第十話 炎火の姫君 その二
さて、ここはノーランドの王都。その中でも下町と呼ばれる場所にあるイーストエンドのフランボーンという地区であった。そこにある一件のレストランの中で、レヴィンはとある料理を前に……。
立ち上るのは温かさを示す白い湯気、そして鼻腔をくすぐるいい香り、そう、否が応でも食欲が刺激されてしまう。だが……彼が今食べようとしているのは、その身分に見合うような高級レストランの豪華料理ではなかった。そう、彼は今そういった店ではなく、ごくごく普通の一般市民が訪れるような居酒屋兼レストランにいたのであった。それは、雰囲気から何から全く庶民的な店、ごくごく一般的な市民達が訪れ、賑やかに、和気藹々としながら食事を取るそんな店であった。そしてそこでレヴィンが陣取っていたのは、入り口に近いカウンターの席。人々のざわめきを背後に感じながら、そう、まだ昼間だというのにビール片手にドンちゃん騒いでいたりなんかする者達の声を背中に聞きながら、ゆっくりと食事につく席であった。だが、何故このようなところにレヴィンがいるのだろうか。そう、あまりに似つかわしくないともいえる、この気取りのなさ過ぎる店に。実は彼……上流の者達とのパーティーやお茶会などにお忍びするのも好きだったが、こうした普段触れることのない、庶民の生活する場に行って、庶民の味を堪能するのも好きだったのだ。今レヴィンはどこにでもいるような一般市民の格好をし、誰にも知られぬよう身分を隠して、美味しいと評判のこの店の名物料理を目の前にしていた。そしてその料理とは、
さて、噂のこの料理、お味の方はどんなものなのか。
それは牛ほほ肉のシチュー。高まる期待を胸に、レヴィンはスプーンを手にとる。そしてじっくり味わうよう、それを口にしてゆくと……、
う、旨いじゃないか!
口の中でとろけてゆくそのお肉、この柔らかさ、これはきっと長時間じっくり煮込んだに違いないと、レヴィンはしみじみ心の中でそう思う。そんでもってこのデミグラスソースの味がまた……。
これだからお忍びはやめられないと、感激にむせぶレヴィン。そしてもう一口いこうと再びスプーンを肉に伸ばした時、
カチャカチャ
ぐびぐび
どん!
むしゃむしゃ
カチャカチャ
食べ物をがっついていると思しき、忙しない音が聞こえてくる。随分豪快だなと、レヴィンはその音の方を見てみると、そこには一人の子供の姿があった。そう、場所は一つ置いて隣の席である。そしてその子供は、本当にこれ全部食べるのかというほどの料理を目の前に並べて、まさにがっつくといった言葉がぴったり来るような勢いで食べものを口に運んでいたのだ。まったく、作法もへったくれもないといった感じで。
よっぽど腹が減ってるのか?
見る限り、どうやら連れはいないらしい。それに、子供がこんな所に一人でいることにも不思議を感じたが、それよりなによりその食べっぷりに感心して、レヴィンは思わずといったようまじまじとその姿を観察してゆく。すると……、
歳は十二歳前後くらいか、服装や髪型からして恐らく男の子だろうと思われたが……。顎の辺りでばっさり切られた赤茶色の髪の少年。日に焼けた肌が中々健康的ではあったが、やはり飢えているのだろうか、思わず気の毒になってしまうほど細い体をしていた。そして身にまとっているのは、所々破れもあるみずほらしい服、傍らにはフード付きらしきマントも置かれていたが、どれだけ着続けたのだろうかそれも大分薄汚れており……。そう、どこをどう見ても貧しさを感じさせるこの少年。だが、どうにも気になることが一つあったのだ。そう、その腰には、服装には似つかわしくない程の、立派な長剣が下がっており……。
なんだか、不釣合いだな……。
それにレヴィンは訝しく思いながら、相変わらずじっとその子供の姿を見つめる。すると、
あ……、
その視線に気づいたのだろうか、不意に少年がレヴィンの方を見遣ってきたのだ。かち合う二人の目と目。それに何だか見つめていたことが知られたような気分になって、レヴィンはばつの悪い思いをする。すると、少年はその視線を不愉快に思ったのか、それを跳ね除けるよう鋭い眼差しを送ってきて……。
おお、怖い怖い。
どうやら鼻っ柱の強い少年らしい、それを感じてレヴィンは慌てて目をそらしてゆく。
そして他人は他人と、自分の料理に再び手をつけようとした時、
ガタン。
料理を食べ終えたのだろうか、その少年が不意に椅子から立ち上がったのだった。そしてマントを羽織ると何事もなかったかのよう、入り口の扉へとむかって行き……。
あ、あれ、お会計は……??
驚きの眼差しでその姿を追いながら、レヴィンは少年の行動を思い返す。そして確かにしてないことに思い至って不審な気持ちになってゆくと、
「こ、こら! 食い逃げか!」
カウンターの中にいた店主が、それに気付いて慌てたようにそう声をかける。
それにレヴィンは心の中で頷いた。
やっぱり、と。
やはり思い違いではない。そしてレヴィンは改めて少年の方に目をやると、そこには、
しまった!
表情を渋いものにする彼の姿があった。そしてその声から逃れるよう、慌ててそこから少年は駆け出す。そう、素早い動きで入り口の扉をかいくぐり……。
それにカウンターの中にいた店主が、
「だ……誰か捕まえてくれ!」
悲痛なる叫びがその口からもれてゆく。
それにレヴィンは……お忍びという立場であったレヴィン、できればあまり面倒には巻き込まれたくなかったのだが……明らかに店主よりも入り口に近い席にいたということもあり、そしてはっきりあの少年の顔を覚えていたということもあり、ならばとその言葉に素早く反応する。そう、席を立ち、扉を開け、店の外に出て左右を確認して。すると、左手の方の道に、背中を向けて駆けてゆく子供の姿が目に入ってきた。慌てて後を追いかけるレヴィン。相手は子供だから、すぐに追いつくだろうと気持ちには少し余裕を持って。そしてその通り、レヴィンはどんどんその距離を縮めてゆくと、腕を伸ばしてその少年の手をつかんだ。
「ほら、つかまえたぞ。観念するんだ!」
するとその途端、何とかその手を振りほどこうと、少年はここぞとばかりに暴れだす。だが、勿論大人の力に勝てる訳がなく、すぐにその体は拘束され……、
「離せ! 離せこのくそ野郎!」
そこで、ん? と、レヴィンは眉をひそめる。その汚い言葉にではない。無駄なあがきにでもない。そう、発せられたその声にである。どこをどう見ても少年に見えるこの子供、だが、どこをどう聞いても声は女の子のものだったのである。
「君は……女の子だったの?」
驚きを秘めた声でレヴィンはそう問いかける。すると、それにそのしょうね……いや少女はキッとレヴィンを睨みつけると、
「だからどうした、私が女じゃいけないのか」
「そういう訳じゃ……ないけど」
まるで射殺そうとでもいうかのようなその眼差しに、レヴィンは困ってそう答える。そして、これをどうしようかと悩んでいたその時、
「ああ、捕まえてくれたんですね。ありがとうございます」
ようやく店主が追いついたようで、レヴィンの背に向かってそんな声が聞こえてくる。そして、少し息を切らせながら店主は少女の前にまでやってくると、
「さあ、ガキ、しっかりお代を払ってもらおうか」
それに少女はムッとしたような表情になり、
「払えない」
まあ、だからこそ食い逃げをしたのだろう。金は持ってない、それにしては随分尊大な態度ではあったが、どうやらそうらしいことを店主は少女の言葉から察してゆくと、
「じゃあ、警察に突き出すまでだな」
「それもごめんこうむる!」
とらえられ、もう逃げられない状態だというのに、少女は強気だった。それにレヴィンと店主は顔を見合わせると、どうにも困ったというように表情を歪めていった。そしてどうすべきかと二人はしばし悩むと、
「じゃあ、その腰の剣をお金代わりに渡すってのはどうだ。それでチャラだ」
これはレヴィンの提案だった。金目になりそうなのは見た感じそれだけ、ならばこうするのがいいのではないかとレヴィンはそう思ったのである。そしてこれでどうだと問うよう、レヴィンはまず少女を見つめ、それから店主を見遣る。すると、
「ああ、それでもいい。それで手を打とう」
相手は子供、やはりあまり無体なことはしたくないのだろう、店主はレヴィンの案に納得する。だが……。
「駄目だ! これは手放せない! 私の心のよりどころ。身を守る為の武器だ!」
心のよりどころ、身を守る武器……その大げさな言葉に、またもや店主とレヴィンは困ったように顔を見合わせる。
「一体誰が君を狙うっていうんだい。暗殺者にでも追われていると? 剣が手放せないほどここは治安も悪くないだろう」
「そうだ。大体どこでそんな剣手に入れたんだ。まさか盗品じゃないよな」
少女の言葉など、まるで歯牙にかけないかのような大人達の言葉だった。それに少女は眼差しを更に鋭いものにすると、レヴィンに捕らえられていない方の手で剣の柄を握り、それを一気に引き抜いた。そして、
「貴様らのような者に説明しても、分かるような生易しい話ではない! 私はこんな所でぐずぐずしている場合ではないのだ! 先にゆかねばならない!」
そう言って、つかんだ剣を二人に向かって構えていったのだ。
それに驚くレヴィンと店主。いきなり剣を向けられれば、誰でも確かにそうなるだろう。
「お……おい。それはおもちゃじゃないんだぞ。君みたいな子供が振り回すもんじゃない」
「そ……そうだ。本当に警察を呼ぶぞ。たかが食い逃げで牢獄に入りたくはないだろう。大人しく剣をしまうんだ」
だがそんな説得にも少女は引かなかった。それどころか、
「引くのはきさまらの方だ! 私を子供と甘く見るんじゃない!」
これが脅しではないことを示すよう、少女は手に持つ剣を、自分の腕を握っているレヴィンへと振り回していったのだ。
「わっ!」
剣の先が目の前すれすれの所を走り、思わずレヴィンは一歩後ろに下がる。それと共にレヴィンの少女の腕を握る手も緩み、一瞬彼の心に隙ができる。するとそれを見計らうかのよう、この時とばかり少女はレヴィンから逃れてゆくと、素早い動きで身をひるがえし、再び彼らに向かって剣を構え直していった。相変わらずの鋭いその眼差し。そしてその時、レヴィンは察した。彼女のその構え、昨日今日の付け焼刃ではないということを。しっかり訓練された者の、構えである事を。
「見逃せ」
発する気、それは年齢に見合わないほどの凄味を持ったものであった。それは、言い換えれば意固地とも取れるもので、レヴィンはやれやれといった感じでため息をつくと……。
「この子の分は僕が払うよ。それで許してやってくれないかな」
懐から財布を取り出し、そう言って厚みのあるその中から、紙幣を一枚取り出す。すると、
「はぁ。こちらはお金さえ払っていただければ。ことを大きくするつもりはありませんので」
どうやら店主は穏やかにことを収めたいと思っているようだった。ならばとそれにレヴィンは頷き、
「じゃあ、これで。おつりはいいから」
それは、少女の分と、自分の分を合わせても余りある程の金額のお金であった。当然の如く店主は驚くが、それにも構わずレヴィンは彼の手へと紙幣を渡してゆくと……それに申し訳ないようぺこぺこ頭を下げながら、ありがたくそのお金を受け取ってゆく店主。そして恭しく何度もレヴィンにお礼をいい、少女には「もうやるんじゃないぞ!」と嗜めの言葉を投げると、ようやく納得したよう店主はその場から去っていった。
残されたのはレヴィンと少女。なんとも言えない気まずい雰囲気が二人の間を流れる。どうやらレヴィンの情け心でこの危機を脱したらしいことは少女にも分かっていたが……だが彼女自身これを快く思ってないようで、仏頂面で剣を鞘に収めながら、
「礼は言わんぞ」
「別にお礼を言ってもらいたくって払った訳じゃないし。でも……」
「なんだ」
「君は普通の庶民じゃないね。剣を習うことのできる環境にいた者だ。その剣も正真正銘君のもの、違うかい?」
興味津々とした表情も露にそう尋ねてくるレヴィン。すると、それに何か面白くない気持ちにでもなったのだろうか、少女は渋い顔をしてくる。そして、もう用は無いとでも言わんばかりに、そこから背を向け歩き出し、
「そう思いたければ思っていればいい」
だが、レヴィンはそのまま行かせはしなかった。一文無しでありながら、剣の心得はあるどこか尊大な少女。それにレヴィンの興味はかきたてられ、その後につくよう一緒に並んで歩いてゆく。そして、
「先にゆかねばならないって、言っていたね。君は旅人? 少し訛りがあるみたいだけど……これは、アデランド訛りだね」
そうだろ、とでも言うように、自分の推理を自信ありげに披露してゆくレヴィン。すると少女は、当たったんだか外れたんだか分からないような、なんとも読み取り難い表情を浮かべると、
「そんなこと、おまえに言う必要はない! 大体、何故つきまとう。もう用事はないはずだ。去れ」
「去ってもいいけど……でも、このままでまた旅を続けるのかい? 一文無しで」
「……何がいいたい」
「いや、どこに行くのかは知らないけど、結局同じことを繰り返すんじゃないかって思ってね。食い逃げ。今回は助かったけど、またそう上手くいくかは分からない。もしかしたら今度は牢獄かもしれないよ」
これこそが現実と、突きつけるようレヴィンはそう言う。すると、それはどうやら少女の痛いところを突いたようで、どこか不機嫌な表情で彼女はフイと顔を背ける。そして、
「……目的地は近い」
だが、そう言いつつも少女の表情はすぐれなかった。放つ言葉もどこか強がりのように聞こえ、レヴィンは困惑したように顔を歪める。そして再び懐から財布を取り出すと、
「少しだけど、これを足しにするといいよ。良かったら事情も……」
聞かせて欲しいと言おうとした時、再び目の前に剣の切っ先が迫った。そう、少女のあの剣である。
「施しは受けん」
「施しのつもりじゃないけど……でも、君も困るだろ、このままじゃ……」
「なんだ、なんの裏がある。下心か、この身を買おうとでもいうのか」
完全なる善意、のつもりだったが、少女はレヴィンを信じきれないでいるようだった。まあ確かに、異国の地でのなれなれしい人物、訳も分からずそんな人間に出くわせば……そう思われても仕方がないかと、レヴィンはため息をつく。
「安心して、僕はロリコンじゃないから」
その言葉で少女が安心するかは分からなかったが、少しでも気がおさまるならとそう言うと、レヴィンは財布から何枚かの紙幣を取り出した。そして自分に向ける剣の刃を手で退けると、無理やり少女の手にそれを握らせる。すると、
「……おまえは……」
少女は困惑しているようだった。そしてまた、何かを言おうとしているようで、レヴィンは「ん?」と言ってその顔を見る。だが、少女がそれ以上言葉を続けてくることはなかった。首を横に振って、思いなおしたようそこで言葉を止めてくると、剣を鞘に収め、
「なんでもない」
どこか殊勝な態度であった。意外ともいえる態度で少女はそう言ってくると、手の中の紙幣を見つめ、
「これについては礼を言う」
そして再び顔を上げ、
「では……世話になったな」
そう言ってレヴィンに背を向け、早足にその場を去っていった。
段々と遠ざかる少女の姿。だが、何だか心配だった。腰に下がる長剣。それは小さな体には全く不釣合いなもので、否応なしにその姿を目立たせてしまっていたから。そしてレヴィンの危惧どおり、少女が通ると、その姿に好奇な視線を送ってくる輩もいたりして……中には、邪念が混じった人物がいないとも限らない。確かにこの街はそれ程治安の悪いものではなかったが、場所によっては危険なところもあり……その心配がぬぐえずに、やはりとレヴィンは少女を追いかけると、
「やっぱり待って。行き先はどこなの? 良かったら送るよ。場所が遠ければ、宿も手配しよう。女の子一人でも安心して泊まれる宿だ」
それに少女は訝しげな表情でレヴィンを振り返る。
「どこへ行こうと勝手だろう。大体、説明してもきさまには分かるまい。もうこれ以上ついてくるな」
先程も、少女は同じようなことを言っていた。何か事情があるようだったが、少女の態度がそれ以上の立ち入りを許さず……。なので、レヴィンは困惑したまま思わず眉をひそめると、
「でも……」
「しつこい! それともきさま、やはり……」
再びの剣呑な眼差し。恐らく、身を買ううんぬんのことを言っているのだろう。それにレヴィンは困った表情を更に深めると、その時、
「!」