い魔法使いだった。なので、そんな彼を前に、こんなんで本当に大丈夫? とでも言いたげに不審げな表情をすると、渋々頷いてゆくレヴィンで……。そして、言うべきことは全て言うと、「じゃあ、僕は行くよ」と呟き、その場から姿を消してゆくレヴィンなのであった。
※ ※ ※
そうして後に残された魔法使い。レヴィンから聞いた衝撃の、あまり芳しいとはいえない状況に思わず深いため息がこぼれる。だが、それにしてももどかしかった。そう、エミリアが危険の淵にいるかもしれないというのに、自分は全く何もできないのだから。仕方ないと言い聞かせるが、それでも何だか気持ちが落ち着かず……。なので、うずうずしながら、はぁとため息を吐くと、腰掛けている椅子から背もたれへと身を預けてゆく魔法使いで……。そう、後はひたすらレヴィンの働きに頼るしかない、と……。
そして、疲れ目に魔法使いは目頭を押さえてうつむくと、しばしの時の後、その手をおろして顔を上げる。すると、ふと目に付くのはこの書斎の惨状。そう、山と積み上げられた多数の書籍がここぞとばかりに彼の目に入ってくるのであって……。いや、それだけじゃない、それだけならまだましなのだ。そう、その他にも同じような本が、辺りの床にバラバラ、バラバラと散らばっており……。書きなぐったメモ、衣服、植物の鉢植え等々、床に転がるそれらを見て、また元の状態に戻りつつあるのかと思わず魔法使いはため息がでる。そう、いつもならこうなる前にエミリアが片づけをしてくれていたのだが……。だが、その彼女はもういない訳で……。
魔法使いはどこか心に隙間が開いたような気持ちを味わいながら、仕方がないよう椅子から立ち上がる。そして、
くそっ!
胸でそう毒づきながら、散らかったその部屋を片付け始めてゆくのだった。