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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

お嬢様とスライムはずっといっしょ

作者: 神田義一

 ティーカップを小さく傾けながら、彼女――シャルロット・ド・リーヴェは微笑を浮かべる。

 その隣、ぷわぷわと漂いながら、紅茶の香りをかぐように揺れているのは、一匹の薄桃色のスライムだった。


「ぷに〜」


 名前は『ぷにちゃん』。

 何にでも変身できるという、不思議なスキルを持ったスライムである。


 シャルロットにとって、ぷにちゃんは幼いころからの友達であり、いつも一緒にいる唯一無二の相棒だった。

 父の護衛騎士や、屋敷のメイドたちも最初は警戒していたが、今では誰もが彼の存在を認めていた。


 今日もまた、シャルロットはぷにちゃんと一緒に午後の自由時間を満喫している。


「えへへ、ぷにちゃん、今日もまた変身して遊んでくれるの!? じゃあ今日は……ママになってみてっ!」

「ぷにっ!」


 次の瞬間、ぷにちゃんはみるみるうちに体型を変化させ、シャルロットの母、サフィナ夫人そのものへと姿を変えた。


「……まぁ、そっくり! なんだかちょっとおでこのシワが多い気がするけど……」


 それもそのはず――ぷにちゃんの持つスキル《変身》は、ただの物真似ではない。

 見た目を似せるのではなく、その対象を「記憶」し、内面や癖までも忠実に再現するという、まるで神の細工のような模倣能力なのだ。


 故に、シャルロットが「ママ」と呼んだその姿は、外見こそ美しさを湛えていたが、目元に浮かぶ微細なシワの入り方、口角の上がる癖、仕草の間合いまでもが、彼女の実母――サフィナ・ド・リーヴェ夫人のそれに、恐ろしいほど酷似していた。


「ぷに?」


 眉をひそめるような動作まで完璧に模したぷにちゃんを見て、シャルロットは思わず吹き出しそうになりながらも、小声で呟いた。


「そういえば……最近ママ、小じわを気にしてるのよね。朝から晩まで、鏡の前で“ここの影がイヤ”だの“夜用クリームが減ってる”だのって、ずっと言ってるの」


 夫人は美貌に誇りを持つ女性だった。

 だが時の流れには逆らえず、今では巧みな化粧術と優雅な立ち居振る舞いで、かつての輝きを保とうと懸命だった。


 そんな母の“素顔”をも忠実に写し取ったスライムの芸の細かさに、シャルロットは苦笑を浮かべながら、ふと幼い記憶を思い出す。


 ――この子を、初めて手にしたあの日のことを。


『このスライムはな、変身するものを“嘘偽りなく、完璧に”真似ることができるんだ』


 そう語ったのは、彼女の父――オズワルド・ド・リーヴェ侯爵だった。


『見た目も、声も、所作も、その人間が隠している癖や真実まで。だからこそ使いようによっては――ぞっとするほど役に立つ。わっはっは、まぁお前には遊び相手として渡すだけだがな!』


 豪快な笑い声と共に、小さな瓶詰めのようにして渡された、ぷにぷにと弾力のある球体。

 それが、今目の前で母親の“弱点”まで再現している、ぷにちゃんの初めの姿だった。


「うふふ、ママに知れたら怒られちゃうわね。ふふっ……」


 唇を指先で隠すようにして笑いながら、シャルロットは椅子から軽やかに立ち上がる。


「じゃあ次は――」


 彼女が次々と指示を飛ばすと、ぷにちゃんは調子に乗って変身を繰り返す。


 今度は父上に。

 家の飼いドラゴンに。

 果てはティーカップや椅子にまで変身してみせて、シャルロットの笑いを誘った。


「あははっ! ……じゃあ、次は……わたくしっ!」


 シャルロットは期待に目を輝かせながら、手を掲げた。


「ぷぅに!」


 ぷにちゃんは、ふわりと跳ねて変身を始める。


 自分と同じ髪、自分と同じドレス、自分と同じ瞳。

 わたくしが、もう一人できたら……いろいろ遊べそう。

 お洋服を着せ替えたり、姿勢の練習をしたり。

 ママを驚かせて、また叱られて、でもちょっと笑ってもらったり。


 ――そんな風に、想像していた。


 けれど。


 目の前に現れた“それ”を見た瞬間、シャルロットの笑顔は凍りついた。


 そこに立っていたのは、人の姿ではなかった。

 円筒状の……ガラス張りの……何か。

 中は澄んだ液体で満たされており、浮かぶのは――


 なにこれ。

 なに、これ……?


「ぷにっ!」


 ぷにちゃんは誇らしげに揺れながら、その“物体”から元の丸い姿に戻る。

 シャルロットに再び笑みが戻った。


「……ちょ、ちょっともうっ。冗談だったの? わたくしよ? わたくしになりなさいな!」

「ぷぅうにぃ!」


 ぷにちゃんはもう一度、変身する。

 そして再び現れたのは、先ほどと同じ。


「……ッ……」


 ――冷たい管が張り巡らされた筒状の装置。

 液体に揺れる、何か。脳のようにも見える、わからない『器官』。


「い……いやっ!」


 声が震える。心臓が早鐘のように鳴る。


 これは――何?

 なぜ、これが“わたくし”なの?


 頭の中に、砂をぶちまけたようなざわめきが広がる。


 キカイ。

 精密な、キカイ。


 ――キカイって……なんだったかしら。


 ……ドクン……ドクン……。


 心臓が鳴り止まない。

 冷たい汗が全身を伝う。


 だめ、思い出せない。


 目の端が揺れる。

 世界が歪む。

 ぷにちゃんが、どこか遠くに感じる。


「こんなの……何かの間違い……」


 シャルロットは、掠れた声で呟いた。


「そう……そうよ、きっと、ぷにちゃんが……わたくしのこと、からかって……」


 この子はイタズラが好きだ。

 メイド長の姿で食堂に現れたり、犬に変身してドレスの裾を引っ張ったり――そんなこと、何度もあった。


 でも。

 でも、ぷにちゃんは、わたくしの命令を拒んだことなんて、一度もない。



『このスライムはな、変身するものを“嘘偽りなく、完璧に”真似ることができるんだ。』



 ……もし。


 もし、ぷにちゃんがわたくしの本当の姿を真似たのだとしたら――。


「それが……本当のわたくしだとしたら……」


 ぞくりと、背中を冷たいものが這った。


「はぁっ……はぁっ……!」


 空気が、うまく吸えない。

 視界が狭まる。

 頭が割れそうに痛い。


「いや……!」


 知りたくなかった。

 お願いなんて、するべきじゃなかった。


「ぷに〜?」

「い、いやあああああっ!!」


 叫びと同時に、身体が崩れ落ちる。

 手が、地面を叩いた。


 ――でも。


 自分の指先は、確かに温かかった。


 胸に手を当てる。柔らかい感触。

 静かに刻まれる鼓動。


 足は震え、汗が全身を濡らしていた。

 服が張り付いて、気持ち悪いくらいに体温を感じる。


「じゃあ……この感触は……?」


 腕。頬。唇。太もも。

 全部、確かに“自分”だった。


 なのに――


 視界に、ノイズが走る。


 ちら、ちら――

 まるで鏡が壊れたように、視界の端が滲み、揺れ、音が割れる。


「やだ……やだやだ……! 嘘よ、嘘嘘ッ!!」


 もはや、目も開けたくなくなった。

 声が涙混じりに漏れる。


「嘘だって……言ってよ……」


 膝をついたまま、シャルロットは目を上げた。

 視界の先――そこに"ある"のは、変身したぷにちゃんの姿。


 ガラスの筒。

 培養液の中に、何かの器官が浮かんでいるようだった。


「ちがう……ちがう……っ!」


 ぷにちゃんは、何も言わない。

 ただ、泡を吐いて、静かに揺れていた。


 わたくしが……本当に、そんな存在だって言いたいの?


 目が霞む。

 心臓がどこか遠くにあるような気がする。


 わからない。

 こわい。

 こわい……。


「ぷに〜〜〜!!」


 遠くから、愛しい声が聞こえた。

 耳の奥に響く、どこまでも優しくて、どこまでも真っ直ぐな――あの子の声。


「ぷ……に……?」


 顔を上げようと力を込めるも、身体はふらりと揺れる。


 ──そして、意識はそこで、すとんと落ちた。



 * * *



「……ん……」


 まぶたの奥が、温かい陽射しに照らされている。


 シャルロットはゆっくりと目を開けた。


 視界には、白い天蓋。

 天井のレースが柔らかく揺れている。

 胸元には、ふんわりとした寝巻きの感触。


「……ここは……?」


 自室のベッドだった。


 紅茶の香りもしない。ティーカップもない。

 けれど、すぐ隣で――


「ぷに……」


 あの子がいた。


 愛しい、愛しいスライム。

 シャルロットのぷにちゃんが、目の前にいた。


「ぷにちゃんっ……!」


 涙が溢れた。

 声にならないまま、彼女は思わずその小さな身体を抱きしめた。


「……よかった……夢、だったのね……」


 スライムの柔らかい身体が、シャルロットの胸元でぷにぷにと震える。


 さっきまでの謎の姿はもうない。

 いつもと同じ、彼女の声に反応して、すり寄ってくるだけの不定形の魔物。


 さっきまでのは全部、なにか悪い夢を見ただけ。


 もし、わたくしが“そう”だったとしても。

 それに気づいてしまうことが、何か決定的な"間違い"になる気がして止まないから。


「……離れないでね、ぷにちゃん……」

「ぷに」


 ぎゅ、と胸元で抱きしめたまま、もう一度、シャルロットは目を閉じる。


 それから先、彼女は二度と「自分に変身して」とは言わなかった。


 笑って。

 おしゃべりして。

 紅茶を飲んで。

 お洋服の話をして。


 いつか恋愛して、素敵な恋人などもできるのだろう。


 まるで何もなかったように、日々は続いていった。

 けれど、その奥底で、シャルロットは知っていた。

 あの日――何か決定的な"間違い"に触れてしまったことを。


 それでも。

 その手の中に、ぷにちゃんがいる限り。


 彼女は、今日も変わらぬ朝を迎え、微笑んで生きていた。



 * * *



 培養液の中は、静かに揺れていた。


 無機質な筒状の装置。分厚いガラスの内側には、仄かに青い液体が満たされており、その中央に浮かぶのは――ひとつの脳。


 電極が幾重にも絡みつき、脳へと微細な電流が送り込まれている。

 チカチカと明滅する制御パネル。

 わずかに震える気泡。

 生命維持装置の無慈悲な音。


 何も語らないその装置が、すべてを物語っていた。


 それは、十年前の事故によって、全身を失ったひとりの少女の、唯一残された「本体」だった。


 人としての形はもうない。

 心臓も、声帯も、手足もない。

 ただ、"思考の器"としての脳が、そこにあった。


 そして、彼女の家族は――少女がかつて夢中で語っていた「小説の世界」を、脳へ送り続けることを選んだ。


 そこでの彼女はお嬢様で。

 大好きな動物や魔物達に囲まれていて。

 いつか、素敵な男性と、素敵な恋をするの。


 中でも、もしもスライムが現実にいたら――なんて、いつものように語っていた。


 最新の神経接続技術と、AIが生成する仮想環境。

 少女の記憶を手がかりに作られた、もう一つの世界。


 異世界と冒険者。

 勇者と魔王。

 剣と魔法のバトル。

 旅路。


 そして――スライム。


 そこは、永遠に続く幸せな夢だった。

 誰にも邪魔されず、彼女が望むものが全て手に入る、かけがえのない桃源郷。


 ──だからこそ。


 目の前で、スライムが変身した「それ」が現れた時、夢と現実の狭間がほんの一瞬だけ、綻びを見せた。

 彼女の脳は、それを「違和感」として認識した。

 現実から、届いてはならない断片が、“真実”という名のノイズが、夢の泡を破ってしまった。


「ぷに!」


 あの、どこまでも無垢な声。


 夢であっても、嘘であっても。

『ぷにちゃん』がいる限り、そこには“絆”という真実が、確かにあるのだと。


 ガラスの向こうで、制御装置が静かに光る。

 少女の脳は、微かに反応し、再び穏やかな脳波を描いた。


 ──夢は、続いている。



 永遠に。



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