第九話 夢路の果ての歌姫 その五
それから数十分後、レティスのアパート近くの路上では……。
「春~の丘には花が~咲き~、夏~のこずえにゃ鳥やど~る」
「……」
調子っぱずれな歌声が人気のない暗い街中に響いていた。そう、それはレティスの歌声。カリスマ歌姫とは思えないほど、調子の外れた。そのレティス、今は思いっきり酔っ払っていた。べろんべろんといってもいい程酔っ払っていた。そんな彼女に肩を貸し、いささか迷惑げな表情で魔法使いは道を行く。気を抜くとばったりいっちゃいそうな、千鳥足のレティスを支え、魔法使いは道を行く。そして、やがて魔法使いは彼女のアパートの扉前までやってきて……。だが、扉を開けようという意志もどっかへ飛んでしまっている彼女、仕方ないと魔法使いはバックの中から勝手に鍵を取り出して扉を開けると、レティスを部屋の中へと放り込んだ。そして、
「さっさと寝ろよ!」
そう言葉を吐き捨てて、魔法使いはその場から立ち去ろうとする。するとレティスはその言葉に、
「あらあ、寄ってかないの、きゃはははは!」
完全なる酔っ払いであった。それに魔法使いは呆れたようにため息をついて、「ふざけるな」と言うと、
「ふざけてなんかなーい。もっと飲みましょうよお。ねっ」
魔法使いのローブの裾を引っ張ってレティスは駄々をこねる。だが、もういい加減付き合っていられなかった。なので、魔法使いは眉根に皺を寄せてムッとした表情になると、
「また明日くる!」
そう言ってレティスの誘いをはねのけるよう、荒々しく扉を閉めた。すると、笑い上戸なのか何なのか、その言葉も音も、何でもかんでもおかしいかのよう、
「きゃははははは!」
そんなレティスの笑い声が扉の中から聞こえてくるのだった。それに思わず頭が痛くなって額を抑える魔法使い。そしてもういいだろうと判断してその場を去り行くが……。
「きゃははははは!」
相変わらず、部屋の中からはレティスの笑い声が響いてくる。それは、魔法使いがその場所からかなり遠く離れるまで、しっかとその耳に届いてきていて……。
だが……魔法使いは知らなかった。彼女の心には深い悲しみがあることを。彼の知らぬところで、レティスは泣いていたことを。部屋の中の、魔法使いの見えぬ場所で。そう、魔法使いの足音が段々と遠くなってゆくのを聞いていたレティス、相変わらず声を上げて笑ってはいたが、彼の気配が消えると、次第にその笑い声は小さくなってゆき、やがて……自嘲したようなものへとそれは変わっていったのであった。
そして、
ホロリと一滴涙がこぼれる。そんなレティスの口からもう笑いはこぼれていなかった。そう、悲痛な表情にまた一滴涙をこぼし、レティスはおぼつかない足取りでその場から立ち上がっていって……。そして向かった先とは……。
居間にある姿見の前であった。
そこでレティスは、着ているドレスの背中のボタンを外すと、鏡に背を向けコルセットの裾をキュッと持ち上げた。少し露になる腰の部分。するとそこには、ぼんやりとだが青黒い痣があるのであった。それはバツ印のようにも見えるが、よく見てみると逆さになった十字架で……。
何か忌まわしいものでも見るような目でその痣を見つめるレティス。そして、
「ううっ……」
とうとうこらえ切ぬよう、その痣から目をそらし、レティスは嗚咽してゆくのであった。
※ ※ ※
外へ出て、ホテルへの道をたどろうとする魔法使い。だが不意に思いついたよう振り返り、レティスの部屋を見上げる。そう、彼女は本当に大丈夫なのだろうかと、少し心配になりながら。だが、いつまでも気にしていても仕方がなかった。再び前を向き、歩き始める魔法使い。そして歩むその脳裏には、かつての記憶が蘇っていた。それは……、
「ねぇねぇ、あなた名前は? 私クララ」
それは、やたらと馴れ馴れし……いや、親しげな少女であった。そう、楽譜を拾ってあげたのが運のつき、今こそチャンスとばかりに怒涛のように話しかけられ……。それからお礼と自分は近くのカフェへと引きずりこまれると、相変わらずの勢いで根掘り葉掘り色んなことを聞かれていったのだった。圧倒されるばかりの自分。だがこれは序章、まったくの始まりに過ぎなかったのだ。そう、その後も校門の前で待ち伏せしたり、姿を見かければ後をくっついてきたり……なんとも圧倒的な行動力の少女なのであった。邪険にしても何をしても、つきまとってくる少女。勝手にしてくれと気力が切れたところで会う約束を取り付ける。まさしく竜巻、突然やってきて辺り構わず巻き込んでゆく竜巻だった。今思えば一生の不覚、人生の汚点、若かったというか何というか。だが何故かその時自分は彼女を憎めなかった。うんざりはしても、まったく拒絶することは出来なかったのである。そして……いつしか自分の懐に入った頃、彼女はベッドの中でこう言った。
「私、自分の未来が見てみたいの」
未来、それは不確かなもの。それ故正しい答えはない。無限にある選択肢からこれだと示す力は近代魔法においてはまだ開発されていなかった。
無理だ。方法はない。未来は不確か。
だが、何度そう言っても彼女は諦めようとしなかった。それに困り果てながらも、実は全く方法がない訳ではないことに、自分の気持ちは揺らいでいっていた。そう、近代魔法では無理であったが、他の魔法であれば、と。それは……黒魔法。奇しくも黒魔法の闇本が手に入ったと、友人に自慢げに見せてもらっていたところだった。自分はやらなかったが、友達で何人か集まって、それを使うのを見ていたのだった。そして自分はその友人から闇本を借りると、それを前にしばし悩んだ。そう、一度や二度軽く触れたぐらいなら黒魔法に取り込まれることはない、自分に強い心さえあれば……だがしかし……。そうして悩み悩んだ末、やがてたどり着いたのは……そう、彼女のせがみに負けたかのよう、またこの辺りの年齢なら誰でも持つ好奇心も手伝って、自分もやってみようかという気持ちに次第に傾いていったのであった。
そして彼女の血をもって行った黒魔法。それは、前回の依頼の件があるまではただ一度だけ手に染めた黒魔法で……。
水に手を浸し、呪文を唱えてしばし待つと、噂通り、闇の道への誘いが自分へとかけられる。まとわりついてくる悪魔達。だがそれを振り払って未来を見せることを願うと、やがて水面にとある光景が映っていった。そしてそれは……まるで今の彼女とは別人のような姿をした彼女だった。濃い茶色の髪はプラチナブロンドに変わり、少しふっくらした顔立ちや体つきはキュッと引き締まって大人の色香のようなものを醸し出していた。そして何より彼女を驚かせたのは、その自分が舞台の中央に立ち、多くの人から拍手喝采を浴びていたことであって……。
「これ……これが私?」
映る光景に胸の昂りが抑えられないといった感じの彼女だった。だが、一筋縄ではいかない黒魔法。その時自分は知らなかったが、これは本人が望む一番可能性の高い現実を見せる魔法だったのだ。明だけを映し、暗を隠し……。
そしてそれから彼女は血のにじむような努力をした。髪の色を変え、ダイエットをし、あの映像を切っ掛けに、彼女は努力でその変身を成し遂げていったのだ。元々歌の実力はあった彼女、なので、垢抜けた外見と共に、きっとその歌の実力も認められるだろうと思っていると、その通り、彼女は見事卒業公演の主役を射止めていったのだった。
演目は『古城の舞姫』、自分も招待されたその公演は、大成功に終わった。惜しみない拍手を送る人々、そして自分の隣でも、「ブラーヴァ!」と熱烈に拍手を送る一人の青年がいた。どこかいいとこの坊ちゃん風の身なりの青年、後で知ったがそれがドレーク男爵だった。そう、ドレーク男爵も偶然その公演に招待されていたのであった。
そして卒業後、それを切っ掛けに彼女はイース・アビィ歌劇場の専属歌手となった。やがてパトロンがついたことも彼女の手紙で知り、予言どおり栄光への道を歩んでいるらしいことをそこから察してゆくことができた。どうやら、順調であるらしい彼女、だが、二人の仲は順調とはいえなかった。そう、元々好きで付き合っていた訳ではない二人。なので、それぞれの道を歩み始め、お互い住む場所も変わって接点がなくなると、次第に彼女と会うことはなくなっていった。それが当然とでもいうかのよう、彼女と会うことはなくなっていったのだった。
そう、唯一のつながりといっていいのが、こうして思い出したよう送られてくる、手紙と彼女主演の舞台チケットぐらいで……。
※ ※ ※
疲れた体を引きずって魔法使いはホテルに戻ると、時刻はもう真夜中を回っていた。だが明日は夜公演、仕事を考えるとうんざりするが、その代わり入りもそれ程早くなく、それが救いと魔法使いはホッと息をつく。そして魔法使いは部屋の扉を開けると、
「あ、あれっ!」
どうやらまだ寝ていなかったらしい、ベッドの上に座って爪のお手入れしていたエミリアが、魔法使いの姿を見て目を丸くする。そう、どうしてここにいるの、とでもいうように。そしてその視線に困惑する魔法使いを前に、一頻りエミリアは驚きの表情を見せると、
「朝帰りじゃないんですね……」
どうやらエミリアは、あれから二人はほんとにお楽しみだと思っていたらしい。そうでないことにいかにも疑問といった感じでそう言ってくる。
それに蘇ってくるあの時のエミリア。けしかけるよう自分を置いてさっさと帰ってしまった……。仮の妻とはいえ、淡白すぎるその反応に何となく魔法使いは腹立たしい気分になって、
「何故朝帰りせにゃならん!」
そう言葉を荒げる。すると、それにエミリアはちょっと照れたように顔をうつむけると、
「お師匠様だって、健全な青年男児……」
欲望の赴くままということか、それで私を置いてきたっていうのか。だが残念、確かに健全な青年男児だが……、
「全くさっぱり何もない、私にだって好みがあるんだ」
すると、
じとっ。
疑いの眼差しが魔法使いを襲う。どうやら何もないということが信じられないらしい。それに魔法使いはため息をつくと、
「飲ませて潰して送って、部屋に放り込んだ。以上だ」
エミリアを納得させるべく、あった出来事をそのまま伝える。そう、これが真実なのだ、これ以上は何もいえないのだ。なので、これで分かってくれとエミリアの様子を窺うと、まだ何となく納得してない表情をしており……そして、
「もったいない」
「……」
そういう問題なのか、エミリアのこだわりはそこだったのかと、呆れて言葉をなくす魔法使いだった。そして、脱力した気持ちを何とか建て直し、魔法使いは表情を真剣なものに変えてゆくと、
「だが……何となく情緒が不安定になっているのを感じるな、クララは。ああいう行動に出たのも、何かやけになっているからというか、そういう気がして……理由は分からんが、少し心配だ」
あの件を思い出しいてか、少し渋いような表情で魔法使いはそう言う。するとそれにエミリアは、
「そう、なんですか……確かにそれは心配ですね。御前演奏ももうすぐですし」
「ああ」
何となく胸に引っかかる出来事であった。だが、気にはなってもそれ以上は踏み込めず、心配げな表情にただ沈黙するばかりの二人なのであった。