第十話 炎火の姫君 その八
そして、思う存分手合わせをして時は過ぎ、昼食、夕刻のひと時、そして夜の食事と、為すべきことを為してゆくと、一般家庭ならば家族の団欒なんかがなされていたりするその時間に、レヴィンはイーディスの部屋を訪れていた。そう、おいしいボンボンをいただいたので、差し入れをしにきたのである。だが、残念ながらイーディスはお風呂に入っていて部屋にはおらず、レヴィンはラシェルに差し入れを渡してどうしようかと頭を悩ます。話によると、イーディスはお風呂に手伝いが入ることを拒んでいたので、一人で入っているのだという。なので、リディアもラシェルも部屋に残っており……つまり、イーディスを待つ間、退屈することはないということだ。ならばせっかくの機会だし、イーディスの顔をみてから帰ろうかと、レヴィンはそうすることにする。そう、可愛いラシェルに生真面目なリディア、そんな二人を相手におしゃべりをしながら。そうやってしばし時は過ぎ、イーディスが戻ってくるのを待っていると……やがて髪の毛を濡らしてさっぱりとした顔をしたイーディスが、居間のこの部屋へと入ってくる。そして、ここにいる筈のない者の姿、そう、レヴィンがこの部屋にいることを認めると、
「何でおまえがここにいる」
仕事を放棄されたことを少し根に持っているらしい、どこか胡乱げにそう言う。
それに、やっぱりきたかと、予想していた突っ込みにレヴィンは冷や汗を流すと、
「まぁまぁ、細かいことは気にせず」
まさか暇だから……とはとても言えなかった。子守から解放されたらされたで、ちょっとイーディスが気になってしまってもいたのだが、それも何となく言いづらかった。なので、とりあえず過去の諸々は忘れてと、レヴィンはことを曖昧に濁してゆくと……、
「美味しいボンボンをいただいたそうで、殿下におすそ分けしてもらったんですよ。よろしかったら召し上がりませんか?」
そういえばと、この場を取り繕うよう慌ててラシェルがそう言う。
だが……それにイーディスはあまり気乗りがしない様子であった。そう、顔に疲れを露わにし、
「いや、いい。今日はもう休む。思い切り体を動かしたせいか、少し疲れた」
やせ細り、体力が戻りきってない上での手合わせ、予想以上に体に負担をかけたのか、芯から疲れたような表情をするイーディス。それにラシェルは少し心配そうな表情をして、
「だるいんですか? お体の方は大丈夫ですか?」
「心配ない、ただ少し疲れただけだ。ボンボンは……みんなで分けて食べるといい」
かったるいような様子でイーディスはそう言う。するとそれにラシェルは、
やった!
実はちょっとボンボンのおすそ分けを狙っていたラシェルであった。なので、思わず心の中でバンザイをするラシェルであったが……まさか疲れている主人を前にそれを露にする訳にはいかない、微笑みを抑えて「ありがとうございます」と言うと、
「では、お休みの準備を」
「ああ、よろしく頼む」
その言葉に丁寧にお辞儀をして、ラシェルは寝室の方へと姿を消していった。
黙ってその背中を見送るイーディス。そして今度はリディアの方へと振り向くと、「それから……」と言ってイーディスは少し困惑したような表情を浮かべた。向けられた視線。それにリディアは、その後に続く言葉を受け止めるべく、何でしょうと表情を柔らかなものにしてイーディスを見つめる。だが、
「リディア……あの……」
イーディスは、何か言葉を躊躇っているようだった。だが、下手に遮ってはいけないような気がして、それをリディアは辛抱強く待っていると、
「寝付くまで、側にいて欲しいんだが……」
らしくもない弱気な言葉。するとその言葉を聞いてレヴィンが、
「あれ、一人じゃ眠れないの? やっぱしまだまだ子供だね」
珍しく殊勝な態度に、たまには自分も何か言ってやらねばと、からかうようにレヴィンが言う。すると、それにイーディスはギロリと鋭い眼差しでレヴィンを睨み、
「私は、子供ではないわ!」
そう言ってスタスタと寝室の扉の方へと向かって歩いていった。そして扉の前まで来ると、再びレヴィンの方を振り返り、
「部外者は、さっさと部屋へ戻れ!」
そう言って荒々しい手つきで扉を開けると、その勢いのまま、
バタン!
閉まる扉。それは、明らかに怒っていると分かる大きな物音で……。
それにリディアは呆れたような表情をしてレヴィンを見ると、
「わざわざ姫の神経を逆撫でするようなことを……」
確かにそうだった。それは分かっていたのだが……。
なにもそこまで怒んなくてもいいじゃないかと、思わず肩をすくめるレヴィンだった。
※ ※ ※
イーディスの寝室。暗い闇が落ち、燭台のほのかな明かりだけが辺りを照らす夜の空間。そこでリディアはベッドの側まで椅子を持ってくると、イーディスを見守るようそこに座り、かといってイーディスにあまり存在を意識させてしまってはいけないと、わざと視線をそらすべく持ってきた本に目を走らせていた。とりあえず頼まれた通り、彼女が寝付くまでここにいようとリディアは思っていたが、中々……。どうやらイーディスは寝付けないようでいるらしかった。右を向いたり左を向いたり、何度も寝返りを打って、ベッドの上をゴロゴロ転がっていた。それについ気になって、幾度となく本から目を離してイーディスの様子を窺ってゆくリディアだったが……。
深まるばかりの夜、それなのに、いつまで経っても訪れぬ眠りに、苦痛を示すようベッドの上を転がり続けるイーディス。それにリディアの心配は徐々に高まってゆくが、夜も大分更けたあたり、そう、ベッドに横になって二時間ほど経ったあたりだろうか、そこでようやくといったようイーディスは落ち着いて静かな寝息を立て始めた。どうやら眠りの途についたらしい、それにリディアはホッと胸を撫で下ろすと、その安らかな寝顔に思わずといったよう口元をほころばせてゆく。だが一応念の為、もう少し様子を窺っていようと、再び本に目を落とすと……過ぎゆく時、あたりは夜の静けさが覆っており、集中してくださいといわんばかりのこの環境が、リディアを本へと導いていった。つい夢中になってしまうリディア。そしてかなり時が経ってから、ようやく本来の仕事を思い出し、ハッとしてリディアは現実に戻ってくる。慌てイーディスの様子を窺うリディア。すると、そこには相変わらず安らかな寝息を立てて眠るイーディスの姿があり……。寝付くまで側にいて欲しいと言われた時には、何か不安を感じたものだが、この様子なら大丈夫だろうと、リディアはホッと安堵する。そして、しばしその寝顔を見守っていても特に何の変化もないことを確認すると、自分も眠りにつくべく、本を閉じ、椅子から静かに立ち上がっていった。そう、あとはこの場から立ち去るだけ、そして、まさしくそうしようと足を踏み出した、その時、
「うう……」
不意に、うめくような声がリディアの耳を打った。イーディスの声か、何かあったのかと不安になってリディアはその方を向くと、
「うう……」
苦しげな表情を浮かべて、ベッドの上で身悶えるイーディスの姿があった。そう、やはりあのうめき声は彼女のものであったのだ。そして更に注意深く観察してみると、どうやらイーディスの苦しみは、段々とその度合いを深めていっているようであり……。
夢を……見ているのだろうか?
不意に変わったその様子に、リディアは困惑しながらそう思う。そして、もしかして……と心配になって、熱があるのかと額に手を当ててみると、
特に問題はなし、か……。
目覚めている気配もなく、とりあえず眠りの中にいるらしいことから、ならばきっと夢なのだろうとリディアは判断するが……それにしても痛々しい表情であった。額には汗をかき、何かを恐れるように必死で顔を振っている。そう、まるで見ているこっちまでも息苦しくなってしまいそうな程に。そして、
「セリア! セリア!」
イーディスの口からこぼれる何者かの名前。その声色には悲痛なものがこもっており……。
リディアは不安になった。イーディスは本当に大丈夫なのだろうかと。どんな夢を見ているのかは分からないが、このまま苦しみの中に放り込んでいていいのか、と。
そしてリディアはイーディスの枕元まで来て跪くと、
「イーディス姫、イーディス姫!」
イーディスを起こすよう、肩を揺さぶってそう呼びかけた。だが、まだイーディスは苦しげにうめいており……。
「イーディス姫!」
もう一度そう叫んで、リディアはイーディスの肩を大きく揺さぶる。すると、
「!」
その声に呼び覚まされたのか、何かにおののいたようハッとしてイーディスはベッドから飛び起きる。そして、肩で大きく息をしながら、ここはどこかと確認するかのよう、イーディスは辺りを見回した。
「姫様、大丈夫ですか?」
心配げにその顔を覗き込むリディア。
「リディア……か。そうか、寝付くまで、いてもらったんだったな……」
改めて現実をかみ締めるよう、イーディスはそう言う。
「夢を見てらしたんですか? ひどくうなされてましたが」
「……夢」
ポツリとしたイーディスの言葉だった。そして、その言葉に何かの意味でもあるかのよう、イーディスは自嘲気味に笑うと、
「たかが夢。だが、その夢が私を苦しめる」
「姫……」
イーディスの体は寝汗でぐっしょり濡れ、現実に戻りつつもまだ夢覚めやらぬよう、どこか強張った感じになっていた。それにリディアは心配になって、その顔を覗き込んだまま、
「よろしければ、夢の内容を……」
リディアの言葉に、イーディスはのけるように手を振った。
「いい。リディアはもう下がってくれ」
退出を示すイーディスの言葉。だが、あんな様子を見せられて、はいそうですかと簡単に従える訳がなかった。リディアは首を横に振ると、
「いえ、ここにいます。姫が再び眠りにつくまでいましょう」
「いいんだ! もういいから、行ってくれ!」
叫ぶようにそう言うイーディス。
「姫……」
「私は一人で……一人で……」
そしてイーディスはそこまで言うと、全ての気力を失ったかのよう、ガックリと顔をうつむけた。そして、しばしの時の後、ポタリポタリとその目から落としていったのは……そう、涙であった。
「姫……つらいことがおありなら、遠慮なくおっしゃってください」
気丈に振舞ってはいても、まだ十四歳。その小さすぎる肩には、重すぎるほどの苦難がのしかかっているのだろう。祖国が自分の手にかかっている、両親だって殺されて……それを思うとリディアもつらくなって、少しでも心軽くなってもらおうとイーディスに優しく言葉を促す。
だが、イーディスは無言だった。そしてしばしの時の後、ようやくポツリと、
「お願いだ……いってくれ」
力ない言葉だった。消え入ってしまいそうなほどに弱弱しい言葉。だがそこには切実なる心の叫びが含まれているような気がして、リディアはこれ以上その懇願をはねのけることが出来なかった。そして、
「姫……」
もう一度だけ、そう言ってみる。だがやはり、イーディスはそれを拒否するよう首を横に振るのみで……。
「……かしこまりました」
後ろ髪引かれるような思いであった。このまま引くには躊躇われるものがあるような……。だが、確かに今はあまり触れるべき時ではないのかもしれない。そう、無理強いして、余計彼女の心に傷をつけるようなことがあっては……。心は残る。だが、リディアはあえてその言葉に従うよう一礼すると、とりあえず今はと判断して、静かにそこから去っていった。