第十話 炎火の姫君 その十五
暗い亜空間を抜け、やがて二人が到着したのは元の場所、レヴィンの書斎であった。そう、しっかりと足が地面を捉え、その感覚にレヴィンは確かに戻ってきたこと、そしてなんとか助かったことを実感する。それは感慨深いものすら感じられ、その思いのまま腕の中のイーディスを見遣ると、そこには何かにおびえるかのよう、ぎゅっとレヴィンの首にしがみつく彼女の姿があった。それにレヴィンは、戻ってきたよ、と、それを示して、細いイーディスの足をぺちぺちと叩いてゆく。すると……その合図でようやくイーディスはゆっくり顔を上げ、彼女も感慨深いような表情でその部屋を見回していった。
行く前と何ら変わっていない部屋の様子。まるで初めから何も起こってないかのよう、どこか澄ました表情で。だが、確実にあったあの出来事に、イーディスは胸を痛めながら地に降り立つと、心配げな表情でレヴィンの顔を覗き込む。そして、
「ほんとに、大丈夫だったのか」
「大丈夫、どこも怪我は……」
そこまで言って、そういえば引きつるような痛みをあの時感じたのをレヴィンはふと思い出す。すると、今まで感じていながらも忘れていた痛みが不意に戻ってきて……、
い……痛い……。
実感する痛み。今更ながら、これでもかという程の激しさで。そして、必死でレヴィンはその痛みに耐えていると、
「レヴィン、服が焦げてるじゃないか!」
驚くイーディスのそんな声が傍らから響いてくる。そう、本当に無事なのかとあちこち確認していたイーディス、彼女のその目が、無残ともいえるレヴィンの状態を認めたのだ。そして、もっと詳しくその体を見てゆくと、
「ここにはやけどが。ひどい火ぶくれになっているぞ!」
その言葉に、さすがにレヴィンも不安になって、慌ててイーディスが示すその場所を振り返ってゆく。するとそこには……背中の右下辺り、程度はそんなに酷くないようだが大きな火傷があるのがレヴィンの目に入ってきた。そう、そこの所だけ服が燃えてしまって、穴が開いたようになっていたのである。そうすると更に増してくる体の痛み、そのキリキリするような痛みに他に怪我はないかと見てゆくと、魔法を発動した右手にも火傷があるのを確認して……。小規模とはいえ爆発を受けて、やはり全くの無傷という訳にはいかないようだった。
「これぐらいなら大丈夫だよ。手当てしてもらえば、すぐ治る」
気づいた途端、本当は痛くって痛くって仕方がなくなっていたのだが、心配かけちゃいけないと思って、やせ我慢するようにっこり微笑んでレヴィンは言う。すると、それを見てイーディスは暗い表情で顔をうつむけ……。
「すまない……私は……」
「奴らが憎かった、徹底的にぶった切ってやりたかった、だろ」
それは既にお見通しとでもいうように、レヴィンは微笑みのままイーディスに向かってそう言う。すると、意外にもイーディスは素直にコクリと頷き、
「レヴィンの言うことを聞いていればよかった。そうすればこんなことにはならなかったのに……でも、どうしても許せなかったんだ。あそこで仇を討たないと、皆が浮かばれないとそう思って……今でも、奴らを思い出すだけではらわたが煮えくり返る。口惜しさで歯噛みしたい思いになる。恨みだ、恨みで凝り固まって、奴らを地獄の底に突き落としてやりたい気持ちになるんだ。今だってこの胸の中は許せない思いでいっぱいだ。きっと同じような状態になったら、私はまた……」
それにレヴィンはコクリと頷き、
「憎い気持ちは分かるよ。それを否定はしない。無理に抑えろとも言わない。でも……今は何をすることが一番重要なのか、それを考えるべきだ。例え憎くても、時には引くことも大事だということを」
それにイーディスは躊躇いながらも、コクリと頷いた。それは中々殊勝ともいえる態度で、レヴィンは思わず微笑みながら、
「随分と素直だね。いつもこうだといいのに」
冗談交じりにそう言って、いい子いい子とでもいうようにイーディスの頭を撫でていった。すると、それにイーディスは、
「また子ども扱いして……」
思わずといったように、不満げに頬を膨らましてゆく。だが、そう言葉をもらしてはいても、どうやら本当に怒っている訳ではないようだった。いつものような苛烈さは見せず、すぐにまた表情を殊勝なものに変えると、
「確かに、状況を判断する力くらいはつけねばならないな。私はそんなに器用な人間ではないから、そうそううまく感情をコントロールできるか分からないが……だが」
「だが?」
首を傾げるレヴィン。それにイーディスは彼に向かって、不安げな色の眼差しを送ると、
「いつかこの気持ちから解放される時は来るのだろうか。この胸の恨みや怒りから」
それは、今にもその感情に押しつぶされてしまいそうにも見える表情であった。どうにも扱いかねると、自分ですら制御に困るとでもいうように。ふとすれば、支配しようとすらしてくるその感情……それはあまりにも大きく、そして深い心の傷で……。
すると、その心に釣られてか、まるで今を表すよう、珍しいともいえる弱弱しい姿でイーディスは顔をうつむける。それはキュッと胸を締めつけらるような表情で、思わず憐憫の情がレヴィンの心に湧き上がってくる。勿論、何とかしてあげたいと、当然の如くレヴィンは思ってゆくが……だが、言葉は見つからず、かといって、その場限りの薄っぺらい言葉もかけられず、
「それは……僕にも分からない……」
そう、時が流れてみないことには……。
もしかしたら、一生抱えていかなければならないかもしれない傷。平穏な日常さえ破壊するかもしれない程の大きな。だが、それでも彼女は生きてゆかねばならないのだ、記憶がある限りついてくるだろう、その傷と共に。それは、きっとかなりの痛みを伴うだろう茨の道。なのに、そんなことしか言ってあげられない自分が歯痒くもあるレヴィンであったが……だがそれにイーディスは頷いていた。誰にも分からないその行き先、だけどあえてそれを受け入れるかの如く、しっかりと。そして、イーディスは火ぶくれを起こしたレヴィンの手を取ると、
「こんなことを話している場合ではないな。早く手当てをせねば。待っていろ、今……」
そう言って、レヴィンの手当てに移ろうとしたのだろう、イーディスはその場から身をひるがえし、扉の方へと向かっていった。だが、そこにたどり着く前、
ガチャリ、
不意に部屋の扉が開いた。そして、すぐにそこから入ってきたのは侍女のティーナで……。
恐らく、中には誰もいないと思ってティーナは入ってきたのだろう。だが、予想だにもせずそこに人がいて……それも、突然目の前に現れたかのようにレヴィンとイーディスが。それにティーナは呆然として声を失うと……本当にそうかとでもいうようまじまじと二人の顔を見つめ、やはりそうだと確認して二、三歩後ずさると、
「ラ、ラシェル! リディアさん! 姫が、姫がいましたよ!! あ、あと、殿下も~!」
驚き混じりの声で身をひるがえし、それを伝えに行ったのだろう、すっ飛んでそこから駆け出してゆくのだった。そして、
「……」
「……」
思わず言葉をなくしてその姿を見送るレヴィンとイーディス。それに二人は待ち受けていたもう一つの現実を思い出すと、困ったような表情でそこに立ち尽くす。
そう、どうやら二人のお忍びは、しっかり皆にばれてしまっていたらしい。そしてきっと、どこへ行ったのかと、王宮中で大騒ぎになっていたのだろう。慌てふためいたティーナのその様子から、どうもそれらしきものを二人は感じ取っていって……。
となると、この後待っているのは恐らく……。
「ああ、きっとお説教だ! イーディスを連れて、しかもこんな目に遭って、きっといつもの二倍増だぞ……」
うんざりといったようにレヴィンはそう言葉を吐く。するとそれを横目にイーディスは、
「まぁ、覚悟するんだな」
何とも他人事というか、何というか、どこか脳天気にそんな慰め?? の言葉をかけてくるのであった。
次で、第十話は終わりになります。