第一話 令嬢と性悪魔法使い その十三
それから数分後、エミリアは一冊の本を手に台所に立っていた。本の内容は料理のレシピ集。ついでにタイトルは『誰でもできちゃう☆お料理上達法』。魔法使いが買ってきた品物を確かめるべく紙袋の中をガサゴソかき回していると、その本が出てきたのだった。どうやら食生活の危機を感じてか、魔法使いが購入してきたらしい。確かに今、のどから手が出るほど欲しいものであった。だが、しかし……。
時刻はそろそろ夕食時、どう読んでも嫌味としか受け取れない題名の本を片手に、今日こそやってやるわよと、エミリアはめらめら闘志を燃やしていた。
口元には今日も不敵な笑み。包丁の持ち方も知らないような素人ではないのだ、レシピさえあればそれなりのものは作れる筈と、エミリアは勢いを盛り返して料理作りに奮闘した。メニューはトマトのスープと再びチャレンジした鶏肉の香草焼き。レシピとにらめっこしながら、今度はちゃんと出汁も取り、手順をしっかり踏んで味付けもそつなくこなした。そして長時間の努力の甲斐あってか、その日に作った料理は……
「うまいな」
どこか恐る恐るだった魔法使いにそう言わしめ、心の中で密かにガッツポーズを決めるエミリアであった。
だが、料理に光は見えつつも、片付けの方はまだ暗黒世界を彷徨っているような心持ちだった。片付けど、片付けど変わらぬ風景に、流石のエミリアも嫌気が差してくるというものだ。そして、一週間もの月日が経過すると、
「なんで貴族の娘が、トイレ掃除しなきゃいけないのよー!」
とうとうエミリアは切れた。
勿論魔法使いのいない場所での雄叫びである。
必要なものと必要でないものの仕分け以外、あの日一日を除いて魔法使いは手伝うことをせず、殆ど一人でこの作業をこなしているのだから、そう叫びたくなるのも無理はない。更に掃除や炊事以外にも、洗濯もやらねばならず、忙しい中、昨日などは前庭の雑草取りまでやらされた。
ぶちぶち文句を言いながら雑巾片手にトイレの床を拭くエミリア、屈みっぱなしで痛んだ腰を伸ばすべく、よっこらせと呟いてその場から立ち上がると、
「はあ」
腰に手をつき、溜息を漏らして横を見やれば、開かれた扉の先には、手を洗うための水差しと洗面器が置かれている。そしてその上には鏡が掛かっており、エミリアの姿が映っていた。
ただ引っ詰めただけの髪はすっかりぱさつき、化粧っ気の無い顔は疲れたような生活臭を漂わせ、水仕事に酷使された手は荒れ放題に荒れていた。
きている服は魔法使いの借り物で、勿論サイズは全く合わず、だぶだぶなその服の袖や裾を捲って着用していた。
美の女神フレイヤの涙の名が泣くわ。
鏡に映る自分の姿に情けなくなりながらも、妙に馴染んでしまっている自分もそこにいて、エミリアは複雑な気持ちになっていた。
だが一週間も片付けていれば、嫌でも日々の成果が、ぼんやりとでも見えてくるものだ。見ることが出来なかった家の床が徐々に露になり、物を踏みつけなくても屋敷の中を歩くことができるようになっていた。もうあと、ニ、三日も根を詰めて頑張れば片付けの方は終了しそうだった。
だが、エミリアは不安になっていた。
そう、一体自分はいつまでこの仕事をやらなければならないのだろうか、と。
この片付けの終了が、約束の終了になるのだろうか? それともまだまだ先なのか。
そういえば魔法使いは、期限の指定はしていなかった。片付けが終わるまでここにいるといいとは言っていたが、約束の期限までは指定していなかったのである。
エミリアは頭を抱えていた。それはここの生活を悲観してではなく、ここの生活が終わることを悲観してであった。確かに、この仕事がこのままずっと続くのも嫌だったが、かといって、ここからすぐ追い出されてしまうのも困りものなのだった。自分にはもう他に頼るところは無い、幾人かの友の顔も浮かんだが、国王という権力を相手にしてまで庇ってくれるかというと、心もとないものがあった。つまり、ここを出されれば、路頭に迷うか、家に戻るかしかないのだ。
嫌よ、女好きのおっさんと結婚なんて!
これだけの重労働を強いられても、まだ結婚のほうが嫌だと言っているあたり、よっぽどエミリアはそれを嫌っているらしい。
性格がいいとはとても言えなかったが、大体の事情を把握していながらそれでも追い出すことをせず、根掘り葉掘り聞いてくることもせず置いてくれているのは助かっていたのだ。貞操の危機というのも全く感じず今に至っており、エミリアにとってここは格好の潜伏場所であったのだ。