第七話 魍魎の憂鬱 その十
小鳥の鳴く、さわやかな朝。差し込む明るい陽光が、一日の始まりを告げるよう、人々をまどろみから呼び覚ます。誰の下にも平等に降り注そそぐ陽光。そしてシェーラもその光を浴びて、揺り起こされるようゆっくり眠りから目覚めた。すると目に入ってくるのは、石造りの灰色の壁、天井。
あれっ、あたしの部屋は真っ白な漆喰の壁のはず。それとも丘の下の家に戻ってきたのだろうか……。
ぼんやりとした頭の中で、この見覚えのない光景に不思議になりそう思う。だが、普通に考えればそれはありえないこと。そして何か嫌な予感がしてシェーラはハッと起き上がると、視界に入ってきたのはにっこにことしたあの魍魎の顔で……。何故ここに……とまじまじその姿を見つめてゆくと、そこにあったのは……。ベッドの傍らに置かれた椅子にちょこんと座り、いかにも嬉しそうな表情を浮かべる魍魎の姿。それはまったく思いがけないことであり……。その思ってもいない者の出現に、シェーラはパッチリ目が覚め、おののいてベッドの上を後ずさる。
「お、お、お、おまえ、何でここに」
そして、そういえばと先程過った嫌な予感を思い出すと、シェーラは今一度じっくり辺りを見回してゆく。すると……やはりそこは全く見覚えのない部屋。それにシェーラは、自分があの家から連れ去られたことを悟り、
「おまえ、あたしをっ!」
「薬を嗅がせてもう少し深く眠ってもらってね。それでここへつれてきたのだよ。それから私はずっと至福の時を過ごさせてもらった」
「至福の時?」
「美しい寝顔を、十分堪能させてもらった」
相変わらずの魍魎のにっこにこ顔。
それに、思わずといったようシェーラは頬をひくつかせると、拳をギュッと握りしめ……。そう、その言葉から、どうやら魍魎はここに座ってずっと自分の寝顔を見ていたらしいことを察して。
「そんなことをして……おまえは楽しいのか」
「ああ、楽しいとも。これから私は楽しみの連続だ。だが……まずは自己紹介かな。私の名はトリ・サシーテだ、よろしく。おまえの名は……シェーラでいいのだろう」
思いがけず発せられた自分の名前に、シェーラは驚いたように目を見張る。
「あたしの名前……知ってるのか」
「ああ、知ってるとも。何でも知ってる」
するとその言葉に、何となく自分の生活が覗かれているような気分になって、シェーラは思わず背に悪寒を走らせてゆく。そして、
「なんか気味が悪いぞ。何で知っている」
「まあそれは……いいではないか。そんなことより……そうだな、次にすべきは……そう、お互いの呼び名かな」
「呼び名?」
「そう、いわゆるあだ名だ。おまえの名はシェーラだから……うーん……しーちゃん、しーちゃんはどうだ?」
「シーチャン!?」
突然飛び出したその訳の分からぬ呼び名に、シェーラはきょとんとして疑問の声を出す。すると魍魎は、
「そうだ、お互いをあだ名で呼び合う、いいではないか。私のことはさっくん、そう、さっくんと呼んでくれ」
何故だか走ってゆく不快感。それにシェーラは、
魍魎と自分があだ名で呼び合う?
そんな姿を想像して、冗談じゃないとばかりに再び拳を握りしめる。そして、
「何が何でも断る」
出会った時の印象からして最悪、更には家から連れ去るというこの仕打ちなのだから、そうそう簡単に態度なんて変えられる訳がないのだ。なので、意地でも嫌だとシェーラはそう言うと、
「それが私の理想だったのだが……」
その言葉に深く心傷つけられたとでもいうよう、魍魎はしょんぼりとした表情でがっくり肩を落としてゆく。それは、いささか哀れにも見える姿で、思わずシェーラの胸に罪悪感が湧き上がってゆくが……だが、それは早急というもの、すぐに開き直ったよう魍魎は顔を上げると、
「まあいい、まだまだお楽しみは沢山ある」
シェーラの頭はガンガン痛んだ。
「まだあるのか……」
「そう、これが次のお楽しみ」
そう言って魍魎は椅子から立ちあがり、部屋の中央へ置かれているテーブルへと向かっていった。
するとそこには……パンやら目玉焼きやら焼いたベーコンやら、どうやら朝食らしきものが、それほど大きくない四角いテーブルの上に乗っかっていたのだ。
「夫婦揃って食卓を囲んで朝食、ああ、夢のような光景ではないか。そして朝食の後は朝のお散歩。そう、犬など飼って一緒に連れて歩くのもいいかもしれんな。時々は遠くへ旅行なんぞして、それで……」
またもや始まった魍魎の自分勝手な甘い妄想。一人で勝手に浸ってゆくのはいいが、それを聞かせられる方の身としては……それも自分を妻と決め付けて。それにシェーラはとうとう頭を抱えて、
「……あたしはおまえと夫婦になった覚えはないぞ。大体魍魎が目玉焼きを食うなんて、初めて聞いた」
実は、魍魎にとってそこは結構痛いところであった。なので、魍魎は具合の悪さ隠すようコホンと咳払いをすると、
「細かいことはどうでもよかろう。私は食べられないが、一緒に食べているような気分を味わいたいのだ。家族の団欒、温かい家庭、いいではないか。それが私の理想。おまえもそうではないか?」
それにグッと言葉に詰まるシェーラ。温かい家庭、確かにそれは誰もが夢に描くもの。厳しい境遇にいれば尚更に。だが、だがしかし……、
「だけど、その相手はおまえじゃない!」
思い直したようそう言って、シェーラは顔を背ける。するとその言葉に、またしても傷つけられたよう表情を曇らせてゆく魍魎。そう、中々叶えられぬ自分の夢、それに心が痛むかのように。そして魍魎はその表情のまま、
「そう言うのなら仕方がないが……だが朝食ぐらいは食べても良かろう。おまえも腹が減っているだろうし」
確かにその通り、お腹は鳴りそうなほどにすいていた。更に困ったことに、彼女の目の先にあるあの料理が、出来立ての湯気を立たせながら、いかにもおいしそうな匂いを発してきており……。ならば……。
※ ※ ※
そしてその後、食卓には席に落ち着く二人の姿があった。相変わらず魍魎はにっこにこ笑いながら、いかにもそれが楽しいとでもいうように、シェーラの様子をじっと見ている。だがそれは、シェーラにとって実に……、
食べづらい……。
そう、非常に居心地悪く感じるその視線に、つくづくそう思ってしまうシェーラだった。そしてその食べづらさの中、シェーラは食事を口に運んでゆくと、
「味覚というものがないのでな、上手く作れたか自信はないのだが……」
「……中々旨いよ」
それは本心だった。確かに味はいい。シェーラは素直にその気持ちを伝えると、よほどその言葉が嬉しかったのか、魍魎の顔は更ににっこにこになってゆくのだった。そう、全く単純にも。なので、それに思わずといったようシェーラは呆れると、何となく食べづらさが増したような気もしながら、そのまま手を動かしてゆく。そう、彼の視線にもめげず、シェーラはナイフとフォークを使って丁寧に、固いながらも丁寧に、本当に上流のお嬢様のような仕草で料理を食べてゆく。だがそれは……どこか不自然でもある姿。魍魎もそれに気付いて、なんとも納得いかないような表情でその仕草を見つめてゆくと、
「なんだか、思ったよりお上品に食べるのだな。私はもっと、がつがついくのかと思っていたが」
「けど、それが正しい食べ方なんだろう。そうしなさいと、私は父さんにいわれた」
これでも一生懸命な自分を否定されて、面白くないようにシェーラは口をとがらせる。
するとその言葉に魍魎は残念そうな顔をして、
「それはそうだが……それではあまりおいしそうには見えんのう。私はおまえがおいしそうに食べ物をほおばる姿が見たかったのだが……大体、あの時の身なりからおまえは貧しい村娘かと思っていたぞ。自分も苦しいだろう中から食べ物を分け与えてくれたことに私は感激したのだが……丘の下の村を探しに探しても見つからず、ようやく見つけたと思ったら大豪邸、腰が抜けるかと思ったぞ」
その時のことを思い出してかしみじみと魍魎はそう言う。だが、それは分かっているようで何も分かっていない言葉、それを感じてシェーラはむっとすると、
「こっちにはこっちの事情があるんだ」
そう、確かに自分は丘の下の村娘だった。とってもとっても貧乏な。だけど突然お迎えがきて、それから自分は……村には友達がいた。母親は亡くなってしまっていたけど、じいちゃんとばあちゃんがいた。貧しくって貧しくって、毎日お腹いっぱい食べるということが出来ない生活だったけど、息が詰まるようなことはなかった。そう、息が詰まるようなことは……。
蘇る記憶にシェーラはつらい気持ちになる。
そして途端に食欲がなくなったよう、シェーラはナイフとフォークを動かす手を止めると、
「はあ……」
それに心配げにシェーラの顔を覗き込む魍魎。そして魍魎は、
「どうした、食べないのか?」
「ん……」
なんと答えたらいいのか分からず、シェーラは曖昧な答えをする。するとそれに魍魎は、自分の言った言葉がシェーラを傷つけてしまったとでも思ったのか、困惑したような顔をして、
「無理にほおばれとはいわんよ。無理には。だが……」
そしてシェーラからフォークを奪って目玉焼きをそのままぶっ刺すと、
「たまにはがぶりといくのもいいだろう、がぶりと」
目の前にとろりとした黄身のしたたる目玉焼きが迫る。それを見てシェーラは……。
そうだ、今は厳しく目を光らせる人がいる訳ではないのだ、作法を気にして食べる必要もない。魍魎だって、あたしががつがついく姿を期待しているようだし……。
それならばとシェーラは、作法を捨て、ナイフを置き、魍魎からフォークを受け取って、それだけで目玉焼きをぱくついていった。
それに、これこそとばかりに満足げにシェーラを見つめる魍魎。
するとその時、ふと何かに気がついたよう、魍魎は壁の鏡に目を留めた。それは、銀製の縁取りがしてある大きな鏡。その鏡の面が何故かここの部屋の景色ではなく、違うものを映し始めたからだ。そして魍魎は何だと鏡に近づいてゆくと、じっとその面を見つめていった。するとそこに映っていたのは、どこかの森らしき場所を彷徨っている魔法使いの姿。そう、この鏡は、何者かが屋敷に近づいてくるとその姿を映すようになっているのだ。つまりこれは、魔法使いが屋敷に近づいてきたという証であり……。
それに魍魎は表情を歪めると、
「全く、この憩いの時を、破ろうとする輩がいる」
憎々しげにそう言った。