心残り
リーゼルとエリナが夕餉の支度をしている厨房からは、よい匂いが漂っている。
カレヴィは、調理には手を出さないものの、テーブルに皿を並べたりといった手伝いをするようになっていた。
リーゼルたちは、まだカレヴィを病み上がりだと気遣ってくれる。
しかし、カレヴィとしては床を離れて日常生活を送れるようになっているし、彼自身の性分からも、何もしないでいるのは却って居心地が悪いと感じられたのだ。
「この匂いは……香草と肉のス―プか」
「当たりよ。少し前に作った時、カレヴィが美味しそうに食べていたから、気に入ったのかと思って」
何気なく呟いたカレヴィに、リーゼルが明るく答えた。
「ああ、ここで頂いている食事は、どれも美味しいが、あの肉のスープは、特に私の好きな味だったと思う」
「よかった。他にも、食べたいものがあったら遠慮なく言ってね」
「いいのか……いや、出されたものは何も言わずに食べるべしと教えられていたから……」
カレヴィが言うと、リーゼルは少し驚いた顔を見せた。
「本当に厳しい生活をしていたのね……」
そこへ、オットーがやってきた。
「おお、旨そうな匂いだ。エリナの料理は何でも旨いからなぁ」
「うふふ、今日はリーゼルが頑張ったのよ」
「そうかそうか、あの小さかったリーゼルが、立派になったものだ」
エリナの言葉に、相好を崩しながらテーブルに着くオットーを見て、カレヴィも口元を綻ばせた。
――この二人は、リーゼルを本当の娘のように思っているのだな。
料理が完成し、全員がテーブルに着いて他愛もない話をしながら食事をする――いつもの和やかな雰囲気は、カレヴィにとって当たり前になりつつあり、心地よいものだ。
許されるものなら、ずっと、こうしていたい――そうも思いつつ、カレヴィは揺れる心を押さえつけ、言うべき言葉を紡ごうとしていた。
食事を終え、茶を飲んで一服する一家を前に、意を決したカレヴィは口を開いた。
「……お話ししたいことがあります」
いつになく真剣なカレヴィの表情に、リーゼルたちも少し驚いた様子だった。
「実は、そろそろ、ここを出ようと思っています」
「そんな、どうして……な、何か、嫌なことでもあったの?」
取り乱すリーゼルを、オットーが宥めた。
「まず、カレヴィの話を聞きなさい」
はっとして口を噤み、悲しげな目で見つめてくるリーゼルの姿に、たじろぎながらもカレヴィは言葉を続けた。
「言うか言うまいか迷いましたが……私は、とある身分の高い相手の不興を買い、この身に魔法による『呪い』を受けています。ただ生きているだけであれば支障はないかもしれませんが、私自身としては、やはり、このままではいられないと考えました」
「まぁ、『呪い』? 全く気付かなかったわ。一体、どんな『呪い』なの?」
エリナが、驚きの目でカレヴィを見つめた。
「『呪い』の詳細については……申し訳ありませんが、伏せておきたいのです。私の恥ずかしい部分でもあるので……」
自分のことを女性と思っている一家に本当のことを言うのは、カレヴィには憚られた。
「そう……言いにくいこともあるわよね」
エリナが深く追求してこなかった為、カレヴィは少し安堵した。
「おそらく、この『呪い』を解除するには高度な魔法の技術が必要でしょう。ですから、私は『魔法都市ルミナス』へ行ってみようと思っています」
「たしかに、最初から『ルミナス』へ行って解析してもらうのが、結局は最も効率がいいかもしれないわね。ところで……」
言って、エリナはカレヴィに探るような目を向けた。
「あなたが不興を買った相手というのは、もしかして、タイヴァスの女帝、モルティスなのでは?」
彼女の言葉に、カレヴィは息を呑んだ。
「ここに来た時に、あなたが着ていた服は、ある程度身分の高い……王宮へも出入りできるような武人のもののように思えたの。そして、高度な魔法技術を持つ、身分の高い者として考えられるのは、女帝モルティス……かと思ったのだけど」
「そうです。……エリナ殿は、モルティスのことを御存知なのですか」
「彼女は、ルミナスの出身なの。私が留学した当時――四十年以上前だけど、既にルミナス始まって以来の天才魔術師と言われていたわ。ただ、いつの間にか姿を消していて……それが、突然タイヴァスの女帝として現れたと聞いた時は、驚いたわね」
――なるほど、強大な力を持つ魔女モルティスが、魔法先進国と言えるルミナス出身というのは、納得できる話だ。
カレヴィが考えていると、オットーが口を挟んだ。
「そうか。キュステからは、ルミナスへ直行する船がないから、一旦、大陸の大きな港のある街へ移動して、そこからルミナス行きの船に乗れば比較的早く着けるだろう。船賃は心配しなくてもいいぞ」
「それは……これまでお世話になった上、ルミナスまでの船賃まで出していただくなど……行く先々で日雇いの仕事でも何でもして路銀を稼ごうと考えていたのですが」
オットーの思いもかけない申し出を受けて、カレヴィは狼狽えた。
「なに、我々は、君を気に入っているのさ。だから、力になれることがあれば、してあげたいと思う、それだけでは、駄目かい?」
「……ありがとうございます。お世話になった分は、時間がかかっても、お返ししたく思います」
目的を果たしたなら、再び、ここに帰ってこなければ――カレヴィは、胸が熱くなるのを感じた。
「……あの、私もルミナスに行きたいの」
それまで沈黙していたリーゼルが、口を開いた。
「それはまた、急な話だな」
オットーとエリナが、愛娘の顔を見つめた。
「急でもないわ。魔法を学んでいる者として、ルミナスは憧れの街だもの。前から興味はあったのよ。カレヴィと一緒なら安心だし、いい機会だと思って……」
リーゼルは、そう言ってカレヴィに目をやった。
彼女の言葉は、カレヴィの胸を高鳴らせた。
カレヴィが、この家から出るのを躊躇っていたのは、リーゼルと離れることを考えると辛い気持ちになるという理由もあった。
しかし、カレヴィの中に、はたしてリーゼルを自分の目的達成の旅に巻き込んで良いものか、という迷いが新たに生じた。
「でも、カレヴィにとっては迷惑じゃないかしら? 彼女は物見遊山に行く訳じゃないのよ」
「分かってる。でも、私だって魔法が使えるし、道中でも役に立てると思うわ」
宥めるようにエリナが言ったものの、リーゼルは必死に食い下がった。
――オットー殿たちは、リーゼルを宝物のように大切にしている。まず間違いなく、反対する姿勢を変えないだろう。リーゼルの気持ちは嬉しいが……
そんなことを思いながら、カレヴィは言った。
「……ご両親から、お許しが出たなら、私としてはリーゼルとルミナスに向かうのも問題ありません」
彼の言葉に、リーゼルが、一瞬、顔を輝かせた。
「リーゼルのことについては、後で、改めて話し合おう。いいね?」
オットーが言うと、リーゼルは無言で頷いた。
その夜、カレヴィが床に就いた後も、リーゼルとオットー、そしてエリナの三人は、遅くまで話し合いをしていた様子だった。