第八話 ムシムシ狂騒曲 その七
それから魔法使いはエミリアにかかる魔法を解いて人間に戻すと、急いで家へと向かっていった。
そう、その足で、馬車の駅へと向かって。あまりにも慌てていた為か、つい行きと同じ経路をたどろうとしてしまって……。だが、考えてみれば転移魔法というものがあるのであった。それならあっという間、一瞬のこと。つい癖で今更気付いてしまったが、こういう状態なら躊躇することはないと、ならばそれを使うまでと、エミリアを抱き寄せ、魔法使いは早速呪文を唱える。
すると、いつもの如く暗黒の亜空間を抜けて到着するのは、屋敷の前庭。辺りを見回せば、すぐ近くには屋敷の扉が迫っており、魔法使い達は焦る気持ちを抑えながら、鍵を開け、その扉を開け、急いで中へと入っていった。そして、玄関ホールを抜け、廊下を行って、駆け足で地下室への階段を降りてゆくと……ようやく見えてきた地下室の扉。それを目の前にして、無事でありますように、そう胸に思いながら、神に祈るような気持ちで魔法使いは扉を開けていった。すると、
「!」
目の前に現れたのは、紛れもないあの本をしまった金庫。何か大事なものでも守るかのよう、球形のほのかな光がやさしくそれを包みこんでいる。そう、それは魔法使いのかけた封印の魔法。その光の儚さとは裏腹に、固く固く外敵から守られて……。確かに、守られていた。いや、その筈だった。だが今それは、玉虫色に輝く小さな物体に多くの場所を占拠されており……。そう、コウタクハガネムシである。
やはり……と思って、魔法使いは放置してしまったことに舌打ちをする。
まさかムシの狙いが本だとは、地下室にまで目がいってなかった!
思わずクソッ! と胸で毒づきながら、魔法使いは慌てて封印の中を確認する。そう、まだムシが侵入していないかどうかを確かめるべく。すると……、
「無事だ……」
どうやらムシは封印を食い破ってはいなかったらしい。光の中はきれいな空間を保っており、目の前にしたその様子に、ようやく魔法使いの口から安堵の息がもれる。
そして魔法使いは群がるムシ達を荒っぽい手つきで全て払うと、このやろこのやろとでもいうよう踏みつけられるものはぺしゃんこにして、もう一度強固に金庫へと封印をかけていった。だが、このまま放っておけばまたムシが群がるだけだろう。そして群がったその後は……今回は無事だったが、次回もそうとは限らない。
そうそれは、あまりにも芳しくない状況。その状況に、思わずといったよう魔法使いは顔をしかめると、そろそろとポケットの中のあの紙へと手を伸ばしてゆく。そう、グレンが書いたあの黒魔法の呪文の紙である。そしてその紙を手に見つめながら、使うべきかどうか魔法使いは逡巡した。できれば使いたくない方法、だが手段が見つからなければ……紙を見つめてしばしの時が流れる。だがやがて、まるで最初から何も見ていなかったかのよう、魔法使いは紙をクシャリと握り締めると、再びそれをズボンのポケットへとしまっていった。
再度の逡巡、そしてその末に魔法使いがたどり着いたのは……。
目を閉じ、呪文を唱えながら意識を集中する。手のひらにその意識の固まりが集まってくるのを感じる。そして下げた手を天へと向けると、魔法使いは意識を念に変え空に飛ばしていった。
そう、屋敷を抜け王宮へと向かって。
レヴィンに念を送るべく。
今、レヴィンは自室にいるだろうか。
いれば探すのは簡単。だがいないとなると……。
困難になってしまう仕事に頭が痛くなるのを感じながら、魔法使いはひたすら念を飛ばしてゆく。
お忍び好きなレヴィン、なのでいない確率もかなり高いのだが……隠しきれない不安を抱えながら、なんとかいてくれと願って、魔法使いはレヴィンへと向かって念を送っていった。
すると……、
※ ※ ※
ここは王宮にあるレヴィンの自室。夕闇がせまりつつあるこの室内で、レヴィンはとあるものを前にああだこうだと悩んでいた。それは金糸の縁取りの着いた上着だの、きっちり糊のきいたシャツだの、色とりどりのさまざまな衣装。そう、今夜レヴィンはバークラム侯爵主催の舞踏会に招待されおり、その衣装選びに頭を悩ませていたのである。
これはお忍びではない正式なお呼ばれ、それにちょっと胸をわくわくさせながら、レヴィンは侍従が出してくる服に、これはいい、あれは駄目だの、色々指図していった。すると、不意に、
『レヴィン! レヴィン!』
レヴィンの頭の中に念が入ってくる。
「な……」
なんだ? と、驚きに思わず口に出そうとして、レヴィンは慌てて言葉を呑む。
そう、一人ではないこの部屋、突然そんな声を出せばすぐ側の侍従が訝しげに思うだろうから。なので、レヴィンはその場を誤魔化すよう侍従に向かって引きつった笑みを浮かべると、
「なんでもないよ」
そして衣装選びはいったん休止し、一体何者かともう一度頭に響いたその声に耳を澄ましてゆくと、
『レヴィン!』
……アシュリーじゃないか。
思いっきり聞き覚えのある声、それで彼と察して、レヴィンは思わず眉をひそめる。だが、珍しいといえば珍しい彼の呼びかけ、それに少々驚きながら、またタイミングの悪さに迷惑な思いもしながら、一体何の用だとレヴィンは頭を悩ませる。そして小さく呪文を唱えると、
『何、聞こえてるよ』
とりあえずそう言葉を返してみる。するとその念に、どこかホッとしたような空気が伝わってきて、
『頼みたいことがある。念じゃなんだから、こっちへ来てくれ。場所は……そうだな、屋敷の書斎だ』
呼んだと思ったら、こっちの都合も構わずこれである。いつもは訪ねていくと迷惑がっているのに、こういう時だけは自分の意見を通そうとしてくるのだから……。それにレヴィンはなんだか面白くない気がして、
『そんな、突然言われても、こっちだって都合があるんだ。無理だよ』
意固地になってそう言う。するとそれに魔法使いは、
『ノーランドにかかわる一大事だ。こい』
やたら強引な言い方であった。その強引にレヴィンは更に意固地になって、
『む・り・だ・よ』
『……』
途端に沈黙する魔法使い。
そこにはどこかムッとした雰囲気が漂っているような風もあり……だが、それでも無理なものは無理なのであった。なので、思わず張り合うようレヴィンも沈黙してゆくと……意固地と意固地がぶつかり合うよう、淡々と流れゆく沈黙。それはかなりの長きに渡るもので、心根が優しい……というかヘタレな部分もあるレヴィンは、段々と心配になってくる。思わず、『おーい』と言ってみたりもする彼であったが……だがそれでも、沈黙は相変わらずで……。
ちょっと、言い過ぎたかな……。
大体、いつもなら返ってくるのは更なる応酬なのだ。なのにこのうんともすんとも言わない反応は、彼の行動パターンからすると、意外も意外といえるものであり……。なので思わずといったよう、言い過ぎてしまったか、言い過ぎて怒らせてしまったかと、逆に申し訳ないような気持ちになってしまうレヴィン。そして続く沈黙に、じわじわ後悔の念が胸に過ってゆくのを感じていると……不意にザザザと耳障りな雑音がレヴィンの耳に入ってくる。そしてやがて……、
『殿下、エミリアです』
交代して聞こえてきたのはエミリアの愛らしい声。
『エミリア! 元気にしてるかい?』
なんで、どうしてと思いつつも、声が聞ける喜びに、感激しきりとレヴィンは態度をころっと変えそう言う。すると、
『はい! それで……大事なお話があるんで、来て欲しいんですけど……私のお願い聞いてくれますか?』
どうやらあの沈黙はエミリアを呼びにいっていてのものであったらしい。取り敢えず、魔法使いを怒らせた訳ではないことにレヴィンはホッとすると、また一方で、久しぶりにエミリアと話せた喜びに、胸がいっぱいになってゆく彼なのであった。そして、相変わらずなんで、と思いつつも、この可愛らしくも困りもののお願いに、唯ひたすら頭を悩ませていって……、
そう、出席を約束しまった以上、舞踏会へは行かねばならない。そしてその出発の時間は刻々とせまっており……。だが、エミリアに会えるというこの機会も是非とも逃したくなかった。となると……レヴィンは心の底から悩んだ。どちらにするべきか、葛藤で胸が引き裂かれんばかりに。本当に、困り果てて途方に暮れてしまう程に……。だが、これはエミリアの頼みなのだ。他の誰でもないエミリアの。ならば、やはりこれはとレヴィンは、
『勿論だよ』