第八話 ムシムシ狂騒曲 その十三
それから本は無事魔法使いの元に戻り、とりあえず一段落といった感じでこの件は落ち着いていった。ムシ達も、王都だけじゃなく、それ以外の各都市からも引いていっていることがその後の新聞で分かり、どうやら全体的な収束といっていいようで、こちらも一安心といったところであった。やはり作戦は成功、なんとか災厄は逃れたといっていいらしい。
そして勿論、一段落はレヴィンや魔法使いの下だけに訪れた訳ではなく、ノーランド中の皆にもそうなのであった。そう、それでようやくといったよう、ホッと安堵してゆく皆であって……だがそんな中、隣国ルシェフでは……、
「クソッ、天敵を放ったか、ノーランドは」
そこは窓のない、硬い石壁に囲まれた薄暗い部屋であった。どこか息苦しさを感じさせる狭い部屋に、一つの卓。そしてその上には、台座と共にかなりの大きさのある水晶の球が置かれていて……。その水晶の球、この部屋を照らすよう、妖しげな光をほのかに放っており、更にその中にはとある者の顔が映し出されていた。それは、人間としてはいささか恐ろしげに見える顔。例えば赤く輝く目に、先の尖った乱杭歯、白すぎるほどに青白い肌等々……。そしてその傍らには、水晶に寄り添うよう、濃茶の長い髪を一つに縛った二十代半ばぐらいの一人の男性の姿が……。
「後もう少しだったのに、惜しいところでしたね、大悪魔ゲキー・キモレイ様。せっかくの陛下のご提案でしたのに」
水晶の傍らの青年が落ち着いた眼差しでそう言う。するとそれに大悪魔ゲキー・キモレイと呼ばれたその水晶の者は、
「ああ。だが……あの者の言葉が真実なら、あれの場所は大体見当ついておる、そう問題にすることではないだろう。問題なのは……あれだ。そう、我らの属する魔界の者にやられたということ……どうにも口惜しい」
いかにもといったその様子に、青年はコクリと頷いて神妙な表情をする。そして、
「確かに、口惜しいことであります。ですが……魔界には魔界の秩序があります故、それも致し方ないことでありましょう。それより……」
それにゲキー・キモレイはフッと鼻で笑った。
「オオクロマダラバチの女王の話か」
「はい。話によりますと、ハチの使役者は……」
「あやつだったらしいな」
「はい。我らが欲する魔法使い。なんとかこちら側に引き入れようと、オオクロマダラバチの女王も頑張ったようですが……」
「結局は取り逃がした、と」
青年は頷く。
「惜しいことをしました。もしこちら側に引き入れることが出来ていたら……まったく運のいい奴です」
悔しげな青年。だがそれに水晶の中の悪魔は不敵に笑い、
「そう焦るな、まだ時間はある」
「確かに……今でなくてもいいことです。やらねばならないことが、我々にはまだまだ沢山あるのですから」
真摯な眼差し。まるでそのやるべきことの前には、このことすらも小事であるというかのように。すると、それに納得するよう悪魔はコクリと頷いてゆくと、
「そう。まずは大事なあれからだ。準備は着々と進んでいる。魍魎の生き残りも、この地に集まりつつある。後はそれを実行に移すのみなのだから」
何かを含んだかのようなゲキー・キモレイの言葉であった。そして、それにゲキー・キモレイは歯をむき出しにしてゆくと、口角をキュッと上げ、何とも恐ろしげな笑みをその口元に浮かべていった。それをほのかに照らす水晶の光。そしてそれを受けて青年も、不気味な微笑みを口元に浮かべてゆくと、
「はい、陛下も待ちわびております」
※ ※ ※
あれから時は過ぎ、ムシの驚異も過去のものとなって、再びノーランドに平和が戻ってきた。そう、ようやく生活も普通に戻り、活気というものが人々の間に蘇っていったのだった。締め切られた窓も開け放たれ、街は明るいものとなり、あの時の面影を探すことすら難しいようになっていったのだった。人々も笑ってあの災難を話せるようになり、受けた傷も癒えたかのように見えたそんな頃、そう、どうにか傷痕も薄くなり、大分きれいになったかのように見えた……そんな頃、それを見計らったよう魔法使いの屋敷には、
「いやいや、やっぱりやってくれたね。わしが思ったとおりだ。あんたならできると思っていたよ。これでチチちゃんもぐっすり眠れる。あんたのおかげだ」
ご満悦の笑顔で、そう言う町長の姿があった。そう、依頼完遂を察して、そのお礼に彼はここへとやって来たのである。今町長は通された居間の食卓の席に座り、嬉しさを隠しきれないといった表情であれやこれや隣にいる魔法使いに言葉をかけていた。それはひたすら上機嫌といっていい町長であったが、一方の魔法使いは……、
「あ……ありがたいお言葉です……」
何故か表情を引きつらせながら、視線を町長ではなく、その足元へと向けて言葉を発していた。おののいたようにも見えるその表情、それは、まるでそこにいる何かが気になって仕方がないといったような様子で……。
なぜなら、そこには、
「ガルルルルルルル」
そう、チチちゃんであった。町長が一緒に連れてきたのであった。元々はテリア系の、可愛い顔立ちをしたチチちゃん、だが今はその顔に獰猛な歯をむき出して、魔法使いに向かってうなり声を上げている。
ったく、この犬は相変わらず……。
今にも飛び掛ってきそうな気配に、冷や汗を流しながらそう毒づく魔法使い。そして更に、
誰もいなければ蹴飛ばしてやるところなのだが……。
なんとも物騒、まったくもって物騒。だが今は飼い主の目の前、勿論そんなことできる訳もなく、魔法使いはひたすらおののいていると、
「はい、ドライフルーツのパウンドケーキに紅茶です。どうぞ召し上がってください!」
明るい微笑みと共に、軽やかな足取りでエミリアが台所からお盆を持って現れる。その上にはエミリアの言葉通り、カットされたドライフルーツのパウンドケーキと紅茶が乗っており、甘いいい香りを辺りに漂わせていた。そして早速賞味してもらおうと、微笑みのまま、エミリアはそれらを二人に振舞ってゆくと……ふと目を落とした視線の先、そう町長の足元に、可愛いワンちゃん、チチちゃんがいるのにエミリアは気づく。そして、
「あら、あなたがチチちゃんですね。可愛いお顔をしてますね~」
思わず表情を綻ばせ、チチちゃんの顔を覗き込むエミリアであった。するとチチちゃんはエミリアを見て、
「クウ~ン」
甘えた鳴き声を出して、尻尾をフリフリしてゆくのだった。
「いやいや、やっぱりそう思うかい。お嬢さんは良く分かっている。チチちゃんもお嬢さんのことを分かっているみたいだな。な、チチちゃん」
そう言って町長は親ばか振りを発揮し、足元のチチちゃんにとろけるような眼差しを送ってゆくのだった。勿論チチちゃんもそれに答えるかのよう、更に甘えた声を出してゆき……。
何故、何故だ、何故私にはうなるのだ。
いまやエミリアはチチちゃんに手を伸ばして体中を撫で撫でしており、それを受けてチチちゃんも、気持ち良さそうな顔をして、なんと腹まで出している。そう、あの獰猛な顔など微塵もみせず。
入り込めない世界。自分だけは何故か。
それに困惑するよう、魔法使いは引きつった愛想笑いを浮かべると、何故なんだと真剣に頭を悩ませながら、今一度チチちゃんを見下ろした。すると……、
「ガルルルルルルル」
目が合った途端、身構え、うなり声を上げてゆくチチちゃんなのであった。
それを見て思わず魔法使いは、
クソッ、このバカ犬は!
第八話はここで終了です。次から新しい話が始まります!