第八話 ムシムシ狂騒曲 その五
父親は飲んだくれ、それに愛想を尽かしてか母親は失踪。そう、荒れた家庭に思い余って、姉は雨の降るある日、幼い魔法使い、アシュリーの手を引いて家を出て行ったのであった。そしてやがてやってきたのはとある家の前、そう、あの自称黒魔法も嗜むもぐりの魔法使いの家であった。木造の古びた扉。その扉を目の前にして、姉は決意を定めたようキュッと口を引き結んでゆくと、思い切ってそれを叩いていった。すると、やがて開かれた扉から覗いてきたのは面倒くさそうに歪めたあの者の顔で……。そして、
「もしもあなたを驚かせたら、私のいうこと聞いてくれる?」
強い眼差しで姉はそう言った。
それは、何故だか今でもはっきりと覚えている光景で……。
そしてアシュリーは「ほら」と姉にせかされると、言われるがまま、その者に魔法を披露していったのだった。その時は何がなんだか分からなかったが、とにかく褒めてもらいたい気持ちでいっぱいで。そうさせられたことの意味を知るのは、もっとずっと後で。ただ今はがむしゃらに、ひたすらがむしゃらに自分の力を精一杯出して……。そしてそれがどう捉えられたのか、その数カ月後、アシュリーがくぐっていたのは……なんと名門と呼ばれる全寮制の魔法学校の門であって……。
そう、魔法使いであった母親から素質を見出されていたアシュリー、それを姉は知っていて、この窮状を脱する為、何とか弟を魔法使いにしてあげられないかと、彼女は村の魔法使いの門を叩いたのだった。家にはお金がない、残った父親には理解がない。なので、これが子供にできる精一杯のことだったのだろう。そして姉が思ったとおり、披露した弟の魔法はこの者の心を動かし、弟子としてではなく、保護者に成り代わって魔法学校への入学に尽力してくれることになったのだ。
だが何故弟子ではなく、魔法学校なのか。それは、弟子になって魔法を学ぶにしても、魔法学校に入って学ぶにしても、魔法使いになるには通らねばならない道、魔法大学があったからであった。難関といわれるそこへの合格率は、弟子になって学ぶよりも魔法学校に入った方が高かったのだ。なので、かなりの金銭を要求されるにもかかわらず、幼き才能を伸ばすため、この者はアシュリーを魔法学校に入れることを選択したのだった。
だが、アシュリーは知らなかった。その時あまりに幼く、記憶もおぼろげだったから。力になってくれている人がいるということは知りつつも、詳しいことは全く知らなかったのだ。長期休暇に入っても何故か帰省することを許さない姉。いつもアシュリーは広い寮の中で一人残されていた。貧しいせいと言い聞かせ、アシュリーは寂しさを紛らわせていたが……。
だが十五になったその年の夏休み、少年アシュリーは貯めたお小遣いで思い切って帰省してみることにした。久しぶりの実家。姉は、父はどうしているだろうと、緊張と不安と期待を胸に家への道をたどっていった。そして、
「姉さん、父さん?」
家の門をくぐり、扉を開け、アシュリーはそう呼びかけた。だが、何の声も返ってこず、その姿も見えず……代わりにいたのは、見覚えのあるようなないような三十歳くらいの一人の男性。そしてその男性からは黒魔法を使っていたと思しき気配が漂っており……。そう、法では認められていない魔法。裏社会ではびこる……。
「きさま、黒魔法使い!」
一体何故そのような者がここにいるのか、一瞬それも過りはしたが、それよりまずは攻撃だった。そう、不審なこの侵入者を取り押さえるべく、少年アシュリーは身構え、そして魔法の呪文を唱えていって……。すると、
「待って! 駄目よ! この人は!」
不意にそんな声が割って入ってきた。振り返ってみれば、そこには姉の姿が。どうやら自分が訪れてきたことにようやく気付いて、ここにやってきたらしい。だが何故か姉は慌てたような表情で、アシュリーを制止するようそう叫んでくる。そしてもう一度「駄目よ!」と言うと、姉はその者とアシュリーの間に入って立ちはだかり……。
「姉さん、どいてくれ! そいつは!」
何故だかその行動をやめない姉。そして更に、
「駄目! この人はあなたを学校へやってくれた人よ!」
叫ぶようなその言葉の後、三人の間に重い沈黙が覆っていった。そして少年アシュリーは言葉をなくして呆然とする。
自分を学校へやってくれた人? この黒魔法使いが……。
「……」
「おう、アシュリーか、久しぶりだな。あんなにちっこかったのが、体だけは随分成長したもんだ」
どこか脳天気な言葉がアシュリーの耳を打つ。だが、当のアシュリーはそれどころではなかった。
放校処分。
放校処分。
放校処分。
これがばれれば間違いなく、そうなるだろう。そう、それはあまりの衝撃。それにアシュリーは頭の中が真っ白になると、ぐるぐると放校処分の言葉がそこを駆け巡る。
「なーに、ぼけっと突っ立ってるんだ。足長お兄さんに挨拶はないのか? 弟よ」
「お、おとうと??」
寝耳に水の更なる言葉に、アシュリーは目をむいて姉を見遣る。するとそこにはちょっと照れたようにもじもじする姉の姿があった。
「少し前に、結婚したのよ。アシュリーにも知らせなきゃ知らせなきゃと思ってたんだけど……今は勉学に集中させるべきかなって」
頬を染める姉。
「く……黒魔法使いの……義兄……」
くらくらと眩暈までしてくるアシュリーだった。だがそれに納得がいかないようその者は、
「人聞きの悪い。俺は黒魔法も嗜む普通の魔法使いだ。まあ、資格はないが……」
だが、それはどう聞いてもアシュリーにはへ理屈にしか聞こえなかった。しかもなんと、
「も、もぐり……」
立ち直れないアシュリー。なるほど、家に帰るなと言っていた意味がようやく分かったような気がする。
「やっぱり、世間では認められない存在だから、あなたがもうちょっと大きくなってから言おうと思ってたんだけど……」
想像通り大ショックを受けている弟を前に、姉は少し申し訳なさそうな表情でそう言う。すると、
「だが俺は、黒魔法を使うが、黒魔法に操られるほど身は落としてないぞ。純粋に知的好奇心の為だ。そう、魔法なんぞ、黒かろうが白かろうが、使う人の心一つだ。だからま、安心しろ」
相変わらず脳天気にそう言う義兄。確かにそっちはそれでいいかもしれないが、こちらとしては……それにもう我慢がならないと、とうとう少年アシュリーはぶち切れて、
「そんな言葉なんかで、安心できるかー!」
そう、私は姉の犠牲で魔法大学まで上がったのだ。哀れに姉はこの黒魔法使い野郎の餌食となって……。
めらめらと湧き上がってくる怒り。絶対この結婚は認められないと、固く胸に誓いながら。
だが……心の中で怒っても、それは詮の無いこと。そして、そんな気持ちも知らぬよう、目の前の人間は、相変わらず人をおちょくるような眼差しで魔法使いを見つめており……。
「ん? ティルダの犠牲? いやいや、ティルダと俺のおかげだろう。言葉を間違っちゃいけないよ」
魔法使いの言葉に、楽しむかのよう義兄はそう応酬してくる。そう、睨む魔法使いの視線も気にせぬよう、全くふてぶてしく。すると、それにとうとう魔法使いは、
「言葉を間違えてるのはお前の方だ、このロリコン黒魔法使い!」
「聞き捨てならないな、俺とティルダが結婚したのは、彼女がちゃんと大人になってからだ」
「そうせざるを得ない状況に、お前が持っていったんだろうが!」
たぶらかしたのはおまえだ、まるでそういいたげな魔法使いの言葉に、義兄は面白くないような顔をする。そして、
「愛はあるぞ、愛は。言わせてもらえば、そう言うお前だって随分可愛いお嬢さんを連れてきてるじゃないか」
「これは弟子だ!」
一緒にされてたまるかというように、魔法使いは忌々しげにそう叫ぶ。
するとその言葉に、姉は残念そうな表情をし、
「あら、弟子なの。てっきりおめでたい話なのかとばっかり。残念。あ、そうそう。そういえば自己紹介がまだだったわね。私はマティルダ、彼は夫でグレンよ」
「私はエミリアです。よろしくお願いします」
争う二人はさておき、こっちはこっちでという感じでエミリアはにっこり笑う。それにお姉さんも微笑を返すと、
「ああ、ほんとに残念だわ。私達だって、ねぇ」
「そう、俺とティルダだって、最初は魔法使いと助手の関係だった」
「私は弟子には手を出さん!」
剣呑な色を眼差しに浮かべて魔法使いはそう言う。すると義兄は、
「いやいや、人生というものを侮っちゃいけないよ。何があるかは神のみぞ知る」
どこまでも脳天気、神経に障るほど脳天気。それにいい加減にしろというように、魔法使いは、
「とにかく、エミリアは関係ない! それより……」
そうして、それからも二人の言い争いは続いてゆくのだった。そう、
「二人の結婚もお前の存在も、弟として絶対認めん!」だの、「このロリコン黒魔法使いが!」だの、「おまえが姉をたぶらかしたから、今があるんだ!」だの。いや、勝手に怒っているのは魔法使いの方だけで、それを義兄グレンがいいようにいなしているような感じではあったが。
ぐちぐちぐちぐち、
ぶつぶつぶつぶつ
ああだ、こうだ、
やいの、やいの、
いつまでも続くそんな状態。それは思わず耳を塞ぎたくなってしまうような二人のやり取りで、マティルダはしばし黙ってそれを聞いていたが……だが、中々終わりを見せないそれに、さすがに我慢がならなくなってきたのか、段々表情を険しいものに彼女は変えてゆくと、やがて……。
とうとう限界に達したかのように、勢いよく食卓の椅子から立ち上がる。そして、椀を手に台所にある水瓶の水を汲んでくると、
バシャ!
「もう、いい加減にしなさい!」
そう叫んで二人に水をぶっ掛けてゆき……。
さすが、この弟にしてこの姉ありというか……見かけによらず、なかなか豪胆な部分も持ち合わせているようであった。当の二人も、これにはさすがに頭が冷やされたようで……思わずといったよう、出かけた言葉を呑み込んでゆく。
そう、それは中々に壮絶なる光景。本当に、ただただ圧倒されるばかりの。それをエミリアは傍らで見つめながら、恐る恐るマティルダに……、
「あ、あの、この二人って……」
「そう、犬猿の仲なのよ」