第十話 炎火の姫君 その七
そして、誰の下にもやがて夜はやってくる。
そう、レヴィンの下にも、リディアの下にも、ラシェルの下にも、そして、イーディスの下にも……。
大抵の者には安らかな休みのひと時を与えてくれる夜、包む深い闇が人を眠りの底へと誘い、明日への英気を養ってくれる。だが、イーディスには……。
追いかけてくる。どこまでも、どこまでも。
髪を切り、服装を変えても。
執拗に追いかけてくる魍魎達、奴等を振り切るべく、何匹もこの剣でその体を切り裂いていった。とにかく先に進まねばと、何匹も、何匹も。だが……。
親切にかくまってくれた家族を、犠牲にした。ただ道を歩いていただけの人も。そして仲間達……。一人減り、二人減り。やがて襲ってきたのは……、
「姫様! 行ってください! ここは我々に任せて!」
アデランドの国境を過ぎて少しばかりの所、そこにて、突如大量の魍魎が押し寄せてきたのだった。そう、黒い巨体を不気味にうねうねと蠢かせながら、猛然と魍魎達が襲いかかってきたのだった。そしてその中心には、それらを従えるよう、鋭い眼差しの黒髪の男性が……。
一人呑まれる様を見た。そしてもう一人と……。魍魎達の猛攻に為す術もなく、呑みこまれてゆく仲間達。善戦してもその数の前には手も足も出ず……。そして、
「姫様! 早く行くのです! 私には構わず!」
「セリア!」
そう、セリアが呑まれた。
そんな光景を目の前に、何とか彼女を助けられないかと、イーディスは魍魎達へと向かって闇雲に剣を振り回してゆく。だが勿論、セリアを切る訳にはいかないイーディス、なので、呑まれた彼女を前に為す術はなく、ただ虚しくこの様を見つめるばかりで……。
行くのです! 構わず行くのです!
響くセリアの声。この行動を遮るかのよう切実に。そして目の前では……。
仲間達が呑みこまれる。私を行かせる為だけに。そして私は……、
はっ!
目にした光景におののくよう、イーディスはハッと目を覚まし、ベッドから飛び起きた。
そして、敵は? とイーディスは思わず辺りを見回す。すると、目に入ってくるのは上品ながらもいかにも豪華といった内装の部屋。勿論魍魎などどこにもいない。
夢……。
そうだ、ここは荒野ではないのだ。あの荒涼とした敵のいる場所では。
ようやくといった感じで夢から解放されるイーディス。そして戻ってきた現実にホッと胸を撫で下ろすと、生きている自分の体をイーディスはしみじみと実感する。いや、生き延びてしまったとでも言おうか……。そう、あれは夢なのだ。今ここで起こっていることではない儚い幻。だが……、
そこでイーディスはキュッと唇を噛み締める。
あれはかつてあった確かな出来事。あれがあったからこそ、今の現実があり、生き延びたこの自分があるのだ。確かに感じるこの体。それなのに、仲間達は……。自分は今、こんなにも安穏とした籠の中におさまっているというのに、仲間達は……。
その時を思い出して、イーディスは胸が締め付けられるような気持ちに襲われる。それは限りなく悲痛なもので、しばしその悲しみに堪えるよう唇を噛み続けていると……とうとう耐え切れなくなったよう、やがてイーディスの目からは大粒の涙がこぼれ落ちてゆくのだった。
※ ※ ※
翌日、昼食にはまだ少し早い午前中、レヴィンは図書室からの帰り道をたどって王宮の廊下を歩いていた。そう、ようやく子守から解放されたレヴィン、今日からは羽を伸ばすぞ! と思っていたのだが、仕事の放棄があまりにも不意だったので、肝心の予定が全く入っていなかったのである。なので暇つぶしに本でも読もうと、図書室から本を借りてきたという訳だったのだが……、
カンカンカン
その帰途の途中、何かの小気味良い物音がレヴィンの耳をついてきた。そう、金属と金属が触れ合う音である。それになんだと思って辺りを見回すと、廊下の裏庭に面した窓の外に、剣の手合わせをしている者がいたのであった。窓から十分見渡せるその光景、一体誰がとレヴィンは窓辺へ寄ってゆくと、そこにはリディアとイーディスの姿があったのであった。それに、そういえば、とレヴィンは思う。そう、そういえばイーディスは剣を嗜むのであった、と。そして、魍魎相手に勇敢に戦っていったことを思い出すと、人との対戦は一体どんなものなのだろうかと、かきたてられた興味に、レヴィンはまじまじとその姿を見つめてゆく。すると、
カンカンカン
流れるような動きと共に、響き渡る剣の音。
レヴィン自身剣の心得は、多少嗜むくらいのものしかなかったが、その目から見てもイーディスの腕は中々と分かる程のものだった。勝負もかなりいい線をいっており……。まあ、当然リディアの方が腕前は上だろうから、恐らく手加減している部分もあるのだろうが、表情も必死なイーディスに対し、リディアにはどこか余裕が感じられてはいたが。だがそれにしても、この年齢にしてはいい腕をしているイーディスで……。
そう、晴れた空の下、剣を交える女性二人。それは歳の離れた姉妹か、師匠と弟子か、何となくそんな雰囲気があって、中々に心和む光景であった。そこから、どうやら二人はうまくやっているらしいことが窺え、それを見て、レヴィンは思わずふーんと感心する。そして思う。そう、何だか、趣味もあっているみたいだし、気も合っているみたいだし、いい感じじゃないか、と。大体それに……あの尊大な性格は仕事第一、主人第一主義のリディアとは中々いい相性だったんだ、あながち、僕の判断も捨てたもんじゃなかったんだ……と。そうして、一頻り納得して、成程心の中で頷くと、その勝負の行方を、息を詰めて見つめてゆくレヴィンであって……。
右、左、右、と繰り出される剣。
どちらも動きにスピード感があり、見ている方にも飽きさせない何かがあった。そしてやがて……イーディスにも疲れがきたのか、その隙を狙って放たれたリディアの渾身の一撃が、彼女の剣を払った。
イーディスの手から、地へと落ちる剣。
その瞬間、負けを悟ったのだろうイーディスの表情に悔しげな色が浮かぶ。そして、それを見てにやりと笑うリディア。すると、
「二人とも凄いね! いい勝負だったよ!」
緊迫した戦いについ堪えきれず、褒め称えるようレヴィンがそう言葉を放つ。それに二人は、観戦者の存在に気付いてそちらの方を振り返ると、
「殿下……」
「なんだ、仕事を放棄した腑抜けか」
思いもかけず目に入ってきたレヴィンの姿に、少し驚いたようにそう言う。だが、相変わらずな口のイーディス、それにレヴィンは少し笑顔を引きつらせながら、
「その言い草はないだろ。でも、君は中々いい腕をしてるんだね。びっくりしたよ」
その小さな体からは想像できない見事な剣技に、思わず褒め言葉がこぼれるレヴィン。だがそれにイーディスは、素直には受け取れないとでもいうよう首を横に振ると、
「だが、リディアには負ける。まだまだだ」
「でも、いい筋をしてらっしゃる。このまま鍛錬を続けてゆけば、いつか私を越えるかもしれませんよ」
微笑みながら、やはりイーディスを褒めてくるリディアであった。そう、それは建前ではない本音の言葉。対戦したものだからこそ分かる、真実味のある言葉。するとそれを察したのか、イーディスは少しはにかんだような表情をすると、
「勿論、ここでやめる気はない。私は……」
ここでイーディスは少し言葉を飲み込んだ。そう、何か言いたいことはあるのだが、それを素直に口に出していいものかと躊躇うかのように。だが、すぐに心は定まったのか、やがてイーディスは眦に力を込めると、
「もっともっと強くなるのだ。いや、強くならねばならない。リディア、これからも手合わせお願いするぞ」
イーディスの決意。それは一国を率いるべき者の決意なのか、そうでない単純なる向上心の為なのか。それはどちらとも分からなかったが、並々ならぬ熱意はひしひしと伝わってきて、
「かしこまりました」
それに答えるよう、そう言ってリディアは深々と頭を下げた。