第2話「冷え切った台所に灯る、無自覚な光と温もり」
翌朝、ヴィオラは夜明け前の薄暗い時間から目を覚ました。
寝台の冷たいシーツから身を起こすと、部屋の空気は吐く息が白く染まるほどに冷え切っている。
彼女は手早く簡素な綿のドレスに着替え、髪を後ろで一つにまとめると、誰に案内されるでもなく城館の長い廊下を歩き出した。
石造りの壁から伝わる冷気は肌を刺すようだったが、ヴィオラの足取りに迷いはない。
かすかに漂ってくる火の気配と、土の匂いを頼りに階段を下りていくと、やがて広大な台所へとたどり着いた。
台所は城館の規模に対してひどく閑散としており、巨大な竈の火は半分しか入っていない。
作業台の向こうで、白髪の混じった初老の料理人が一人、大根のような根菜を無表情に切り刻んでいた。
ヴィオラは足音を忍ばせて近づき、作業台の前に立つ。
「おはようございます。お手伝いさせてください」
突然背後から聞こえた澄んだ声に、料理人のヨハン爺は驚いて包丁を止めた。
振り返った先には、昨日到着したばかりの若く美しい辺境伯の妻が、袖をまくり上げた姿で立っている。
ヨハン爺は信じられないものを見るように目を瞬き、慌てて背筋を伸ばした。
「お、奥様。ここは貴族の立ち入る場所ではございません。どうかお部屋にお戻りください」
ヴィオラは首を横に振り、鞄から取り出した自分の古い包丁を静かに台の上に置いた。
「私のことは気にしないでください。ただ、この場所の空気が好きなのです」
拒絶する隙を与えない静かな微笑みに押され、ヨハン爺は戸惑いながらもそれ以上止める言葉を見つけられなかった。
ヴィオラは籠に入っていた不揃いな人参と玉ねぎを手に取ると、流しで丁寧に土を洗い落とし始める。
ヨハン爺はその手つきを横目で見て、微かに目を見張った。
王都の料理人が見せるような華麗で速い包丁捌きではない。
しかし、彼女の動作には食材の繊維や形に対する深い敬意のようなものが宿っていた。
皮を剥き、均等な大きさに切り分ける一つ一つの所作に、まったく無駄がない。
切られた野菜たちが、まるで本来あるべき姿に戻ったかのように瑞々しい断面を見せている。
大きな鉄鍋に水を張り、火にかける。
ヴィオラが鍋の縁に手を添え、ゆっくりと木のへらで中身をかき混ぜ始めたその時だった。
ヨハン爺の目には見えない微小な光の粒が、どこからともなく台所の隅々に集まり始めた。
それは朝の光の乱反射のようにも見えたが、意志を持ったように鍋の周囲をぐるぐると漂い始める。
精霊たちだった。
ヴィオラが無自覚に放つ穏やかな波長に惹きつけられた精霊たちが、鍋の下の炎に力を与え、熱の通り方を完璧な均等に調整していく。
野菜の甘みが極限まで引き出され、硬い筋は舌の上で溶けるほどに柔らかく煮崩れていく。
沸き立つ灰汁は精霊の風によって自然に中央へと集められ、ヴィオラがそれをすくい取るたびに、透き通った黄金色のスープが姿を現した。
台所いっぱいに、腹の底から温まるような濃厚で優しい香りが満ちていく。
ヨハン爺は思わず包丁を置き、吸い寄せられるように鍋を覗き込んだ。
「……味見を、お願いできますか?」
ヴィオラが木製の小さな匙ですくい、そっと差し出す。
「……なんじゃ、これ。まるで、昔の婆さんが作ってくれたあったかいやつみたいだ」
ヨハン爺の目尻にじわりと涙が浮かぶ。
ヴィオラはほっとしたように目尻を下げ、ただ静かに微笑んだ。
朝食の準備が整い始めた頃、台所の入り口の分厚い木扉の陰から、小さな視線がこちらを覗いていることにヴィオラは気がついた。
黒い髪に、空の青を切り取ったような瞳を持った少女。
レオンハルトの娘、エルナだった。
ヴィオラは視線を合わせず、気づかないふりをしながら小さな木の器にスープをたっぷりと注ぐ。
焼きたての黒パンを添えて、それを台所の窓際の低い台の上にそっと置いた。
「もし良ければ、味見をしてくれませんか。一人では食べきれなくて」
ヴィオラはエルナの方を見ないまま、壁に向かって独り言のように声をかける。
エルナは扉の陰でビクッと肩を揺らしたが、逃げることはせず、じっとスープから立ち上る湯気を見つめていた。
ヴィオラは自分の分の器を持つと、台所の反対側の隅に移動して背を向け、ゆっくりとスープを飲み始める。
近づかない。
無理に言葉を引き出そうとしない。
ただ、そこに居ていいのだという空気だけを作って待つ。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
背後で、小さな足音が微かに石畳を擦る音がした。
続いて、木の器が微かに触れ合う音。
ずずっ、と小さな唇がスープをすする音が響き、台所に静寂が戻る。
「……かあさまのにおいがする」
ぽつりとこぼれ落ちたその言葉は、震えて水気を帯びていた。
ヴィオラは振り返ることなく、器を持ったままそっと目を閉じる。
『よかった』
心の中でだけそうつぶやき、ヴィオラは再び静かにスープを口に運んだ。
その日から、エルナはまるで小さな影法師のように、一定の距離を保ちながらヴィオラの後をこっそりとついて回るようになった。




