第九話 夢路の果ての歌姫 その九
「話してくれるな」
「……」
魔法使いの言葉に、レティスは暗く顔をうつむける。そして観念したかのよう、大きく一つため息をつくと、
「……ドレスの背のボタンを外してみて」
ポツリとレティスはそう言葉をこぼす。何故そんなことをさせるのか、それは分からなかったが、とりあえず言葉に従うのがいいだろうと、魔法使いはそうすることをエミリアに目で合図をする。それに頷き、レティスの背に手を伸ばしてゆくエミリア。そしてその手によって一つ二つとボタンが外され、やがて全ての背中が露になる。すると今度は、
「……コルセットの裾をあげて、腰の左側を見てみて」
それにもエミリアは頷き、言葉に従ってコルセットの裾をあげてゆく。絹のような滑らかな肌、美しい曲線を描く腰、だがそこには……露になったそれを観て、エミリアは困惑したような表情をする。そして、
「痣……がありますね」
「痣?」
そう言って魔法使いはレティスの背に回り、エミリアの覗くその部分を見た。そして目に入ってくるのは、
「これは……」
魔法使いは言葉を失った。
魔法を習うものならば、知っている筈のその印。不鮮明ではあるが逆さになった十字架。そう、それは……、
「クララ……おまえは……」
「そう、私の体は黒魔法に染まっているの……」
悲しみをたたえた瞳で、縛り出すようレティスはそう言った。そして潤んでくる涙をこらえながら、レティスは……、
「あの時から、私はプリマドンナの座を得る為、血のにじむような努力をしたわ。技術だけじゃない、上の人に取り入るのだって、パトロンを得るのだって、その努力の一つ。そうやってプリマドンナとなって、人々から歓声をもらうようになってからも、私はその地位を保つ為に必死だった。厳しいスケジュールもこなしたし、練習だっていっぱいやった。だけどいくら上り詰めても、急かされるようなプレッシャーはついて回ってきて……」
少しずつ語り始めたレティス。恐らく今までずっと胸にためていたのだろう、一度堰が切れてしまったらもう止められないとでもいうよう、レティスは言葉をこぼしていった。そして、
「そう、たとえトップといわれるプリマドンナとなっても、いえ……トップになってからの方がそのプレッシャーは強かったかもしれない。それはお酒を飲んでも、仲間と騒いでもどうにもならず、私はがむしゃらになって公演をこなすことでそれを乗り越えようとしたわ。そしてある日、私の命である高音が出なくなったの。最初は風邪かと思った。でも違った。喉の酷使、そう、それによって私の高音は、もうきれいに出ることはなくなっていたのよ」
それは、レティスにとってこれ以上のことはないだろう、辛苦の告白。それに、魔法使いも思わずといったよう胸が痛いような気持ちになってゆくと、
「それで……黒魔法に手を染めたのか?」
その問いに、レティスはコクリと頷く。
「ええ。この地位を手放したくなかった。舞台の上で、拍手を受けていたかった。でも、下からは容赦なく新しい人達が追いすがってくる。そして……その時あれを思い出したの。あなたにやってもらった、黒魔法を。それから私はどうすればそれができるのか必死で探したわ。そしてたどり着いた闇本。私はどうにかそれを手にいれ、喉に効く黒魔法を試した。最初は半信半疑。だけど、効果は覿面だったわ。勿論、黒魔法の悪い噂は聞いていたし、あまり深入りすべきでないと、すぐに手を引くべきだと、その時私は思っていた。でも……」
つらい表情だった。レティスはその表情のまま搾り出すようにして、
「その魔法は長くは持たなかったの。喉の調子がおかしくなる度に、悪魔がささやく。ここで引退か? 華やかな世界を離れ、過去の人間として暮すのか、と。私は抗えなかった。もう一度、もう一度とささやく悪魔の誘惑に、つい何度も乗っていってしまったの」
「そしていつの間にか黒魔法にそまり、腰に痣が、ってことか?」
それにレティスは再び頷いた。
「ルシェフとの関係は? 何故彼らの手先に。私に話した、ルシェフから守って欲しいと言ったあのことも嘘だったのか?」
「いえ……途中までは本当よ。ルシェフで上演した時、アルトゥール陛下に気に入られたことも、ルシェフの歌劇場の専属にならないかという話が来たのも。そしてそれを断ったことも。なのにルシェフは執拗に私を追いかけた。そしてこの弱みを握ったの。それから私はそれを盾に脅された。これを公にされたくなければ、ルシェフの為に働けと。そして私はあがらえず、悪魔と血の契約を結んだの……。ここまできたらもう抜け出すこともできやしない。私は袋小路に嵌っていたわ。そしてそんな時にこの仕事が来たのよ……」
それは、あまりに非情ともいえる運命だった。そう、同じ時、同じ場所で黒魔法に手を染めた筈の二人……。だが一人は振り返ることもせず、それを記憶の隅へと押しやった。そして一人は心にしこりを残したまま、再びそこへと戻ってきた。そう、それが運命を分かつ道とも知りもせず……。そして、思う。二人は同じ時を共有していた筈なのに、一体何故? と。言えるのは、心には違うものを持っていた二人、お互い別々の道を歩み始めた時、いつしかその差は大きなものになってしまった、と……。そして久方の再会を経て、まざまざと目の前にさらされたのは、あまりにも違い過ぎてしまった二人の距離。それは魔法使いにとって、残酷過ぎる程に無残な、かつての恋人の姿で……。
そう、ひたすら黒魔法に翻弄され続けたのはレティス。そしてその身の運命を嘆くようレティスは、
「いけない、いけないと思いながらも、どうにも出来なかった。ほんとに、胸が引き裂かれそうな程に……」
もうこれ以上は堪えられないといった様子の彼女だった。そしてその様子で、レティスは両手で顔を覆うと、とめどなく涙を流していって……。そう、ただひたすら、声を上げ、レティスは泣きに泣き続けていって……。それは、どこか憔悴しきったようにも見える姿であり、哀れともいえる姿であり……。
魔法なんぞ、黒かろうが白かろうが、使う人の心一つ。
打ちひしがれた、そんなレティスの姿を見つめながら、魔法使いの脳裏にはこの言葉が蘇っていっていた。そう、あの忌々しい義兄がこぼしたかつての言葉である。だが、義兄こそ忌々しく思えど、その言葉を否定することは魔法使いにはできなかった。ああ、確かにそうかもしれないと、魔法使いは彼の言葉を胸で噛み締めていた。そう、例え黒魔法でも、抗し難い悪魔の誘いがあったとしても、結局どう染まるのかはその人の意志次第なのだから……。そう、その人の……。
「怪我が治ったら、自首してくれるか? そして、ルシェフのことを全て話すんだ……」
少しでも良心が残っているのなら、これで罪を償ってくれと、魔法使いはレティスにそう促す。
するとそれにレティスは、少し躊躇いながらも力強く頷き、
「でも、私は下っ端。大したことなんて知らないのよ。何かを起こそうとしているらしいことは、小耳にしているけど」
それで十分だった。要は、今の状態から抜け出すことが、大事なのだから。なので、それに魔法使いはコクリと頷くと、それを見てレティスは自嘲するように微笑み、
「でも……私は全部失うことになるのね。今の地位も、声も、恋人も。でもきっと、それが本来の私なのね。それでようやく本当の自分に戻れると。今が偽りの時で、夢見る期間が少し長かったんだと。でも……私は幸せだったのかしら? 今思うと、野心に駆け上がる前の、ただ未来を夢描いていただけのあの時。あの時が一番幸せだったんじゃないかって、私はそんな気がして」
まだ潤む目で、昔を懐かしむようレティスはそう言う。それはまるで、かつてあった過去を心からうらやむような眼差しで……。そう、何が一番幸せだったのか、何を幸せと感じるか、それはその人本人でなければ分からないもの。そしてまた、過ぎ去ってみないと分からないことも中にはあって……。今いえることは、彼女がその時を幸せに思っているのなら、それが彼女にとっての紛れもない現実なのだろうということ。
残念ながら、その時の彼女の幸せを感じることは魔法使いにはできない。できることといったら、彼女の今の思いを感じ、それに理解を示してあげることぐらいで……。だが、例えそれだけでもしてあげた方がいいと思い、魔法使いは全てを受け入れるかの如くゆっくりとレティスの言葉に頷いていった。