第八話 ムシムシ狂騒曲 その十
書斎に戻って、とりあえずたらいを応接部分のテーブルの上に置いた魔法使い、次に為すべきことを考えながら、今度は机の方へと向かってゆく。そして机の引き出しを開けてそこからナイフを取り出すと、それを手に再び応接部分へと戻った。
ソファーに腰掛け、大きく一つ深呼吸。そしてそのナイフを見つめる。
まだ心のどこかに躊躇いがあった。だが、いつまでもそうぐずぐずしている訳にもいられなかった。そう、きっと為せることを信じて魔法使いは決意を固めると、ナイフの刃を出して、それを手のひらへと近づけていった。やがてその部分に押し当てられるナイフの刃。そして魔法使いはそれを軽くスッと引くと、刃はきれいな真一文字を描いて、皮膚を裂いていった。途端にあふれ出す真紅の血液。滴るほどに血をあふれさせると、魔法使いは手をたらいの中へと浸していった。水の中で血は流れ続ける。それは筋雲のような模様を描きながら、次第に水を赤く染めてゆき……。
「ホオアネ・スアビチ・エエキレ・ホゾヨドタ・ネ・エエコホ・ユ・デイオ・ロソサネ・ヌンアワ・オトウツ・キレホヘイ」
呟いたそれは黒魔法の呪文。
想像も知識も必要ない。ただその時を待つだけ。すると、手を浸すたらいから、不意に煙のようなものがゆらり立ち上がると、やがてそれは上へいくにしたがって段々大きくなり、ぼんやり人の姿を形作っていった。いや、人のように見えるが、人ではないもの。そう、背に茶色味がかった透明の羽をつけ、黒く大きな楕円の目を持った一人の女性の姿が、そこに。そしてその女性は目の前の魔法使いを見遣ると、
「我を呼んだのはそなたか?」
「そうだ、お前は……」
何者か? と魔法使いが問おうとすると、それよりも先、その者はニヤリと笑い、
「我はオオクロマダラバチの女王じゃ」
それは、どこか妖艶な雰囲気を持った女性。匂い立つ色香をかもし出しながらも、王らしき威厳も兼ね備えた。
成程納得の正体であった。確かに呪文からそれとは察していたが、やはりはっきりと口に出されてそうかと確信するもので……。それにコクリと頷く魔法使い。そして、相手がオオクロマダラバチの女王ならば話は早いとばかりに、
「聞いてもらいたい頼みごとがある」
するとその女性オオクロマダラバチの女王は、魔法使いの申し出を察していたかのよう、意味ありげな笑みを口元に浮かべ、
「それは、頼みごとにもよるのう」
なんとも曖昧な言葉であった。だが、それでも叶えてもらえるならばと、魔法使いは早速、
「今この世界を混乱に陥れている、コウタクハガネムシを駆逐して欲しいのだが……」
笑みを浮かべたまま、なるほど頷くオオクロマダラバチの女王。
「確かにこの世はコウタクハガネムシであふれておるよのう。そう、我らオオクロマダラバチはコウタクハガネムシの天敵、気奴らを肉団子にして幼虫に食わせる。つまり……獲物としてコウタクハガネムシを襲撃せよということだな」
「そうだ」
「我はオオクロマダラバチを統べる者、決して不可能なことではない。じゃが……」
「だが?」
「我らも生きておる。命をつなぐ為にはここで全てを噛み殺す訳にはいかんのじゃ。あちらがあきらめるか、こちらがあきらめるかのせめぎあいになると思うが……」
これも完全無欠な方法ではないということらしい。だが、他に方法が見つからない今、多少の不安材料で引くなんてこと、出来る訳がなかった。確かに迷いを覚える決断ではあったが、こうなってはと魔法使いは一つため息をつくと、
「それも……いたしかたないか。決着がついたら、大人しく魔界に帰ると約束するならば」
「おお、約束しよう」
「コウタクハガネムシ以外襲わないということも?」
「約束しよう」
それに納得したよう頷く魔法使い。そして、
「では、私も条件を飲む。この願い聞き入れるか?」
すると、オオクロマダラバチの女王は魔法使いの言葉に不敵に笑い、了解を示してコクリと頷いた。そしてその場に跪いて頭をたれ、
「あなたの命に従いましょう」
そして再び顔を上げ、
「これでそなたがこのハチ達の使役者、思い通りに動かすと良い」
※ ※ ※
それから魔法使いは書棚からノーランドの地図を持ってくると、それをテーブルの上に広げた。効率的に物事を進めるために、まずどこを攻撃するか戦略を立てるためである。そして赤ペンで大きな都市に丸をつけてゆくと、
「最初は……王都だな。そこから北上して、クロスビー、ダンベリー、ラッドガム……と、数を増やしてゆこう」
王都から北へと向かって、順繰りその都市を指で指し示してゆく魔法使い。すると、それにオオクロマダラバチの女王は、
「御意。では、水に手を沈めハチ達に命ずるがいい、この世に出でてコウタクハガネムシを攻撃せよと」
とうとう始まりの時が来たようだった。それを感じて魔法使いは頷くと、たらいの水に手をつけていった。そして、
「オオクロマダラバチよ、この世に出で、コウタクハガネムシを攻撃せよ。まずは王都だ」
すると、そのほんのり血の色に染まった水は緩やかに波打ち、そこにとある映像を映し出していった。その映像とは、この屋敷の真上の景色。そこにぽっかりと空いた黒い穴が水面へと映っていったのである。それは異世界への入り口。そしてそこから大量のムシ、そうオオクロマダラバチがわらわらと湧き出てきて……。この部屋にまで聞こえてくる、ハチの羽音。ブンブンと不気味に、その猛威を示すかのよう低く絶え間なく響いてくる。そしてその大量のハチは大空を舞い、更に上へと突き抜けると、ものすごい勢いで結界を破り、王都の方へと向かって飛んでいって……。
「状況はこの水にそなたが手を浸せば逐次見ることができる。命令をしたいときも同様じゃ。だが……すぐに効果は出ないだろうから、長期戦を覚悟いたせよ」
※ ※ ※
そしてあの空間から放たれたハチは、それから空を飛び続け、数時間で王都に到達した。
その光景を、たらいの中の水鏡が映し出す。そう、命令どおりコウタクハガネムシを攻撃するオオクロマダラバチの姿を。鋭い毒針でその体を刺し、強靭な大顎で噛み砕くその姿を。だがあくまで目標はコウタクハガネムシのみ。魔法使いが期待した通りの効果であった。そう、全く、本当に……。
だが一方で、街の人々は新たなるムシの来襲におののいているようだった。見た目にも恐ろしげでコウタクハガネムシよりも攻撃的に感じられるオオクロマダラバチ、人を襲わないということは誰も知らなかったから、その出現に恐れるのも当然であろう。
大混乱に陥る王都。突然ともいえるハチの猛襲であったから、ただひたすら人々は恐れに息を詰め、ぴったりと扉を閉じその成り行きを見つめるばかりであった。そう、全く甲虫だけでもうんざりだったのに、今度はハチか、と。
そして新聞の見出しにもそれが踊った時、
『アシュリー、アシュリー!』
不意に念が魔法使いの頭に響いてきた。馴染みのあるこの声……そう、レヴィンである。
『全く次から次へと、今度はハチだよ、ハチ。謎のハチ。またルシェフかな』
すると、それに魔法使いは呪文を唱えると、
『これは違う。人は襲わんから、安心しろ』
『安心しろって……もしかしてこれ、君の仕業? これがもう一つの案?』
『いいから黙って見てろ』
そう、今はどうにも黙って見ているしかないのだ。なので、とりあえず今はと何とも納得いかない様子のレヴィンを無理やり黙らせると、一旦念を切り、魔法使いは再び食い入るよう水鏡を覗いていった。
次から次へと押し寄せるハチ。一向におさまる気配のない、相変わらずなその光景。
だがやがて人々は気付いていった。
そのハチはあの謎の甲虫を、それもそれだけを襲っているということに。噛み砕く様をその目で見た者もいるし、何よりあれほど外にあふれていた甲虫の姿が、段々減りつつあるのを見て取ることができたからだ。外のムシが減れば、中に入ってくるムシも減る。少しずつ甲虫の害が減ってきているのに人々は気付いて、もしやという気持ちにとらわれていった。もしやあのハチが甲虫を、と。嵐の如き外の光景に、やはり恐怖感は拭えずにいたが。
そして再び魔法使いの屋敷、たらいの中の水面から彼はその手ごたえを感じ取ると、ハチの一部を王都だけではなく、今度は北の町にも向けていった。そう、
「今度はダンベリー、クロスビーへと向かえ」
水に手を浸し、ハチ達にそう命令して。
そして魔法使いのその命令は段々と北上して行き、コリンスター、クラークバラ……と範囲をどんどん広げ、やがて主な都市をハチ達は手中におさめていった。そうして……ある日、そう、順調に計画は進みいっているかのように思えたそんなある日、オオクロマダラバチの女王は魔法使いにこう尋ねた。
「まだか?」、と。
だが、まだ完全とは言い難かった。大分数は減ったものの、相変わらず北からコウタクハガネムシは放たれていたからだ。ここでやめては元の木阿弥になってしまう。なので魔法使いは言う。
「まだだ」
「おお、わがままな御仁じゃ」
困ったものだという雰囲気をかもし出しながら、面白いように笑ってオオクロマダラバチの女王はそう言う。そしてもうしばしの時が過ぎ……
「まだか?」
「まだだ」
二人の応酬が続いていった。