第十一話 心の旅路 その十一
そして、それから……屋敷の者達は戦々恐々とした日々を過ごしていった。
何せ、記憶を取り戻すようなことは避けねばならないのだから、エミリアが「ん?」というような反応を示す度、とにかく皆焦っていってしまって。そして、あたふたと場を取り繕うようにしてゆく屋敷の者達。それも一度や二度ではない、そんなことが何度もあるのだから、彼らは本当に堪ったものではなく……。
例えば、お菓子作りを趣味にしていたエミリア、家に戻ってそれも再開。早速屋敷のパティシエに再び習い始めたら……、
「お嬢様、何か作りたいもののリクエストはありますか?」
それに少しエミリアは悩み、
「そうね、アップルパイとか作ってみたいわ」
何の気なしもなくそう言う彼女に、ニコニコと笑いながらそれを受け止めるパティシエ。そして、
「アップルパイですか。でも、パイ生地は結構難しいですよ」
当時、エミリアはまだ習い始めてそれ程時は経っていなかった。なので、今もそうに違いないと思ってパティシエはそう言うと……、
「そう……でも、頑張って挑戦してみようかしら」
という訳で作っていってみれば……、
「……」
とても初めてとは思えない慣れた手つき。
そう、作って伸ばした生地に、一センチぐらいの厚さにした固いバターを包み込み、それを伸ばして折ってを繰り返してゆくのだが、初めてならば、それもお菓子作りの初心者ならば、最初はきれいに生地を伸ばすことは難しい筈だった。なのに、均一の厚さで、薄く、きれいな縦長の形を保ちながら、バターが生地からはみ出ることもなく、伸ばして折って冷やして伸ばして折って冷やしてを、職人芸のような器用さでやってのけたのだから。
勿論、それに驚いたのはパティシエ。そう、以前のエミリアの技術を知っていれば尚更に。なので、
「す、すごいですね……お嬢様。まるで初めてじゃないみたいで……」
するとその言葉に、エミリアも不思議な気持ちになったのか、「ほんとに……」と呟いて、思わず額に手を当てる。そして思い巡らすよう目を細め、
「なんか、前にも作ったことがあるような……」
そんなことを言い出したからさあ大変。この家でパイを作ったことはない、それを知っていたパティシエだったから、きっとこれは記憶のない時の出来事と思い、慌てて、
「いや、きっとお嬢様には才能があるんですよ。いやいや、手先が器用な人という者もいるものです。すばらしい」
冷や汗たらたら流しながら、そう言ってこの場を誤魔化す。そう、これこそ記憶を呼び覚ましてしまう出来事に違いないと、そう思って。そして更に思う、ああ、これはこれからも注意していかないとやばいぞ、作るものには気を使わねば、と。
うんうん、そうだ、そうだ。
一頻り頷いてエミリアの気がそれたことを確認すると、取り敢えず逃れた難に、ホッと胸を撫で下ろすパティシエ。だが……それにしてもこの手つき、どうやら記憶は消えても体に叩き込まれたことは忘れてはいなかったらしく、その後も、そんな調子のことが度々起こってゆき……。
例えば……。
朝起きればいつも侍女が身支度を整える手伝いをしてくれる。良家の子女であればそれが普通だった。だが、ある朝侍女よりも早く目覚めたエミリアは、
「お……お嬢様……」
侍女達がようやく起きて部屋にやってくると、きちんと自分で身形を整えて待っている彼女の姿があるのであった。そう、面倒くさいドレスの着用は勿論、ふわふわの巻き毛もしっかり整えられ、両脇を少しだけとって結い上げるという髪型を、全く乱れなく美しく自分でこなして。
また、お菓子の作り方を習っている最中では、脇で昼食の仕込みをしている助手に興味をそそられ、私もやってみたいと包丁を握り、見事な胡瓜の輪切りを披露していったり……。更に、モップ掛けしている女中を見かけては、やはり何かの好奇心魂みたいなのに火がついたのか、「面白そうね、やってみてもいいかしら?」と慌てる女中を尻目にそれを手に取り、しっかり腰の入った手つきで、慣れたよう床を拭いてゆき……。
それに、思わず驚き、焦る屋敷の者達。そして、思いがけずしっかりそれらをこなしている自分に気付いて、「あら、何だかこれ、前にも……」となってゆくエミリアだったから……。すぐ様話をそらし、包丁を、モップを取り上げ、やはり冷や汗たらたらで場を誤魔化してゆく屋敷の者達なのであって……。
それは、前の生活が偲ばれる行動。記憶がなくても、やはり覚えている体が、意識の底にある何かが求めてしまうのだろうか、そちらの方へいかないよう、いかないよう、一生懸命皆注意しているつもりなのだが、全く、どうにもこうにも中々上手くいかなくて……。
とりあえず、一日一回の薬のおかげもあってか、翌日にはそんな疑問も全てすっきりといった感じになってはいたが、ああやばい、今ここで飲ませなければ、という状態も辛うじて避けられてはいたが……。だが、記憶の病気の為とはいえ、無理やり飲まされるその薬。どうもその存在に、当のエミリアは余りいい顔をしてないようで……。何で、と理不尽な思いも漠然と胸に抱いているようで……。
全く、厄介ともいえる日々。だが、過ぎ行くそんな日々の一方で、ヴェルノやシェリルは……そう、このままエミリアを家に隠して置く訳にはいかないと、戻ってきた彼女を公の場に出すべくその機会を窺っていた。勿論、突然登場させては衝撃が大きいだろうから、娘が戻ってきたこと、流産し、夫と死別してショックで記憶を失っていることを、招かれたパーティーやら、お茶会やら、舞踏会やらの催し物の席で、ヴェルノとシェリルがそれとなく皆の耳に入れてゆき……まぁ、つまり、しっかり根回しをしていって……。
そして、ある日、
従僕から郵便を渡されたヴェルノ、何気なくそれを見つめていたが、その中の一通に興味を惹かれたかのよう、不意に目を止める。そしてその封を開け、中に入っていたカードに目を通すと、突如、何かがひらめいたようヴェルノは明るい表情をし、
「シェリル、シェリル!」
そう言って我妻シェリルを呼びにいった。
するとその時、シェリルは自室で新調したドレスの試着をしていた。だが、突然のヴェルノの声に何かしらとそのままの姿で部屋から出てゆくと、ちょうど彼が扉の前にやってきていた所で……。思いっきりヴェルノと鉢合わせをするシェリル。そして、驚いて目を丸くしてゆくと、
「そんなに騒いで、なんなんです?」
訝しがるシェリルの声に、ヴェルノは、
「これだこれ、これを見てみろ」
そう言って手に持っていた先程のカードを彼女に見せる。
早速、そのカードに目を通してゆくシェリル。すると、ヴェルノ同様、何かいいものでも見つけたかのよう、読みながらシェリルは段々表情を明るいものにしてゆき……。
「あなた、これは……」
「な、いいだろう」
「ええ」
そう、そのカードとは、
「グレンヴィル陛下主催舞踏会案内状……」
それは、王宮で開催される国王主催の舞踏会であった。恐らく、ノーランド中の貴族達が集まってくるだろう大きな催し。この催しが、エミリアの社交界再デビューに最も相応しい場ではないかと、二人は思ったのである。そう、大勢の人に一気に紹介ができる、いい機会だと。勿論、記憶を取り戻すようなハプニングがあるかもしれないことや、まだ根に持っているだろう陛下が出席するというマイナス面もあるが。
だが、それでもこれは絶好の機会と、すぐ様二人はエミリアにこのことを話していった。そう、失踪後、初お披露目にこの舞踏会に参加はどうか、と。
正直言って、家での日々に少し退屈していたところでもあった。なので、確かに陛下の求婚から逃げ出したという過去があるエミリアだったが、不安も思いっきりあったが、これはいつか越えねばならない壁なのだろうと、そう思って渋々ながら了解した。そう、気がかりは脇に置き、まぁ大丈夫だろうと言い聞かせ、表面上の素直さではい、と……。
さて、それからモントアーク伯爵家は忙しい日々が過ぎていった。ドレスを新調し、ヴェルノやシェリルは根回しを更に徹底させ、この社交界再デビューを何とか成功させるべく、皆一生懸命に動き回って。
そしてとうとうやってきた舞踏会当日、緊張と共に、皆身支度を整えてゆく。
それは、髪型も化粧もドレスも、どれもであり、乱れはないかとシェリルの厳しいチェックがエミリアにも入る。そして、何度も薬は持ったかという念押しが入ると、大勢の人が集まる場、もしかしたら記憶が戻ってしまいそうになるかもしれないが、何かハプニングが起こる可能性もあるかもしれないが、それでも行かねばとその場へと出発してゆく。そう、一番の危惧、記憶が戻る危険を抱えたまま、また一方で、その重要性を知らず、そこまで念を押されることに疑問を持つエミリアを抱えたまま、そんな状態で、三人は馬車に乗って王宮へと出発してゆき……。