第十話 炎火の姫君 その九
だが……夜は毎日やってくる。否応なしに忘れるということがなく。そして今日の夜もイーディスは……、
追いかけてくる魍魎達、ぶよぶよの黒い体を引きずりながら、自分達を呑み込むべく猛然と。それは視界が黒で覆われる程、数え切れないもので……。剣を振り回しても振り回しても、きりがなかった。そう、それは、先の見えない戦い。そんな中、次第に絶望に陥ってゆく自分で……。そして、仲間達が呑みこまれる。一人、二人と段々に。それに、唯為す術もなく取り残されてゆく自分で……。そう、ぽつり一人取り残される……。すると、
はっ!
またしても、この夢で揺り起こされる。心臓が引き絞られるかのよう、イーディスは苦しみと共に揺り起こされる。そして目を見開き、おののくよう飛び起きると……、
「リディア……」
そこにはリディアの姿があった。そう、今日は側についていることを頼んでいないというのに、何故か。それにイーディスは訝しんでいると、どこか決意を秘めたような眼差しで、リディアは……。
「すみません、姫。昨日のことが気になって、勝手ながら今日もこうして側につかせてもらいました」
そう、昨日の一件でイーディスに何かがあると睨んでいたリディア、ならばこれはこのままにしてはおけないと、もう一度確かめるべく、こうして側について見ていたという訳であった。そして再び目にしたその光景。さすがに二度とは、もうこれは見過ごせないことであった。確かに昨日は引いたが、今日はもうそうはできないと、リディアは覚悟を決めてイーディスを見つめると、
「姫、どうぞおっしゃってください。何が姫を苦しめるのですか?」
「……」
顔を背け、口をつぐむイーディス。言いたくないのか、何なのか、弱音は吐けないとでも思っているのか……。だとすると、それは健気ともいえる忍耐。だが、リディアにとってそれは非常に心苦しいばかりのもので……。
「姫!」
何故話してくださらない、それほど自分は頼りにならない存在か、信用できないのかと、リディアは悲しみを込めてそう言う。
だが、やはりイーディスは口を開かなかった。勿論、リディアの気持ちがイーディスに伝わっていない訳ではない。いや、十分過ぎる程その気持ちはイーディスに伝わっていたのだが……。そう、このまま口をつぐんでいるいることがつらくなってしまう程、心の中で、違う、そうじゃないのだと叫んでしまう程……。やがて二人の間に沈黙が訪れる。それはまた、イーディスが話すまで絶対引かないというリディアの粘りでもあり……。彼女の言葉を待って、じっとイーディスを見つめてゆくリディア。ただひたすら無言の時が過ぎてゆく。そして……無為に流れるしばしの時、その時に、とうとう根負けしたようイーディスは一つため息をつくと、「魍魎が……」そうポツリと言葉をもらしていった。
「魍魎が……追いかけてくるんだ……どこまでも、どこまでも……」
「魍魎が?」
それにコクリと頷くイーディス。
「そう、一人、また一人と仲間を奪われた。両親だけでなく、仲間までをも。我々の望みは王位を奪還すること、その為だけに、皆自らを犠牲にして……」
「……」
「皆が魍魎に飲み込まれている様を目の前にしながら、私は先へ進まなければいけなかった。彼らを見殺しにして、自分だけ一人! 私を逃がす、それが何より優先されることだったから。夢でその光景が蘇る。早く先へと言いながら、仲間達の命が魍魎に呑み込まれていく様が! それを目の当たりにしながら何もできない自分が! そう、今でも鮮明に……突き刺さるほど鮮明に!」
心からの叫びであった。あふれた思いはもう止められず、堰を切ったようその口からこぼれ出してゆく。そして、気持ちのまま一頻りしゃべって肩で息を吐くと、その時の無念を思い出してか、イーディスはきつく唇を噛み締める。すると……、
「姫……つらい思いをしたのですね」
イーディスの姿に今まで堪えてきたものを感じ取り、リディアはたまらない気持ちになってこう言葉をもらす。
だが、あくまでイーディスは強気だった。その言葉にイーディスはふんと鼻でせせら笑うと、
「同情はいらぬ。こんなことで足踏みをする私ではないのだから。私には果たさねばならないことがあるのだ。犠牲になった皆の為にも、何よりもまず、その願いを真実のものとせねば!」
これはきっと強がり、だが今の彼女にとってはやらねばならぬ切実なものであるのだろう。それに胸が痛くなるのを感じながら、リディアは同意を示すようコクリと頷いていった。すると、それを見て少し表情を明るくしてゆくイーディス。恐らく、一人ぼっちだったイーディスにとって、それは心強いものとなったのだろう、悲痛の中に希望を見出したとでもいうよう、和らいだ表情を浮かべていった。そして、その口元に微笑みさえ浮かべようとするイーディスであったが……それはすぐに暗いものに変わった。そう、背けられない現実を思い出したかのよう、暗く……。
「だが、一人ではそれは成し遂げられないんだ。私一人だけの力では……ノーランドの助けがいる。なのに……」
ノーランド王からの返事はまだない。もう、何日かの日々が過ぎたのに、全く何の音沙汰も。そしてその焦燥ははたで見るよりずっと深いものであったのだろう、再びイーディスはきつく唇を噛み締めると、もう堪え切れないとでもいったよう、とうとうその目から涙をこぼしてゆくのであった。流れてゆくいく筋もの涙。それに不憫を感じて、リディアはイーディスの頭を優しくかき抱くと、慰めるようその頭を撫でていった。
そう、深い夜、まだいつまで続くともしれぬ、薄暗闇の中で。
※ ※ ※
翌日、イーディスは王宮の食堂で王族の者達と朝食を食べ終えると、いつになく不機嫌な表情で部屋に戻ってきた。それはいつもの朝のいつもの出来事、だがその気持ちはいつもとは違うとでもいったかのように。そして、その心の影響は、表情もさることながら、態度にも、言葉にも、行動にも、何もかもに出てしまっていて……。椅子を蹴って八つ当たりをしたり、厳しい声音で怒鳴りつけたり、閉める扉も荒々しかったり。こんな感じのイーディスであったから、ラシェルもリディアもその扱いに困り果てるばかりで、「触らぬ神に……」と、嵐が過ぎ去るのを待つよう遠巻きにそれを見つめるばかりなのであった。すると、
「うーん、お姫様はご機嫌斜め、ってとこかな」
何故かここにいるレヴィンが、バカ正直に思ったことを口に出す。すると案の定、
「だから、何できさまがここにいるんだ!」
「いや、世話係から解放されるとね、重荷が取れて……つい。暇でもあったし」
甘んじてイーディスの怒りを受けながら、またしてもバカ正直にレヴィンは言う。いや、本当は他にも理由があったのだが、今はそれを言ってはいけないような気がして、とりあえずそんな言葉がでてしまったのだ。言うなれば、これは更なる怒号覚悟の言動。そしてまた、イーディスの不機嫌の理由を分かっていての言葉でもあり……。そう、イーディスも意味なく不機嫌だった訳ではないのだ。ちゃんとした理由というものがあり、そしてそれは……、
実は朝食の席で、とうとうたまらずイーディスはノーランド王に尋ねたのだ。そう、祖国奪還の件はどうなったかのかと、いつまでも返事をくれぬ王に痺れを切らしたかのよう。だが、戻ってきた内容は、焦るイーディスの期待を見事バッサリ裏切ってくれるもので……。そう、会議は紛糾したまままだ決着がつかず、もう少し待って欲しいと、のらりくらりかわされてしまったのだ。
募るイーディスの苛立ち。更に不機嫌になるイーディス。そしてその時同じ朝食の席にいたレヴィンは、イーディスがちょっと心配になって思わずそのままついてきてしまったという訳だったのだ。
「私が子供だからか! 子供の頼みには簡単に乗れないということなのか!」
怒りを露にするイーディス。確かに彼女の気持ちも分からないではないが、事情を知らない者にとって、それはただ扱いに困るばかりのもので……。かといって、何かどうこうできる案がある訳でもなく、どうしたらいいものかとレヴィンは頭を悩ませていると、
「殿下、ちょっと」
背後からこっそりとリディアが、レヴィンにそう耳打ちしてきた。それにレヴィンは何? と訝しげな表情をすると、
「ここではちょっと……」
その様子から、どうやら内密の話らしいことが窺えた。それにレヴィンは了解を示して頷くと、リディアの促しに従って、侍女の控えの間へと向かっていった。そして、部屋に入って扉を閉めると、
「実は、殿下のお耳に入れておきたいことがありまして……」
どこか深刻な表情でそう話を切り出すリディアであった。それにレヴィンも話の重要さを感じて、彼女と共に表情を引き締めると、
「一体、何なの?」
「実は、昨日、一昨日とイーディス姫が寝付くまで側についていたのですが……」
確かに……一昨日はそうだった。それにその時のことを思い出して、「ああ、そうだったね」とそうレヴィンは言うと、
「でも、一昨日だけじゃなく? 昨日も見ていたの?」
「はい。一昨日に気になることがあったので、その次の日も。そうしたら……」
まるで先が言い難いとでもいうよう、リディアはどこかつらい表情をする。その様子に一体何があったのかと、レヴィンは困惑した気持ちで言葉の続きを待つと、
「どうやら姫は過去の記憶に苦しめられているようなのです」
それにレヴィンは首をかしげた。
「過去の記憶?」
「はい、その記憶が夢に現れて彼女を苦しめているようなのです。昨日も、一昨日も、いえ、恐らく毎日のように。どうやら付き従っていた仲間達が魍魎に殺されてゆく夢のようです。彼女を逃がす為、犠牲になっていった者達、その者達の死に際を彼女は目の当たりにしたようで……。姫は彼らを置いていかねばならなかった自分を責めています。そしてそれが故、彼らの思いを果たさねばと、自分を追い詰めています。今日の苛立ちも、その気持ちがあるからこそではないかと思うのですが……」
そこまで話して、リディアは心配げに顔をうつむける。それは、心の底からイーディスを案じている様子で、思いもかけぬこの話と共に、レヴィンの心を揺るがした。そして、ことの深刻というものを感じ取って、「……そうなのか……」とレヴィンは表情を曇らせそう呟いてゆくと……。
だが、両親だけでなく、従えてきた者達も魍魎に皆殺しにされていたとは、これはレヴィンも初めて聞く話であった。確かに、目の前で人が殺される様を見れば、まだ若すぎるその胸には大きな衝撃にもなるだろう。それも、その犠牲は自分を逃がす為であったというのだから、尚更心の傷は……。確かに手に余る少女ではあった。だがそれは、もしかしたら悲痛な体験の裏返しでもあるのかもしれないと、それが故のあの苛烈さなのかもしれないと、そんな思いに行き着いてゆくレヴィンであって……。そう、近しいものを失い、だがそれでも前に進まねばならぬ運命故の強がり、と……。目には見えぬがその心の中、それは悲しみで満たされていることを改めて知って、深く考えずにはいられないレヴィンであった。そして、先の見えぬこの状況の中で、イーディスに何かしてあげられることはないかと思案していると、
バタン! 不意に部屋の扉が勢いよく開いた。そして、
「リディア、剣の相手をしてくれ!」
イーディスが顔を出し、そう意気込んでリディアに言った。