第九話 夢路の果ての歌姫 その六
そして翌日の公演。舞台は順調に進み、第一幕が終わって第二幕へと入っていた。
それは、大魔女が国王に自分の話に乗らないかと持ちかけるシーン。一人罠に落としいれ、二人罠に落としいれ、そしてこの国王、有頂天になった大魔女は、小悪魔的に国王を誘う。
欲しいものはないかい国王さん
例えば東の国、西の国
あたしの話に耳を傾けりゃ
手に入らないものは無いよ
地の果ての楽園だって
万里をかける馬だって
望めば何でも与えてやろう
気持ちは甘い飴のよう
体は浮かぶシャボンのよう
あくびをしているその間
それは全ておまえのもの
ただし
あたしの言うこと聞いたらな
相変わらず舞台は滞りなく進んでいた。観客もレティスの歌に聞き惚れており、昨日に引き続き今日も絶賛の嵐だろうことを予感させる出来となっていた。だが叙唱であるレチタティーヴォも終盤に差し掛かった時、
鏡の中を覗いてごらん
お前の未来が見えるはずさ
こんな風になりたくなけりゃ
あたしの話を聞いてみな
天国、煉獄、地獄と
あの世にゃ色々種類があるが
この世で楽しい思いをしたきゃ
少しは羽目を外しなよ
そう二人で
未知への旅へと行こうではな……。
「!」
演目の中の、まぁ高い方である音であった。それが少しかすれたのだ。レティスの歌をよく知っている者ならば、明らかにミスと分かるもの。だが、良く知らないものならば、もしかしたら聞き流してしまうかもしれないかすかなもの。
動揺が小波のようにレティスの胸に広がる。
そしてそれからレティスの歌は乱れた。声の伸びが悪くなり、高音も無理やり引き絞っているかのようなものがでる。歌うことに必死で、演技がおろそかになり、情感も何もなくなったかのようになってしまう。そして、そんな状態のままなんとか公演を終えると……。
魔法使いはいつもの如く、時を見てレティスの楽屋を訪れた。目の前には楽屋の扉、魔法使いは一呼吸置いてそれをノックし、彼女の言葉を待ってゆくと、
「どうぞ、入って」
どこか覇気がないような、暗く沈んだ低い声がかえってくる。そして中に入ってみると、そこには……。
また酒の入ったグラスを手に、鏡の前のスツールに腰掛けるレティスの姿があった。それは、どこか乱れたようにも見える雰囲気。そしてレティスは、表情を不機嫌にしてグラスの酒を一気にあおると、そこに新たな酒をついでいった。
「飲みすぎは喉に良くないんじゃないか。昨日も随分飲んでる」
その様子を見かねて魔法使いはレティスにそう言う。するとレティスは、どこか自嘲が入ったような調子で、
「ふふ、私の喉は鋼鉄なのよ」
「それにしては今日は調子が悪かったみたいだが」
やはり、レティスの不調を見抜いていた魔法使いであった。
するとそれにレティスは痛いところを突かれたよう顔色が変わり、キッと魔法使いを睨みつける。
「私にだって、そういうこともたまにはあるわよ!」
そんなことは分かっている、わざわざ言うなとでもいうような、そんな感じであった。
ご機嫌斜めの女王様、それに魔法使いは触れないほうがいいと判断したのか、やれやれという表情をすると、一つため息をつき、
「で、今日は何時に出る予定だ」
話の矛先を仕事の方へと持ってゆく。それにレティスはいきり立った自分を反省するかのよう、なんとか表情を緩めてグラスを卓の上に置くと、
「男爵が迎えに来るから、今日は送らなくていいわ」
それに魔法使いは「そうか……」と呟き、
「じゃあ、私はこれで戻るが……」
「ええ、ありがとう、今日はもういいわ」
どこか無理に笑っているようにも見えるレティスの表情だった。だが彼女がいいと言うのならそれでいいのだろう、ならばと言葉に甘えて、そこから立ち去ってゆく魔法使い。そして、カチャリと音を立てて扉が閉まると、レティス一人が残されたその部屋には、シンとした静けさが覆っていった。
一人になった余韻に浸るかのよう、しばらくその扉を見つめるレティス。だが、不意に湧き上がる思いに心痛するかのようレティスは表情を歪めると、スツールから立ち上がり、部屋の隅にある水差しの方へと歩いていった。それは、水を飲む為のグラスやら、手や顔を洗う為のたらいやらが置かれている場所。そこにレティスは到着すると、早速置かれた水差しへと手を伸ばしてゆく。そして、脇にあったたらいを目の前へ置くと、手にした水差しで、その中に水を張ってゆき……。そんなレティスが次にするのは、果物ナイフを手に取ること。そして、戸惑いと恐れの表情で、しばしその刃をじっと見つめていって……。やがて一つ息を吐き、躊躇いながらも抗えないといったように、ぎゅっと目を瞑り、レティスは決意してその刃を手のひらへと近づけてゆく。目的の場所に当たる刃、そしてそれを引いて傷をつけると、あふれ出した血を洗うかのよう、張った水に手をつけていって……。続いて、レティスの口からこぼれるのは……、
「ロソサナ・イチキサア・ケウ・ワーキホユ・デイオ・ケネ・ヌンアワ・オトウツ・キレホヘイ」
そう、それは、
トントントン
その時、不意に扉がノックされる音が響いた。その音に驚いて、レティスは慌ててたらいから手を引き上げる。そして濡れた手を布巾でぬぐいながら、
「誰?」
「僕だよ、アルフだ」
それは恋人、ドレーク男爵の声だった。それにレティスはホッとしたような困ったような表情を浮かべると、扉へと向かい、気持ちを切り替えるべく一つ息をついてそれを開けていった。すると、そこには想像どおり、にこやかな笑みを浮かべる男爵の姿が。そしてレティスは、
「今日は来てくれたのね。ありがとう」
気がかりなど何もないよう、満面の笑みを浮かべ、そう男爵を出迎えた。
※ ※ ※
それから男爵は楽屋へと招き入れられると、レティスの顔を見るなり、
「初日はこれなくてごめんね。どうしてもキャンセルできない用事があって」
大事な人の大事に日に予定が取れなかったことを、心から悔しがるようにそう言う。
「いいえ、いいのよ。用事なら仕方がないわ」
「でも、昨日は大成功だったみたいだし……。新聞でも絶賛していた。作品も、君のことも」
尚もこられなかったことを悔やみながら、男爵はまるで自分のことのよう嬉しげに、そうレティスを褒め称える。それにレティスは困惑した表情を見せながら、
「ええ、確かに、最高の舞台だったわ」
そう、昨日の舞台は。
だがしかし……少し嫌な沈黙が二人の間に流れる。目の前にはどこか躊躇いがちに表情を困らせる男爵が。それで手に取るように分かる、男爵の今の心の中。そしてその予感通り、男爵は言いづらそうにちょっと口ごもりながら、
「でも……今日は……」
「ええ、言わなくても分かっているわ。そう、今日は全く駄目。そういうこともあるわよ」
男爵の言葉を遮って、恐らく彼が言おうとしただろうその言葉をレティスは先回りして言う。そして、レティスは気丈な笑みを浮かべながら、
「でも、次の公演はきっと大丈夫。見ていて、観客をあっといわせてやるから」
心配は杞憂、そう訴えてくるようなレティスの笑みだった。それに男爵は安心したように微笑みを返すと、
「そう、それは心強いね」
そして、「それじゃあ……」という言葉をもらしながら、男爵は少し考え込むと、
「じゃあ、今日のことは忘れて……気晴らしに、そう、これから食事にでも行こうか」
それは、今のレティスにとって願ってもない提案であった。なので躊躇いもなく顔に満面の笑みを浮かべると、
「そうね。私ご飯まだなのよ。もうお腹ぺこぺこ」
「じゃあそうしよう。準備して、待ってるから」
にっこりと微笑む男爵。
そう、本当はどうしようもなく落ち込みそうになっていたレティスだった。気丈な振りはしていても、悔しさで胸はいっぱいで。なのでその笑みに励まされたような気持ちになると、レティスは嬉しそうに頷き、早速出かける準備をしようとした。すると、
トントントン、
再び何者かのノックの音が響く。
「はい?」
「エノーラです。またお花が届きましたので……」
「ああ、分かったわ、入って」
その言葉に、エノーラはどこかおずおずといった感じで扉を開けると、部屋の中へと入ってきた。そしてその言葉の通り、彼女の手には薔薇の花束があり……。
「これをすぐに渡していただきたいと、年配の紳士の方が……それで……」
「それで?」
何かを躊躇っているようなエノーラだった。それに気になってレティスは促すようそう尋ねると、
「その方、異国の方のようで、少し訛りが。どうやら、ルシェフの方のようで……」
ルシェフ……今までの怪しい出来事全てが、その者のせいという訳ではないだろう。どこにでもいる外国人の一ファンだとも。だが何となく嫌な予感がして、レティスは訝しげにその花束に目を向けると……おとといと同じ薔薇の花。そしてカードが入っていると思しき封筒。それは誰にも見られまいとでもいうかのよう、しっかり封がしてあり……。レティスは急いでその封を開けてみた。そして中からカードを取り出すと、食い入るようその文字に目を走らせてゆく。
すると……レティスのカードを持つ手が震える。愕然として体が凍りついたようになる。そして、
とうとう、来たのね……。
動揺も露にそのカードを握り締めてゆくレティスだった。それに男爵は困惑して、
「どうしたの、大丈夫? また、何か不吉なことでも?」
「いいえ……いいえ何でもないの。私は大丈夫よ……」
だが、全く大丈夫とはいえない様子のレティスであった。言葉とは裏腹に、顔を青ざめさせ、体を小刻みに震わせ……そう、受け入れがたい何かを見てしまったかのように。
※ ※ ※
それからレティスはすぐ準備をして、男爵とレストランへ向かった。それは、もうお馴染みとなってしまった、高級レストランでの食事。だが、味などさっぱり分からなかった。結婚の話とか、舞台の話とか、心躍らせるような話も色々出てきたが、全ては耳を素通りして、どこか違うところへと飛んでいってしまった。表面だけ聞いて表面だけの言葉を返す。そこにいながらどこにもいない空虚な自分。
過ぎる時が、身を締め付けるように痛かった。
そしてその虚ろな体を引きずりながら、やがてレティスは家へと帰っていった。それは、誰もいない一人きりの部屋。そして暗闇に灯りをともして鏡の前へゆくと、そこに自分の顔を映し、問いかけるようこう胸で呟いた。
私は臆病者。いけないと思いながらも抗えず、ぬるま湯に浸り続けているどうしようもない臆病者。染まった血をぬぐうことも出来ず、ずるずる深みに嵌り、そしてまた同じ道へ……。