第九話 夢路の果ての歌姫 その七
そして御前演奏の日がやってきた。場所はいつもの歌劇場。すっかり日も落ちた宵の闇の中、ともるガス灯に引き寄せられるよう観客達が歌劇場へと集まってくる。だが、場所は同じでも、今回の公演はいつもとは大きく異なっていた。そう、ノーランド国王や来訪しているルシェフの皇太子が列席する中でのこの公演、内容はガラコンサートとなっており、ソリスト達が歌劇の有名なアリアを歌ってゆくという形式になっていたのだ。
刻々と近づきつつある本番への時。そんな時の中、否が応でも高まってゆくのはひたすらの緊張感で……。そう、観客にも、出演者にも。
そしてコンサートが始まると、舞台の上では夢の競演が繰り広げられていった。歌劇場の隅々にまで響き渡る、美しいアリアの旋律。勿論レティスもいくつか曲を披露してゆき、数々の有名ソリスト達の中で、尚一層その存在感を際立たせていった。それは昨日の不調はどこへ行ったかと思われるほどの、完璧な演奏で……。そして無事コンサートが終わると、観客から大きな拍手が沸きあがった。ボックス席にいた国王とルシェフの皇太子も立ち上がって拍手をし、更にそれを盛り上げるかのよう、眼下の観衆に笑顔で答えてゆく。
それに沸く場内。そしてその歓声に導かれるよう、二人は固い握手を交わしてゆき……。そう、前日贈り物の授受もしたという両国の親密さをアピールするかの如く、これでもかと。
そうして、そんなこんなの嵐のような忙しさが去って、ようやく人心地ついたレティスの楽屋の中。魔法使いはエミリアと連れ立って、いつものようにその場所を訪ねていた。そして、
「今日はこれで終わりか? 後は家に送ればいいのか?」
一番の大きな山場、それを無事終えて仕事の終わりも見えてきた感じの頃であった。だがまだ気は抜けないと、魔法使いは緊張のままレティスにそう言うと、それに彼女は首を横に振り、
「いいえ、ルシェフの皇太子が是非会いたいというので……この後迎賓館に表敬訪問することになっているの。だから……まだいて」
どこか、浮かない顔のレティスだった。確かに思ってもいない予想外の予定、それも相手はルシェフなのだから、そんな表情になってしまうのも当然だろう。勿論魔法使いもそれに浮かない顔をして、
「ルシェフのたまり場に表敬訪問か……なんか嫌な予感がするな。まあいい。で、時間は?」
「まだ余裕はあるけど……私も準備しないといけないから。少し外で待っていてくれる?」
そう言ってレティスは少し困ったような表情で淡く微笑むと、どこか鈍い動作でスツールから立ち上がった。どうやら、気乗りはしないが、さすがにこれは断われないということらしい。
それに魔法使いも納得したよう頷いて「分かった」と言うと、レティスの準備を待つべく、エミリアと共に部屋から出て行った。
そう、微笑みながらも、どこか心痛するような眼差しを浮かべるレティスの視線を背に。
※ ※ ※
そしてレティスの準備が整うと、魔法使い達は用意された馬車に乗って、ルシェフ皇太子達が泊まる迎賓館へと向かった。だが、あまりいい印象のない国の者への訪問、やはり気分もいいものではなく、どうにも身構えるような気持ちになってしまう。自然空気も張り詰めたものとなり、そんな雰囲気を乗せたまま、馬車は目的の地へと向かってゆくのであった。
そう、重い沈黙もそこに乗せ……。
すると、そうする内、やがて見えてきたのは……迎賓館。それを目指し、そのまま馬車は建物の前にある豪華な門をくぐってゆくと、皆がまず立ち寄ることになる車寄せへと向かって走っていった。段々と速度を落としてゆく馬車。当然、それと共に車窓の風景もゆっくりしたものとなり、やがてピタリと止まったその景色に、レティス達は目的の場所へ到着したことを察してゆく。そして従僕の手によって扉が開けられると、レティス達は馬車を降り、早速やってきた館内の者に謁見の取次ぎを済ませてゆくのであって……。すると、まず案内されたのは控えの間。どうやら自分達の順番が来るまで、そこで待っていろということらしい。そして三人は椅子に座り、何となく居心地の悪い時間を過ごしていると、レティスが不意にポツリ、
「……ごめんなさいね。私……」
顔をうつむけ、らしくもないしおらしい態度でそう言ってくる。だが、突然ともいえるその言葉に意味が分からず、魔法使いは不思議そうな顔をして、
「突然なんだ? 何について謝っている。過去の諸々か?」
それに静かに首を横に振るレティス。
「それもあるけど、私! 私……の心は『神よ、この思いを』よ……信じて」
「?」
『神よ、この思いを』、それは『古城の舞姫』の有名なアリア、そう、王子と魔物の言葉との間で葛藤するフェリーチェ姫の。だがそれが一体何だというのだろうか。言葉の意味をはかりかねて、魔法使いは思わず首をかしげる。取り敢えず、何かレティスに思うところがあるらしいことは、魔法使いにも感じることはできたのだが……だがそれが何なのかがつかめず、訝しげな気持ちでいると、
「『翠玉の間』へとご案内いたします、どうぞこちらへ」
どうやら自分達の順番がきたらしい、不意に部屋の扉が開いて、館内の者がそう言ってくる。そして魔法使い達を謁見の為の部屋に案内しようというのだろう、後をついてくるよう促し、その者は先に立って歩きだした。それは高貴な来客を迎えるに相応しい、格調高き王室の別邸。それだけあってつくりも中々豪華なものであり、四人が歩く廊下も例外ではなく、美しく上品な装飾がそこかしこに施されていた。そんな廊下を珍しげに見回しながら、沈黙のまま後をついてゆく魔法使い達。そしてやがてその『翠玉の間』の前に到着すると、館内の者は扉を開け、レティス達を中へと導いていった。
名前の如く、そこに広がるのは目にも鮮やかな翠の美しい部屋。そう、少し白みがかった翠色の、絨毯、天井画、装飾……等などの。そして中には皇太子らしき三十代前半くらいの男性の姿が、その周りを側近そしてボディーガードらしき者達に囲ませて、部屋の中央にて立っている。
それを前に、恭しく儀礼的な挨拶を済ませてゆくレティス。すると、皇太子は待ちかねていたかのようにっこりと微笑み、
「いや、ようこそいらっしゃった。私はこの時を心待ちにしていたのだよ、レティス……いや、レヴィル殿」
そう言って何故か、レティスでなく、魔法使いの名前を口にしてくる。それに眉をひそめる魔法使い。そう、自分は一介の魔法使い、なのにその名前をルシェフの皇太子が知っていることに疑問に思って。そして嫌な予感がして身構えると、皇太子の傍らにいた側近らしき者が素早く呪文を唱え始め……。
「ホヘイ・ワ・ヒイザツ・チオホウ・ショイユ・ベイギュ」
それは……。
「!」
魔法封じの呪文だった。これはまずいと、魔法使いはすぐさま魔法を解く呪文を唱えようとする。そう、相手よりも自分の力が勝っていれば、魔法でそれは解除できるはずだから。だが……。
「ホヘイ・ワ・ヒイザツ・チオホウ・ショイユ・ベイギュ」
「ホヘイ・ワ・ヒイザツ・チオホウ・ショイユ・ベイギュ」
「ホヘイ・ワ・ヒイザツ・チオホウ・ショイユ・ベイギュ」
「ホヘイ・ワ・ヒイザツ・チオホウ・ショイユ・ベイギュ」
その場にいた側近の者たちが口々に同じ呪文を唱えてゆく。どうやら彼らは側近のふりをした魔法使いであるらしい。これは罠、魔法使いはそれに気がつくと、自分をこの場所に連れてきたレティスの方へとその視線を向けていった。するとそこには、悲痛な表情で魔法使いを見つめるレティスの姿があり……。そしてその目には、今にも零れ落ちんばかりの涙が浮かんでおり……。
彼女だった、明らかに彼女がこの罠にはめたのだった。それを察して、
「クララ、何故!」
そう問うと、いたたまれないようレティスは顔を背ける。それに魔法使いはもう一度、
「クララ!」
だが、言葉は何も返ってこなかった。代わりに堪えきれずといった感じで、レティスはその場から駆け出してゆき……。そう、まるで魔法使いの言葉から逃れるかのように……。それに、信じられない思いで見送る魔法使い。だが、とにかく今はこっちだった。何とかせねばと魔法使いはルシェフの者達に体を向けなおすと、もう一度呪文を唱えてみた。そう、どうにかこれを解除できないかと試すかの如く。だが、数人がかりの魔法にはさすがの魔法使いも手も足も出ず……。
「……何故そんなに私を狙う!」
「それは……ルシェフはあなたの力を必要としているからですよ」
それに魔法使いは訝しげな表情をした。
「私の、力?」
すると、困惑するそんな魔法使いに向かって、今度はこの光景を枠外から見つめていたボディーガードらしき者達が、じわじわとその輪を縮めてきた。そう、この者達、先ほどの様子を見ても全く動じる風もない所から、どうやらルシェフ側の者らしいことが窺えた。呪文を唱えるでもなく、ひたすら彼を追い詰めようとしている所から、魔法使いではないことも窺えた。恐らく、力ずくで魔法使いを捕らえようというのだろう。確かにこの部屋はルシェフの者ばかりだが、一歩外に出ればそこはノーランド、この館を守り、運営するノーランドの者達が沢山いるのだから、物音が大きくでてしまう可能性のある魔法を避けるのはなるほど賢明であるといえた。
そして、その思惑を体現しようとしているのだろう、彼らは、そう、不敵な笑みすら浮かべている彼らは、更に魔法使いとの間を詰めてきており、とっ捕まえるべく手を前に差し出してきていて……。そんな彼らを前にして、
こうなったら拳一つで戦うか?
やぶれかぶれのような考えが魔法使いの脳裏に過ってゆく。だが、多勢に無勢、一人二人倒せただけでは意味がないだろう。後ろを振り返ってみれば退路も断たれており、為す術もない状態に魔法使いはただ立ち尽くすばかり。そう、これははっきり言って危機であった。いまだかつてないこの危機に、魔法使いの背に冷や汗が流れる。それでもなんとかこの状況を打開しようと、魔法使いは戦う構えをしてゆくと、
「ルシェフの皆さん、こっちです!」
不意に横からエミリアの声がした。すっかり忘れていたかのようになっていたエミリアの存在。突然のその厳しい声に、一体何だとルシェフの者達はそちらの方を見る。そう、何だこの小娘がとどこか侮った様子で。すると、まるで最大の武器でも披露するかのよう、エミリアは壁際の家具の上にあった花瓶の花を数本取ると、それを前へと突き出していったのであった。そして、
「ルシェフの皆さん、覚悟です!」
そう言うと、
「カラドト・ゾリョツ・スアチュイ・コスソリヅ・コアスア!」
それは再生魔法の呪文だった。
それを聞いて、魔法使いは頭を抱える。そう、今はこの者達を攻撃せねばならない場面、ここで再生魔法はないだろう、と。そして、
「エミリア! おまえは……」
草木に花を咲かすことぐらいしか出来ないだろう! そう言おうと、魔法使いはした。だがその時、
「!」
エミリアを除いて、ここにいる者すべてが驚愕した。
そう、その切り花は見る見る間に大きくなり、やがて予想外のもの作り上げていって……。それは……。
「な……何だ、これは!」
頃合を見計らったよう投げ放たれたそれ、それはなんと巨大な食虫植物へと変化していったのであった。そう、以前自分が拉致された時に出してみせた、あの熱帯雨林の巨大食虫植物をエミリアはそこに出現させたのである。お師匠様の危機、これをなんとか脱せないかと、一か八かの気持ちでエミリアはあの魔法を試してみたのである。ルシェフの者を食べつくせ! そんな思いと共に、巨大食虫植物が成長する様を想像して。そして……見事成功。
そう、今や巨大食虫植物は、触手を伸ばしに伸ばし、ルシェフの者達を次々と飲み込んでいっていた。それは、どうやら予想だにしなかった攻撃だったようで、皆パニックに陥り、巨大食虫植物に翻弄されるがままになっていっていた。勿論、魔法使いも例外ではなく、信じがたい光景を前に、思わず目が点になってしまっていて……。すると、
「ね、ね、嘘じゃなかったでしょ。私、ちゃんと出来たでしょ!」
自分の言葉が証明されたことに、少し興奮気味にそう話すエミリアだった。確かに、今目の前で起こっているこの状態、それはまさしくかつてエミリアが魔法使いに話したことそのものであった。だが、
ありえない……絶対ありえない……。
呆然とし続ける魔法使い。だがそんなことをしている場合ではなかった。人々の叫び声で魔法使いはようやく我に帰ると、今がチャンスとばかり、
「エミリア、逃げるぞ」
そう言って、エミリアを抱き寄せる。
するとその時、この騒ぎを聞きつけたのだろう、ノックもせず勢いよく部屋の扉が開かれる。そしてそこから現れたのは……この館を運営する者、警護していた近衛兵、謁見の順番待ちをしていたと思しき身分の高そうな者等など、ありとあらゆる人達の姿だった。そして、
「これは……」
皆が目の前の光景に唖然とする。だが、今はそれに構っている場合ではなかった。とにかく脱出と、魔法使いはエミリアがその首にしっかり手を回したことを確認すると、
「アホネ・イタナ・テリョテテ・ナグリン・オタ・ツヲア!」
素早く転移魔法の呪文を唱えてゆく。そしてレティスはいないかともう一度辺りを見回し、確かにいないことを確認した後、
ふっ
阿鼻叫喚のその部屋から、魔法使い達は姿を消していったのだった。